数えきれない紅葉が、はらはらと降り積もる道だった。
こんなに綺麗な場所だけれど、ただの田舎の山の中だから、ほかに人はいない。森谷くんがここを知っているのは、狩りが好きだったというおじいちゃんに教えてもらったからなのだそうだ。
黄金色の落葉の中に、ちらほら赤い紅葉が混じっている。それが特に美しくて、私は高い木々を見上げ、目移りしてしまう。
「すごいね。私もこの町にずっと住んでるのに、こんなところ、知らなかった」
「川が近くて足場悪いし、そんなに人が寄りつかないんだよな」
「地面、きちんと硬いように感じるけど」
「それ、岩だから。場所によっては湿ってるし、すべるなよ」
「え、そうなんだ。受験生をすべりやすいところに連れてきたの?」
そんな冗談を言って、思わず咲ってしまう。しかし、森谷くんは足を止めて、こわばった瞳で私を見つめた。
「水原、大学進学でこの町を出ていくんだろ?」
私も立ち止まって、森谷くんを見た。「知ってるんだ」と曖昧に咲うと、「だいたいの奴は、地元の大学に行くからな」と森谷くんは吐息をつく。
「めずらしくて、すぐ耳に入ってきた」
「……そっか。マスコミ系、行けたらなーって」
「それは初めて聞いた」
「私、何でもかんでも地味だから、華やかな仕事に憧れちゃって。といって、芸能人になる器量でもないし」
「マスコミって、華やかかなあ……」
つぶやいた森谷くんは、再び歩き出して、私は隣に並ぶ。匂いまで澄んだ秋気の中に、落ち葉が重なり合っていく音が響く。
「森谷くん」
「んー?」
「今日、来れてよかった」
「……ん」
「ありがとうね」
「また──ここで、水原とデートしたいな」
私は、ちょっとはにかむ森谷くんを見上げて、「そうだね」と微笑んだ。私の答えに、森谷くんはほっとしたように咲い返してくれた。
しかし、その願いが叶うことはなかった。すぐ受験で慌ただしくなって、私たちは想いを伝えあったり、ましてつきあったりすることもなかった。
私は第一志望の大学に合格した。卒業式では、今日が最後で寂しいと女友達が私を解放してくれなかった。それで、森谷くんと連絡先さえ交換できないまま、音信不通になった。
せめて、彼に「好き」と言えばよかった。そうしたら、人生が変わっていたかもしれない。せめて、高校時代が甘酸っぱいものにはなっていただろう。
家を出たら、すぐバイトをすぐ見つけた。ひとりで進学した大学は、ぜんぜん楽しくなかった。友達と同じように、地元の大学に行けばよかったと何度も思った。田舎者だとしょっちゅう嗤われ、私は参加もしていない合コンの罰ゲームで、男の子が悪ふざけで告白してくることもあった。
なぜ、自分がこんな都会でやっていけると思ったのだろう。
就活にも、だいぶ苦しめられた。たまにおかあさんと電話すると、「もう帰りたい」と何度も言いそうになった。でも、「私は頑張れるから」と反対を押し切ってこちらに来たのだ。自分は親に泣きついていい立場だとは思えなかった。
ようやく取れた内定は、下品な記事も多い新聞社だった。入社してみると、かなりのブラック会社でもあった。
取材では、相手のプライバシーは無視しろと言われた。芸能人や有名人は、ちやほやとおいしい想いをしてるぶん、人権はないと言う先輩もいた。不倫を暴け。炎上を煽れ。自殺は最高の特ダネ。そんな狂った感覚をたたきこまれ、食事も睡眠も削って、くだらない記事を仕上げていく。
とてもじゃないけど、そういう感覚に馴染めなかった。すると、「これだから女は」と言われはじめる。やがて、社内では「女の子の水原」とお荷物のように呼ばれるようになった。
この社内にも、女性の記者はもちろんいる。だが、彼女たちにも「水原は女の子だよねえ」と言われた。彼女たちは、記者会見で品のない質問を投げ、話題になったりする。それを「私は注目されている」という感覚で処理する。だから、罵詈雑言の電話やメールが来るほど、もっと低俗な質問を練るのだ。そしてまた、中継される記者会見などで土足な質問を述べ立てる。
