上の空に潤んだ彼女の瞳には、窓の向こうで咲き誇る桜が映っている。
俺はぎこちなく彼女の中を動きながら、締めつけるうねりからまとわりつく快感に、軽く息を切らす。春先の午後、家の中は俺の息遣い以外、静かだった。とうさんもかあさんも仕事。兄貴はどうしているのだろう。
やっぱ……女のところかな。
だとしても、まさか、弟の俺がこの人を抱いているとは思わないよな。
俺は彼女の鎖骨に顔をうずめ、小さく咬みつきながら動きを強めた。彼女は俺の背中に腕をまわし、しがみついてくる。
それは、俺が高校生になるのをひかえた春休みのことだった。大学生の兄貴は、恋人の灯夜さんをさしおいて浮気をした。たいそうな喧嘩をしたらしい。でも、結局灯夜さんが折れて、俺たちの家を訪ねてきたのだけど、家には春休みの俺しかいなかった。
そこで、俺は兄貴のやったことを知り、子供ながらに憤慨していたのだが、兄貴はなかなか帰ってこない。マンション敷地内の桜が、窓の向こうではらはら散っている。
「卯摘くんは、神那くんみたいなこと、しないよね」
灯夜さんが不意に口を開いた。
「何で私、神那くんが好きなんだろうね」
灯夜さんは哀しそうに咲った。それが妙に俺をかきたてた。かきまぜるほど泡立っていくみたいに、胸の中で疼きがいっぱいに広がった。
つい灯夜さんの腕を引き寄せて、キスをしてしまった。キスは、中学生のとき、ちょっとだけつきあった女の子としたことがある。でも、その先は分からない──でも、灯夜さんが引き継いで俺を導いてくれた。
灯夜さんとは、そのときだけだ。一回きり。終わって片づけて、気まずくソファに並んでいると、両親が帰宅した。灯夜さんの話を聞いた両親は、ようやく帰ってきた兄貴をしかり飛ばし、ふたりは元鞘になった。
灯夜さんには、あんなの気の迷いだ。俺も気を紛らしてやりたかっただけだ。さっさと忘れないと。
実際、兄貴と灯夜さんはその後順調だったようで、俺が二十歳になった頃に結婚した。
俺も、同じ大学に通う清夏という女の子とつきあうようになっていた。どこかで、灯夜さんの瞳に映った桜がちらちらよみがえることもある。でも、振り切って清夏を早めに家族に紹介もして、なぜか俺と清夏、兄貴と灯夜さんで食事したりもするようになった。
灯夜さんは、何事もなかったように普通だ。だから、俺も何事もなかったように振る舞う。
「もし灯夜さんがおねえさんになったら、あたし、嬉しいなあ」
清夏は無邪気にそんなことを言う。清夏はパーカーにパンツみたいな、ボーイッシュなファッションを好む。髪はショートで、性格もさっぱりしていてしゃべっていて気持ちがいい。
「私も、清夏ちゃんみたいな妹がいたら楽しそう」
灯夜さんは、白や水色のさわやかな色合いのワンピースを着ていることが多い。波は内巻きのセミロング。おっとりした人で、めったに怒ったりしない。
でも、さすがに兄貴の浮気には怒ったんだよなあ、となんて思っていると、「卯摘は、清夏ちゃんと将来考えてるのか?」と兄貴が俺に話を振ってくる。
「あー、まあ家には兄貴と灯夜さんがいるし、まず部屋借りて、同棲から入っていけたらいいなって」
「大学出てお互い就職して、先立つものができてからですけどね」
「清夏ちゃん、やっぱしっかりしてるなー」
兄貴は咲って、灯夜さんも咲っている。
就職かあ、なんて思いつつ、俺は厚めにカットされた牛カツを食べる。近所の揚げ物屋であるここは、やっぱりこれが一番うまい。
会計のときは、いつも兄貴がまとめてはらう。俺はそれに甘えておくけど、清夏は俺に自分の支払いを預ける。この場で直接兄貴に返そうとしても、「いいよいいよ」と断られてしまうからだ。
兄貴と灯夜さんはそのまま帰るけど、俺は清夏を駅まで送っていく。残暑のぬるい風の中、「同棲とか考えてくれてたんだねえ」といつになく清夏は嬉しそうだ。
俺は清夏と手をつなぎながら、「実際住んでみないと、何の感覚が合わないかも分かんないしなー」と言う。こういうのを言ったとき、あたしたちに合わないとこなんてないよ、と感情的にならず、「そこはすりあわせて仲良くやりたいね」と落ち着いて答えてくれる、清夏のそういうところが好きだ。
改札まで清夏を見送ると、俺は自宅に帰宅した。両親と灯夜さんはリビングにいて、俺と清夏の話をしていた。「清夏ちゃんが娘になるのも楽しみだなあ」「卯摘のことしっかり見守ってくれそうで安心ね」なんてとうさんとかあさんも盛り上がっている。兄貴は風呂に入っているそうで、預かった金は断られる前に財布と置いとくか、といつも兄貴が貴重品をまとめているダッシュボードの引き出しを開けた。
さすがに財布を開けることはせず、その上に清夏に預かった紙幣を乗せておく。引き出しには、スマホも入っていた。スマホって貴重品だろうか。いや、何かと大事だとは思うけど──俺なら持ち歩くので、変わってんなあと引き出しを閉じようとしたときだった。
画面がぱっと着信した。メッセアプリのポップアップが出た。
『やっと週末終わったね。
月曜日、職場で会えるの楽しみ。
大好きだよ!』
──は?
