もうダメなんだろうな。あたし、このまま死ぬんだろうな。
分かっていても、薬を打つ手を抑えられない。すごくいらいらする。ひどく不安を感じる。そんな感情に恐怖を覚える。
血管に薬が溶けて、全身に広がっていく感覚に、やっと過呼吸を深呼吸に切り替えることができた。
床に体を横たえ、視線を泳がせる。薬をしているとき以外、意識もはっきりしない。いや、薬をやって落ち着いても、こうやってただ転がって、自殺未遂や自傷行為をやらないのが精一杯だ。
それでいいけど。もうどうだっていい。
あたしのすべては、夏陽に託した。あの子が歌い続けてくれる。あたしのぶんまで、世界を変えるほどの歌を。
だけど、この期に及んで、もっと歌いたかったと思ってしまう。あたしはステージに立つどころか、マイクスタンドにもすがりつけない、ぼろぼろの状態なのに──
あたしには、妹がいた。発熱したり、ときには嘔吐までしたり、病弱な子だった。両親もあたしも、妹の心や軆が壊れないように、大切に接していた。
両親の愛情は妹にかたむきがちだった。あたしはそれを当たり前だと思って育った。少しは複雑だったけど、妹はあたしの気持ちを察して「ごめんね」とうつむくような子だったから、あたしはなるべく元気よく家族を励ます役だった。
妹の具合が悪くて眠れないとき、あたしはよくそのかたわらに座って、子守唄を歌った。「おねえちゃんも休まなきゃ」と妹が気にすると、「いいから、安心して眠りな」とあたしは微笑んだ。
両親どちらも働いても、妹の治療費にお金がどうしてもかかり、家計は苦しかった。あたしは、いろいろと着まわすほどの服も買ってもらえない。クラスメイトの「またその服だね」くらいの言葉が、やがて「同じ服ばっかりで汚い」みたいな陰口になっていった。そして、貧乏とか不潔とか言われるようになり、露骨に避けられたり石を投げられたりするイジメになった。
女子はあたしを熱心にイジメていたけど、男子は男子でイジメている子がいた。オカマとかホモとか言われて、「気色悪い」と嫌悪されていた子が、リイチだった。
リイチは、泣きながらいつも逃げていた。その日、何でそれをこっそり追いかけたのか、自分でもよく分からないけど──イジメられっこ同士で仲良くなれるとでも思ったのだろうか。
リイチはひとり裏庭にいて、手鏡を覗きこんでいた。「怪我したの?」とあたしが歩み寄ると、リイチははっと顔をあげて、あたしも目をみはった。
リイチの唇に、赤いルージュが引かれていたのだ。
「え……と、それ……誰かにされたの?」
リイチは首を横に振りながらうつむき、手の甲で唇をぬぐった。
「……誰にも言わないで」
「うん──」
あたしは躊躇ったものの、リイチの隣に座った。そのとき、ちょうど始業のチャイムが鳴った。
「授業、始まったよ」
リイチがぼそっと言って、「授業中には戻れないし」とあたしは膝を抱える。リイチはうつむいて、あたしはそのかわいらしい感じの横顔を見た。
長い睫毛、きめ細かい白皙、さらさらの髪。まだ年齢的に骨格もごつごつしていないし、ルージュの赤みも残っていて、確かに女の子に見えるかもしれないと思った。
「おまじないなの」
「えっ」
「このルージュ。これを塗った自分を見ると、安心して、元気になれる」
「……そう、なんだ」
「おかしいでしょ」
あたしは首をかしげた。オカマっていうのは、間違いではないということ? そう思っても、さすがにそれをストレートにはぶつけられない。
「心は女だとか、信じられる?」
「ええと……ニューハーフみたいな」
「うん。だから、オカマって言われても、何も言い返せない」
「………、あいつらは、理解して、そう言ってるわけじゃないでしょ」
リイチはあたしを見て、まばたきをしたあと、「そうだね」とやっと笑みを見せた。
「夢があるの」
「夢?」
「大人になったら、こんな田舎は出ていって、もっと自分らしくなって……歌を歌いたいの」