喉元まで穿つような胃痛をこらえて、私は出社していた。ある日、「あまり無理するなよ」と編集長が声をかけてくれた。久しぶりの優しい言葉に、涙ぐんでしまったのがいけなかったのかもしれない。編集長は私をよく励まして、「元気出せ」と食事にも連れていった。
「しんどいこと多いよな。今は忘れていいから」
そんな言葉でお酒を飲まされ、ほとんど意識のない状態にされて、ホテルに連れ込まれた。ひどい頭痛で目が覚めたときには、私はベッドで何も着ていなかった。
「お前、本当に女の子だったんだなあ」
隣で煙草を吸っていた編集長は、出っ張った腹を揺らして笑った。おそるおそる、自分の脚のあいだを見る。シーツに血がついていた。生理ではない。そして、私は二十代半ばになった今でも、未経験だったから……
編集長の執拗なセクハラが始まった。私を「女」にしたことが、よほど優越感になったようだ。もちろん私は、何をされても嫌悪で吐きそうなだけだった。無駄に軆に触れられ、さりげなく股間を当てられ、本当に気持ち悪くて鳥肌が立つ。
「お前はただの女の子だから、連れ込んでも、誰も写真にも撮ってもらえないなあ」
そう言われて、無理やりホテルに連れていかれ、私は編集長のいいようにあつかわれた。「お前はこういうの大好きだろ」とにたにた言われ、必死にかぶりを振っても、通じない。「素直じゃない女の子にはお仕置きだ」とか言われて、正気じゃない行為をさせられるだけだった。
私にとって、編集長の行為は、セクハラどころかレイプだった。でも、周りはそれすら分かってくれなかった。特に女性記者のあいだで、「ごはん奢っててもらってずるい」とかひがむような感情が肥大して、ついに誰かが編集長の奥さんに密告した。
編集長は、恬然と「水原から誘惑してきたんだ」と言い訳した。奥さんは編集長を信じていたのか、愛していたのか、その言葉をまったく疑わなかったようだ。私にだけ毒々しい敵意を持ち、三百万円の慰謝料を請求してきた。
闘う気力はなかった。私は、それを貯金でどうにか支払った。その挙句、当然のように会社をクビになった。
何もなくなったときには、私は三十歳を過ぎていた。
無職だから、さすがにおかあさんに事情を話した。何でもっと早く相談しなかったの、とか。いい弁護士さんを今からでも見つけるから、とか。そう言ってくれるのを夢見たけど、おかあさんは困ったように『もうどうしようもないねえ』と言った。
「そんな……。来月はらう家賃もないよ。私、どうしたらいいの?」
『とりあえず、こっちに帰ってきなさい』
頑張ろうと思ったのに。頑張ってきたと思うのに。結局私は、この十年以上の痕跡を残すこともできず、田舎に帰ることになった。
親に借りた一ヶ月ぶんの家賃を振りこむ前に、大家さんにずっと住んできた部屋を引き払うことを伝えた。大家さんの対応は事務的だった。何だかそれを冷たく感じて、私はここに住んでいることも迷惑だったのかなと、被害妄想で泣きそうになった。
本当にお金がないから、新幹線や飛行機も利用できない。電車を乗り継ぎ、時間をかけて田舎に帰ってきた。まだ冬だけど、ほのかな春の陽気に梅が咲きはじめた頃だった。
せめて、引っ越しシーズン前に帰ってこれてよかったな。三月と四月はぼったくりだもんな。
そんなことを思いながら、私はキャリーケースをごろごろ引っ張って、最寄り駅から実家への道を歩いた。自分の表情が、日の光を浴びているとは思えないほど、暗いのが分かる。
「あれっ、祥子じゃない?」
その道で、突然声をかけられてびくんと立ち止まった。そろそろと振り返ると、子供をふたり連れた女の人がいた。私が首をかしげると、「やだ、ひっどいなー」と彼女は笑って私の肩をたたく。
「あたしだよ、蒔崎千佳! 高校で三年間同じクラスだったじゃない」