俺はそのポップアップを凝視してしまったが、そのうち、ふっと画面は落ちて着信ランプだけがちかちかと残った。
職場で……会うの、楽しみ。いや、そんなことより、『大好きだよ』って……
高校進学直前、あの桜が降りしきる日の記憶がよみがえる。まさか、兄貴──また、やってる? 浮気、……いや、もう結婚しているのだから不倫か。
マジかよ。
あれで懲りなかったのか?
いや、灯夜さんはこれを知っているのだろうか。訊いたほうがいいのか。いや、でも知らなかった場合は、知らないままのほうがいい? それなら、言わないほうがいいのか。そうだよな、言っちゃいけないよな。
灯夜さんに、二度とあんな哀しそうな笑みをさせてはならない。
にしたって、兄貴は何を考えているのだ。あのとき、灯夜さんがどれだけ傷ついていたか。俺の抱く腕に流されるくらいだったんだぞ。
こんなこと、俺の胸に留めておかないと。きっと、兄貴も気の迷いだ。戻ってくる。灯夜さんの元に、結局帰ってくるんだから。俺さえ、何も知らないままのふりをしていれば──
それから数年が過ぎても、兄貴と灯夜さんに離婚という話は出なかった。まして、兄貴が不倫しているなんて話も出なかった。もしかして、あのメッセは兄貴に勝手な勘違いをしている同僚のものだったのかもしれない。そんなふうに自分をなだめつつも、胸騒ぎはついてまわった。
俺と清夏は、同棲を始めて一年近く経った。最初はやっぱり合わない習慣がちらほらあって、ぴりぴりしたときもあったが、譲り合ううちに次第に部屋は心地よい居場所になった。
仕事も春から四年目だ。俺も清夏も、今年で二十六になる。そろそろ、プロポーズして婚約するのもいいかもしれない。そう思って、俺は市街地のデパートや百貨店をはしごして、ひとりで指輪を見に行った。清夏の熟睡中に左薬指のサイズも測ってきたし、清夏のファッションを邪魔しないデザインも想像がつくし、完璧だ。
そう思いながら、いろいろな指輪を見てまわった。指輪たちは、ビビる価格の値札をつけて、ショーケースの中でしっとり輝いている。
たぶん、シルバーがいいだろうな。デザインはちょっとごつめでも、宝石はけばくなくて、なるべくさりげないもの。
唸って歩きまわっていたとき、「ペアがいいよ、やっぱり」というカップルの声が聞こえた。俺だけでどうしても決められなかったら、そんなふうに清夏を連れて出直すのも有りか。そう思っていたら、「どうせ、その指輪はもう捨てるんでしょ?」と聞こえて、俺は何となく振り返った。
目を剥いた。そこにいたのは、スーツの兄貴とソバージュが派手な見知らぬ女だったからだ。兄貴は左薬指の灯夜さんとの指輪を見て、「まあそうだけど……」なんて言っている。
何言ってるんだ、兄貴。そもそも、俺は何を見てるんだ。兄貴が女といるって……引き出しの中のポップアップが脳裏にまたたいたが、いや、もしかしたら、あの送信相手とも言い切れないかもしれない。
あいつ、ずっと、灯夜さんがいながら、どこかの女と──?