「歌」
「そう。歌で世界を変えるの」
きょとんとしてしまうと、リイチははにかんで「本気で思ってるからね」と言い、あたしは慌ててうなずく。
「自分みたいな人、きっとたくさんいると思うから。自分が歌って、その声を目印に世界中から集まって。それで、パーティをして……みんなで、こんな世界は変えるの」
「……すごい」
まだほうけながらも、あたしは素直にそう言っていた。イジメられっこ同士で仲良くなるなんて、とんでもない。リイチはこんなにも強く、まだ見ぬ仲間を信じている。
リイチはあたしを見て、「笑わずに聞いてくれてありがとう」と瞳をやわらげた。あたしも微笑み、「今度、歌を聞かせてよ」と言う。するとリイチはうなずいて、「みんなには秘密ね」と念は押した。
それから、リイチと過ごす時間が増えた。周りには「黴菌カップル」とか言われたけど、気にしなかった。リイチはあたしの前では「私」と言えるようになって、あたしも家の中とは違ってのびのび咲った。そして、リイチの歌は、細い軆からは信じられないほどパワフルで、あたしの心はひどく揺すぶられた。
あたしも、そんなふうに歌えたらいいな。そう思ったものの、歌はリイチのもので、とても神聖に感じられたから、そればっかりは打ち明けて「一緒に歌ってみたい」なんて言えなかった。
しかし、リイチの夢はかなわなかった。あたしといるときは咲ってくれていても、リイチへのイジメはエスカレートしていた。
自殺するような子じゃなかった。リイチはいつだって、未来を夢見ていて強かった。
そんなリイチを踏みにじるような最期だった。リイチは男子たちに服を剥ぎ取られ、いわゆる「ハッテン場」となっている夜の公園に放置された。そこで、男たちにつかまって乱暴された。抵抗したら、すっぱだかで誘ってきたのはお前だと殴られ、数人に犯されながら絞殺されて、物言わなくなったまま朝まで地面に転がっていた。
聞くに耐えない経緯を、リイチをイジメていた男子たちはげらげら笑いながら語っていた。リイチを殺したも同然なのに、反省しないどころか悪気もないようだった。
時計塔が見下ろす校庭で、リイチに黙祷が捧げられた。でも、みんなは心の中では嗤っているのだろうか。オカマだったから仕方ないと思ってるのだろうか。リイチが、どれだけ誇り高く歌い、世界を変えようとしていたかも知らずに。
あたしはまた孤立して、中学生になった。妹は病気になると長引き、悪化しやすいようになっていた。入院も増えてきて、両親は仕事と見舞いでいそがしく、家を留守にすることが増えてきた。
誰もいない家で、あたしは歌った。リイチのように情動的に歌えているだろうか。分からないけど、次第に喉が通って、声がくっきり出るようになった。歌えることが、心にリイチを留めて、あたしを支えてくれていた。
高校に進学する余裕はなく、歳を偽って水商売を始めた。しかし、お前は愛想が悪いとたびたび客に言われ、そのクレームに飽き飽きしたママにクビを言い渡された。そんなあたしを、「お酒を勧めるだけの仕事ができないの?」「大変なのに、本当に使えない娘だ」と両親は容赦なく責めた。
妹は生きてるだけで褒めてもらえるのに、あたしはうまく咲えないだけで怒られる。
それがあまりにもつらくて、ついに家を飛び出した。リイチも言っていた。大人になったら、こんな田舎は捨てて、自分らしく生きる。あたしは十八歳になっていた。だから、すぐ住みこめる寮があるというだけで風俗の仕事を始めた。
歌い続けていた。弾き語りで路上ライヴをしたり、小さなライヴハウスにも出た。芽が出るわけではなかったけど、とにかく辞めずに続けた。
リーナと出逢ったのは、リイチを偲んで、ドラァグクイーンのショウを見に行ったときだった。
ああ、あの子はその華やかなステージにいるはずだったのに。歌って、踊って、笑っていたはずなのに。