「えっ……。あ、千佳? ほんとに?」
「うんっ。どうしたの? すごい久しぶりじゃない? 祥子、ずっと帰ってこなかったよねえ」
「あ、さすがに……帰ってきたの」
「そうなんだっ。休暇? いや、普通にもう結婚してるよな。まさか、お暇いただいてきたとか?」
「あ……私、結婚は、してないの」
一瞬、千佳の表情が止まった。それが分かったから、ダメだ、と顔を伏せた。「あー……、そっか、そっか!」と千佳は取り繕うように白々しく笑う。
「都会だとそんな感覚か! いや、でも、祥子変わってないから。大丈夫。すぐ分かったもん。若い若い!」
私は、あやふやに笑った。千佳は嫌味で言っているわけではないだろう。でも、そこに含まれる意味は分かるから突き刺さる。
三十を過ぎて身を固めていない寂しさ。この歳で「若い」と言われる痛々しさ。「都会」にいたのに、すぐに私だと分かる垢抜けなさ。
千佳が連れているのは、どちらも女の子だ。低学年くらいの子と、まだ園児くらいの子。訊かなくても、彼女の子供たちなのは分かる。卒業式から、そんなに時間は経過したのかと思うと息苦しくなった。
そして、その田舎で仕事もせず、実家に引きこもって暮らす日々が始まった。最初は、古い女友達が懐かしがって会いに来た。でも、みんな結婚したり子供がいたりする。その現実がつらくて、楽しそうに話題に乗れない。昔より明らかに暗くなった私に、そのうち誰も訪ねてこなくなった。次第に「仕事してる感じないね」「ぜんぜん外出してない」とうわさになって、町の人に避けられるようになった。
そのせいで、さらに外に出づらくなった。死ぬしかないのかな、とぼんやり考えるようになってきた。
たまに外出しても、行き先は深夜にもゆいいつ明かりを残す、駅前のコンビニくらいだ。ひどい記憶しかない都会のネオンを思い出す、異様な白い明かりのコンビニ。なのに、ついふらふらと蛾みたいに立ち寄ってしまう。
パーカーにスウェットという、完全に容姿というものに気をはらわなくなった格好で、私はしばらく狭い店内をうろつく。ほかに客はいない。昔と違い、今は雑誌もパッケージされて立ち読みできなくなった。仕方ないので、最後に煙草を買って帰る。
煙草なんて吸わなかった。けれど、買って捨てずにいるうち溜まってきて、ヒマつぶしに吸っていたら、すっかり依存してしまった。
その夜も、白光するコンビニで煙草を買い、表ですぐに取り出して火をつけていた。
空気が少し、湿気ったような匂いがする。初夏が過ぎて、もうじき梅雨だ。
こっちに帰ってきて、もう三ヶ月も経ったのか。ぼんやり思いながら、コンビニの前に突っ立って煙草を吸っていた。
コンビニの裏に通る路線を、最終電車が抜けていく。この駅には止まらない。各停の地下鉄が入り組む都会とは大違いだ。
まあ降りてくる人がいると、気まずくて私もふらふらできないけどね、と思っていたときだった。
「水原……?」
肩がびくっと揺れる。路線沿いの道を歩いてくる、スーツすがたの男がいた。私は慌ててパーカーのフードをかぶり、顔を伏せて立ち去ろうとした。
「待てよ。俺だって」
知らない。誰か分かんない。こんなおばさんを襲う痴漢ではないだろうけど。誰であっても、私は他人なんかみんな嫌いだ。
しかし、私の早足に追いつくように靴音は駆け足になって、ぐっと肩をつかまれた。この町に帰ってきて、そこまでされて引き止められたことはなかったので、思わず変な悲鳴を上げてしまった。
「いや、そんなにビビることないだろっ。俺だよ。森谷道哉だよ」
森谷──
私ははっとして振り返った。そのとき、抜けていったぬるい風が、長く伸びた髪をはらって、私の顔をさらしてしまった。
彼は私の顔を見つめ、なぜかほっとしたように咲った。
「水原だ、やっぱり」
「森……谷、くん」
「そう。何だよ、憶えてるじゃん」
「………、」
「久しぶりだな。戻ってきたのは聞いてたけど」