頭がぐるぐるしてくる。気持ち悪い。あの日が早戻しでよみがえる。灯夜さんの涙。抱きしめた感触。鎖骨を咬んだときの匂い。自分の息遣いと、瞳に虚ろに映っていた桜の花びら──耐えきれなくて、俺はその場をあとにした。
無意識に、実家に向かう電車に乗っていた。平日の昼下がり、灯夜さんは家にひとりだろう。ちなみに俺は、休日の混雑を避けるために取った有給の日だった。最寄り駅に着くと、実家まで走った。灯夜さんは、びっくりした顔で俺を出迎えてくれた。
「卯摘くん、どうしたの」
肩に手をかけられる。その手のひらは冷たい。俺は後ろ手に玄関を閉めてから、ひと息も置かずに灯夜さんを抱きしめた。
高校生になる前に抱きしめたときと、ぜんぜん違った。灯夜さんは、俺の腕と胸にすっかりおさまってしまう。肩も腰も細い。ちゃんと食っているのだろうか。清夏と同棲を始めて、食事に行くこともなくなったから分からない。
「卯摘……くん」
灯夜さんは俺を突き放さなかった。それどころか、肩を震わせて泣き出した。それで俺も分かった。
この人、とっくに知ってたんだ。
「……ひどすぎるよ、兄貴のやってること」
「ん……」
「離婚とか……しないの?」
「……うん。どうしよう」
「離婚したくないと思うの? それでもあいつが好き?」
「私は、経済力がないからなあ……」
「経済力って」
「私、学歴もないし……親も分からないの」
「え」
「赤ちゃんのとき、桜の樹の下に捨てられたんだ。わりとすぐ、知らない家に引き取られたけど、その家もつらいことが多くて」
「………、」
「あの家から連れ出して、こんな温かい家庭に招いてくれた神那くんに、感謝してもしきれないの」
俺は灯夜さんの瞳を見つめた。あの日のようにゆらゆら潤み、玄関の窓越しにひらひら舞う桜の花びらを映している。
それを見ていると、俺はこらえきれなくて、子供だったときと同様に灯夜さんを抱きしめていた。でも、力はきっと今のほうが強い。押しつぶしそうなほど、灯夜さんを腕の中に閉じこめる。
「俺なら……そんな想い、させないのに」
「うん──知ってる」
「幸せにするよ」
「卯摘くんは、清夏ちゃんを幸せにしなきゃ」
「でも、俺がずっと昔から好きなのは──」
そう、だから灯夜さんも俺を見て。俺を好きになってよ。
言いたくなるのを必死をこらえていると、不意に俺のスマホに着信がついた。無視しようかと思ったけど、思い直してポケットのスマホを取り出した。
『今日早く帰れるかも!
待ち合わせてごはん行かない?』
清夏は有給のことを知らない。そもそも彼女へのサプライズの準備だ。
清夏。そうだよな。俺は彼女を幸せにしないといけないんだよな。幸せにしたいと思うから、指輪の準備まで始めている。
彼女も俺を信じてくれている。だから、俺たちの関係はここまでうまく続いた。それを裏切るのは──ダメだよな。
「清夏ちゃん?」
「……はい」
「そっか。ありがとうね、卯摘くん」
「えっ」
「あの日の……十年前のことは、今も忘れてない。それが、きっとずっと私を支えてくれるから」
「灯夜さん……」
「私は大丈夫。清夏ちゃんのところに、行ってあげて」
俺はうなだれ、何の言葉も見つけられなかった。清夏は捨てるからとは言えない。灯夜さんのそばにいるとも言えない。兄貴を殴る? 親にチクる? せめてこの場は灯夜さんと──それすら、俺には言えない。
「……すみません」
結局、ぼそっとそれだけ言って、俺は実家をあとにした。並ぶマンション沿いの道には、桜が等間隔に植わって、ほろほろと花びらをこぼしている。
俺は、そんなふうに、灯夜を思うまま泣かせてあげることもできない。
俺は桜を見上げた。青空からの陽射しの中から、とめどなくあふれる薄紅の雫。それが映りこんだ、灯夜さんの今にも泣きそうな濡れた瞳が俺の胸に残響する。
伝えられなかった。一生伝えられないのだろう。ずうっとこの距離感のままだろう。
それが息苦しいほどに切ないよ。俺にとって、もしかしたらどんな女の子も、あなたの代わりなのかもしれない。
灯夜さんを抱きしめた感触を探す。だが、どこにも見つけられない。
ふと強めの春風が抜けて、桜の花びらがひときわ空中にたくさん舞い上がった。
あの人が泣き崩れた瞬間かもしれない。俺はそのあふれる涙を想像してたまらなくなったものの、唇を噛んで背を向け、無心に足を急がせた。
満開の桜は、花びらが散り終わってしまうことを、まだまだ知らない。
FIN