急に息ができないほど胸苦しくなって、あたしは泣き出してしまった。周りがびっくりしたようにこちらを見て、リーナはステージを降りてきてまで、あたしを気遣ってくれた。
「どうしたの? あたしたちのステージ、良くなかった?」
あたしは首を横に振って、そうじゃないことだけは伝えた。それでも嗚咽が止まらず、こんな状態でここにいるのは迷惑だと思い、かろうじて謝罪を口にすると帰ろうとした。すると、リーナは「ここの地下にあるバーで待ってて。必ず話を聞くわ」とささやき、ステージに戻っていった。
あたしは周りに頭を下げながらホールを出て、勝手に帰るのも気が引けたので地下に降りた。確かにバーがあったので、踏みこんでカウンターにふらふらと歩み寄る。騒がしくない、ゆったりした雰囲気がただよっている。こんなお洒落なところのお酒とか分かんないなと思って、結局烏龍茶なんか頼んでしまった。
時間が過ぎていった。ほんとに来てくれるのかな、もしかして真に受けたのってバカだったかな、なんて思いはじめた頃、リーナが現れた。さっきのゴージャスな化粧や衣装ではなくなっていても、張りのある声は間違いなかった。
「話聞くなんて言っちゃったけど、話したくないなら無理しなくていいのよ」
カウンター内のマスターにお酒を注文してから、リーナはそう言った。あたしは小さくかぶりを振り、「あのステージに、友達の夢があったから……」とリーナに亡き親友のことを語りはじめていた。
話の途中の時点で、リーナは不安そうな顔になった。そして、リイチが亡くなったことまで話が至ると、派手に大泣きした。すごい号泣だったので、あたしはややヒイてしまった。でも、リーナは鼻水をすすってから、「あたし、歌うわ」とこちらを潤んだままの瞳で見つめた。
「その子のぶんまで、あたしが歌うわよ!」
あたしはリーナを見つめ返し、少し躊躇ったあと、「あたしも歌えないかしら」とぼそりと言ってみる。
「あら、あなたも歌う人なの?」
「歌うのは好きよ。大した活動はしてないけど」
「活動歴なんて、あとからできるわよっ。好きなら歌いなさい、一択じゃない!」
そんなリーナの言葉に背中を押され、あたしは本格的に歌に腰を据えていった。リーナがボイストレーニングなどもつけてくれた。ライヴハウスに出入りするうち、気の合うバンドのメンバーも見つかった。
いつしか、あたしの世界は歌によって変わっていて、メジャーデビューでついに活動も軌道に乗った。
「月琴ちゃん、ファンレターたくさん届いてるよ」
マネージャーが声をかけてきて、あたしはその日、事務所に立ち寄って手紙の束を受け取った。風俗はもちろん辞めていて、帰るのは寮でなくマンションの一室だ。そこであたしは、飲めるようになったビールを飲みながら、手紙に目を通した。
不愉快な手紙が、ぜんぜん混じっていないわけではない。でも、いちいち気にするほどでもない。ほんとに嫌なら、事務所の人にチェックしてもらってはじくこともできるけど、あたしは全部受け取る。だから、その手紙もファンレターに混じっていた。
『月子へ』
あたしは眉を寄せた。あたしの芸名は『月琴』だ。読みは同じくツキコだけど。
嫌な予感がした。便箋をたたんで、ゴミ箱に投げるべきだった。しかし、あたしはその手紙を読み、妹が亡くなったことを初めて知った。『あの子はあんなに苦しんで、何もできずに亡くなったのに、あなたはずいぶん派手な生活を送って、恥も分からないのですね』という見憶えのある母親の字に、心臓の脈に氷が突き刺さったみたいに感じた。
一気に、めまいと吐き気が押し寄せる。気づいたら、フローリングに嘔吐していた。息ができない。無性に怖い。自分は消えてなくなってしまえばいいと感じる。いらだちと不安感がぐるぐる混ざって、正気が故障する。
何で。
何で何で何で。
あたしも、あんたの娘じゃないの?
あたしだけでも幸せに生きてることは、いけないことなの?
そんなにどうでもいい?
あたしは、そこまで「いらない子」?