私は視線をそらした。最悪だ。この気の抜けた格好。すっぴん。手には煙草を持っている。
「……うわさに、なってるもんね」
「えっ」
「私、……その、変人になったとか」
「いや、俺は千佳に聞いて」
「千佳……って、蒔崎?」
「ああ。はは、懐かしいな旧姓」
「え……っ、あれ、もしかして森谷くん──」
「あ、うん。俺、あいつと結婚したから」
「そう──なんだ。おめでとう」
おめでとう、が妙に早口になってしまった。何だか気まずい。そして、ほら、やっぱり来たのは沈黙だ。
あーあ……ほんとに死にたいな。私、本気で死んだほうがいい。
「ええと……今、仕事帰り?」
「あ、うん。通勤に二時間かけて働いてる」
「それはすごいね……」
「帰りはいつも、こっちの終電に間に合わなくてさ」
「ああ、街のほうならまだ電車動いてるよね」
「そうなんだよ。それに合わせて残業振られるから、帰りは三駅歩くよ」
「三駅!? すごい」
「そうだろ。おかげで運動になってるけどな」
「はは……ポジティヴだね」
私は少しだけ咲って、それから、咲うなんて久しぶりだなと思った。森谷くんは私を見つめ、一瞬言いよどんだけど、首をかたむけて覗きこんでくる。
「水原、お前……大丈夫か?」
「えっ……」
「昔と、印象違うっていうか」
「おばさんになったからね」
「そういう意味じゃなくて。何か、その……」
私は森谷くんを見つめた。心臓の疼きで、泣きそうになった。分からない。根拠はない。
でも、何となく、この人は私が都会でどれだけの想いをしたのか、察している。
「……ごめん、私帰る」
でも、だからって、森谷くんの胸に飛びこむことはできない。千佳がいる。子供たちもいる。しかし、それ以上に泣き崩れそうな自分もいるから、私は身を返そうとした。
「あ、あのさっ」
「……ん?」
「連絡先……とか」
「えっ」
「変な意味じゃなくてっ。俺、話相手とかなれるし。何でも聞くし」
「………」
「……てか、卒業式で訊かなかったの自体、ずっと後悔してるし」
私は森谷くんを見て、それから、睫毛を伏せた。
後悔。それは、私のことを忘れていなかったということだろうか。もしかしたら、彼の中にも、あの日の降りしきる紅葉が残っているのだろうか。
私は煙草をくわえ、ポケットからスマホを取り出した。QRコードを表示させると、森谷くんに向かってさしだす。森谷くんは慌ててスマホを取り出し、それを読みこんだ。
つながる。
「……水原、煙草とか吸うようになったんだな」
私はスマホをしまいながら、「うん」とだけ言う。森谷くんはなぜかはにかむように咲った。
「俺なんか、もう芋っぽい男に見えるんだろうなあ」
私は森谷くんを見上げた。コンビニからの明かりで、うっすらその顔立ちは見取れる。変わったな。彫りとか深くなって。でも、面影は残っている。
私は煙草を手に取り、「そんなことないよ」とだけ言った。
森谷くんの瞳に、わずかに切ないような色味を感じる。その視線で、私は分かっていたはずなのに。
最初は、メッセをぽつぽつとやりとりする程度だった。夏の真夜中、森谷くんから『暑くて眠れねー』とかいつも通り何気ないメッセが来た。そのやりとりが、朝まで続いた。切り上げるタイミングが分からなくて、「電話で『おやすみ』って言うか」ということになって、少し通話した。
耳元で、森谷くんの声が響く。それだけで、胸がきゅうっと苦しく高鳴ってしまう。
「あの頃……」
『ん?』
「森谷くんが好きだったなあ」
『えっ』
「言えなかったけど、好きだったんだよね……」
『そんなん、……俺もだし』
じわっと視界が滲んだ。すぐ、嗚咽がもれそうなくらいにこみあげてきた。「じゃあ、おやすみっ」と変なタイミングで言うと、通話を切った。すぐメッセが着信する。
『ありがとな。おやすみ』
私は、目を細めて窓を見た。のぼりかけた朝陽が、涙できらきらして見えた。