押し殺していた幼少期が、堰を切って一挙に襲いかかってきた。気がふれそうで、目が泳ぐ。愛されてない。あたしは愛されていない。息が吸えない、頭が酸欠してくる。視覚がぐらぐらして、物音に過敏になって、手の感覚がない。
あたしは壊れはじめた。すべて虚しいのだ。常に軆が重くてだるくて、何も考えられない。歌うことすら、あたしを回復させない。むしろ、プロとしてテレビやラジオの収録やツアーをこなさなくてはならなくて、それらをのしかかる呪いのように感じた。
音楽番組の収録のあとだった。楽屋で頭が破裂しそうな感じに耐えていると、「これ、楽になるかもだから。少しね」と共演者の誰かが、そっとあたしのかたわらにそれを置いた。
白い粉。
それをどうしろという説明はなかったけど、使い方も使い道もすぐに分かった。
少しね。そう言われたのに、手を出せば堕落はあっという間だった。そんなこと、あの共演者も分かっていただろう。あいつはあたしを蹴落としたかっただけだ。それでも、あたしはたやすく罠にかかり、薬を手放せないようになった。
ツアーを何とか乗り切って、いつもの街に戻ってきた夜のことだ。駅からタクシー乗り場へ、あたしはバンドメンバーと歩道橋を歩いていた。
路上ライヴをしているふたり組に気づいた。いつもだったら、気にも留めない。けれど、ふたり組のベースのほうに、彷彿とする面影があった。きしむ頭で何とか考え、シンガーソングライターのミトキが思い当たった。
確か彼女は、Pousse caféというバンドのギターと結婚して、息子をもうけたはず。その息子が、そういえばあれくらいの歳だから──
なるほど、音楽の環境に恵まれているせいか、いいベースだった。でも、ギターのほうは、正直大したことない──そう思ったとき、ギターの男の子が、マイクスタンドに向かって声を発した。
驚いた。その男の子は筋骨も整っているし、顔立ちも野性的なほどだ。ぜんぜん違う。リイチとは違う。なのに、歌声が魂に直で響いて、じんと痺れさせる圧倒感は同じくらいにあった。
「月琴? 行こうよ」
そう言ったバンドメンバーに「先行ってて」と言い置き、あたしはふたり組に近づいた。ギターの子が歌い出した途端、立ち止まって聴いている人も見るからに増えた。あたしは彼を見つめていたけど、彼は夜空に歌声を放つことに夢中だった。
立ち止まってくれた人が多かったせいか、路上ライヴは思ったより長かった。でも、「やば、終電!」とはっと気づいた人を皮切りに、「すごく良かったです」や「ライヴあれば行きます」と言い残し、観客は散っていく。
「俺たち、片してたら終電間に合わなくね?」
「でもたたむぞ。最悪、歩いて帰ればいいしな」
「ひと晩じゅう、ここで歌っててもいいぜ」
「さすがに補導されるわ。ほら、お前もスタンドしまえ」
あたしは立ち去らずにふたりを眺めていて、「すみません、今日はこれまでなんで」とベースの子が謝る。あたしはバッグから財布を取り出し、「これでタクシーで帰って」と一万札をさしだした。ふたりともぎょっとした顔をこちらに向ける。
「えっ、でも、あの──」
「いいベースね」
「はっ? あ、どうも……」
「そう思ったから、これは受け取ってちょうだい」
「え、じゃあ俺は? 俺の歌とギターは?」
それにはコメントせず、あたしはタクシー乗り場の方角へと歩き出した。
「おいっ。普通、俺にも何か言うだろっ」
「タク代くれた人に文句言うなバカ」
そんなやりとりが聞こえて、あたしは久しぶりに、おかしくて小さく咲ってしまった。
しかし、それからが大変だった。あたしがロックシンガーの『月琴』だったことにあとから気づいて、ヴォーカルギターの子が事務所に押しかけてくるようになったのだ。どうしても、あたしに感想を言わせたいらしい。「警察呼ぶ?」と追い返す事務所の人は厄介そうだったけど、あたしは何だか楽しかったので、「どうせすぐ来なくなるわよ」と放っておいた。
彼は夏陽という名前らしかった。ある日、来たらめずらしくすぐ帰ったかと思うとメモを残していったと、事務所の人に紙切れを渡された。バンドを組んだからヴォーカルに専念する、自分たちのライヴに来いという内容だった。
あたしも昔立ったことのライヴハウスだ。あたしはそのライヴには行かなかったものの、オーナーに夏陽への伝言を頼んでおいた。指定した喫茶店に、夏陽はしっかりと現れて、「ライヴ来なかったな」とふてくされた顔をした。
あたしは夏陽を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
「夏陽」
「ん」
「お願いがあるの」
「俺の歌を『いい』って言うまで押しかけるぞ」
「『いい』って言われるようなこと、きちんとやってる?」
「……ようなこと」
「あなたの歌はすごいわ。でも、良くない」
「何だよ、それ。てか、すごいの? 俺の歌、すごいって言った?」
「ボイストレーニングとか、発声法とか体力作りとか、そういうことやってる? ただ歌ってるだけじゃ、喉がつぶれるわよ」
「………、」
「やってないのね?」
「感覚でやれるので……」
「感覚で済ますのは素人よ。自分を理解して、声を会得して、歌いなさい」
夏陽はふくれっ面を作ったものの、本気の面持ちではないようだ。「そういうのって、独学ではないよな……」と言ったので、「トレーニングしてあげるわ」とあたしは夏陽を見た。
「えっ? マジで!?」
「代わりに、訊いておきたいことがあるの」
「何? あ、……資金」
「あたしのすべてを預けるわ」
「えっ」
「預けていいわね?」
「……意味が、よく分かんねえ」
「あたしが得てきた音楽を、夏陽に渡すの。それを受け取ってくれるなら、お金もいらない」
夏陽は胡乱そうにあたしを見たものの、「月琴の音楽はすごいと思う」と述べた。
「だから、それを吸収できるなら……何でもやりたい」
あたしはやっと真剣な表情をほどいて、彼に向かって微笑んだ。あたしの笑みを見た夏陽は、少し恥ずかしそうにうつむく。彼がまだ若い男の子なのだと思い出した。
でも、容赦はしない。あたしはこれまでの人生をかけて習得してきた「音楽」を、厳しく夏陽にたたきこんだ。息継ぎのタイミングや声の伸び、英語歌詞の発音まで、何もかも夏陽に伝えた。夏陽はみるみる、原石だった歌声をまばゆいほどきらきらに磨いた。
全部やりきった。
もうあたしにやることはない。
歌うことすら、夏陽がいてくれるから、もうあたしは担う必要はない。
……なのに、何でいまさら歌いたいって思うかな。まだ歌いたいなんて望んでしまうのかな。
薬にまみれたあたしには、人前で歌う資格すらないのに──
「月子!? あんた、何やってんの!」
遠のく意識の中、不意に声がした。合鍵を持っているリーナか、あるいはマネージャーか……
「まだ薬やめてなかったの? あんなに言ったのに、何なのよっ……」
「あの子に……会いたいな」
「え?」
「あたしもパーティに混ぜてよ……」
「月子、しっかりして月子!」
不意に目の前の霞が薄くなって、時計塔が見えた。黙祷を捧げたときの時計塔だ。そして、あの歌声が響き渡った。
赤いルージュを引いたリイチが歌う、美しい歌。
ああ、やっぱりこの歌声はいい。
向こう側で、今も歌っていたのだ。このまま聴き惚れてたら、魂もろとも持っていかれそう。
戻らなきゃ。ものすごく遠くに響く、あたしを呼んでいる声に気づかなきゃ。
でも、リイチの歌は甘く、手を出していけない魅力を感じるほど瑞々しかった。禁断の果実のような歌。ずっと聴いていたい。終わるまで、その歌声に目を閉じて、そのまま……
そう、たとえ向こう側に行くことになっても、どうせあたしにはこちら側でもう何の価値もない。
「月子、来てくれたんだね!」
そう言って、リイチが目の前で咲うから、あたしはうなずきながら、さしだされたその手を取った。
「ねえ、月子も一緒に歌おう」
「えっ、いいの?」
「ずっと見てたから知ってる!」
霞の中に手を引かれながら、かろうじて、ぎりぎり、あたしは薄目を開けた。リーナが叫んでいる。だけど、何を言っているかは聞き取れない。
夏陽を思い出した。きっとあの子はあたしに恋をしていたし、あたしも──
「ずっと……歌ってて……」
かすかな水泡みたいに、あたしはそう言っていた。サイレンが聞こえてくる。リーナは泣きながらあたしを抱きしめている。
意識がめまいの中に消えていく。
あたしはつないでいる手を握った。リイチが声高らかに歌い、あたしもそれに合わせて歌う。
その歌が終わる頃、あたしはすでに息を引き取っている。世界を変える歌は夏陽に遺せた。それでいい。あたしはそれでいい。
親友のそばで、その紅玉のような歌声を聴いて。ああ、やっぱり歌はこの子のものだな。あたしはかなわないな。そんなことを思いながらも、あたしたちは一緒に歌う。
そして、お開きのない、お別れもない、いつまでも幸せなパーティを、今、始めよう。
FIN