良くない。これは良くない。私、森谷くんとメッセを続けていたらいけない。分かっているのに、着信を待ち侘びてしまう。不安になったら送ってしまい、返信が来てほっとしてしまう。
八月の終わりに、夏祭りがあった。私は二階の部屋の窓から、花火を見ていた。打ち上がる音が、軆に響くように届く。花火は夜空にいっぱいに咲いて、儚く消えていく。
不意に着信がついて、私は煙草をくわえてスマホを手にした。
『嫁と子供、祭りに行っちまった』
『森谷くんは行かないの?』
『俺、まだ会社なんだよな』
『マジか。お疲れ』
『今日も遅くなりそう。帰れないかも』
『社畜だなあ』
『うるせ』
『私もそうだったよ』
『向こうで?』
『そう』
少し間があった。重い話はやっぱアウトだったかな、と思っていると、通話着信がついた。ちょっとびっくりしながらも、通話ボタンをタップする。
『今、大丈夫か?』
「うん。花火見てるだけ」
『音聞こえる』
「綺麗だよ」
『………、話をさ』
「うん」
『前、何でも聞くって言って、聞いてないから。今、嫌じゃなかったら』
「………、仕事は?」
『スピーカーにしてる。ながらで聞ける』
「そっか……」
『ながらって失礼かな』
「そんなことないよ。聞いてくれるなら」
『おう。何でも話せよ』
私は花火を瞳孔に受け止めながら、あの都会生活でのことを、森谷くんにすべて話していた。
いつのまにか、花火は終わった。お祭りの音も、町の人がそれぞれ家に帰る足音もなくなっていた。
それでも、私は話していた。話しながら、耐えきれずに泣き出してしまった。全部、森谷くんに打ち明けた。
『……水原』
「うん……」
『三駅、歩けるか』
「え……」
『夜道怖いかもしれないけど、そこまで来てくれたら会える』
「………、でも」
『今、お前を抱きしめてやれないのは、俺が嫌だ』
私は鼻をすすり、涙にゆがんだ視界に月が揺れているのを見つけた。私も嫌だと思った。今、この人の腕に、胸に、すがりつけないのは嫌だ。
すぐに家を抜け出した。いつもの散歩と思ったのか、親が声をかけてくることはなかった。三駅歩いた。こちらに来て運動不足もいいところだったから、へとへとになった。足の裏で肉刺がつぶれた。けれど、少し明かりがある駅前の中で、「水原!」とあの声に呼ばれて、振り返った瞬間にスーツの匂いに抱きしめられて、一瞬で疲れは吹き飛んだ。
森谷くんは、私を優しく抱いてくれた。例の編集長以外との行為は初めてだったから、最初は怖かった。けれども、森谷くんは何度も私の名前を呼んで、熱い吐息が混じったキスをして、溶かし合うみたいに動いてくれたから、私は次第に喘ぐ声を蕩かせていった。
知らないうちに、お互いに「好き」と言い交わしていた。長い時間を埋めるみたいに、何度も何度も「好き」を繰り返した。私はまた泣きそうになりながら、好きなんだ、と思った。私、今もこんなに森谷くんのことが好きなんだ。
手をつないで、深く交わるリズムで腰を動かしながら、汗ばみながら視線を絡め、私たちは愛し合った。幸せだなんて感じたのは、十何年ぶりだろう。
それ以来、私と森谷くんは、できる限り密会しては愛し合った。森谷くんの硬くなったものが、私の柔らかい軆の中をつらぬくとき、本当にほっとした。私の中に好きな人がいる。それが何より幸福だった。お互い、その幸福を我慢できなくて、軆を重ねた。
夏がゆっくり終わって、秋が深まっていく。森谷くんと会える時間はまちまちだったから、最近、私は昼間にも道を歩いているときがあった。それも小学生の子たちが下校する横を、ぼんやりすれちがっていたときのことだった。
「ねえ、おばちゃん。水原のおばちゃんだよね?」
子供たちの中から、そんな声をかけてきた女の子がいた。私は足を止め、首をかしげた。女の子も首をかしげながら、私に近づいてくる。
「水原のおばちゃん?」
「……そうですが」
「あのね、未華子、おばちゃんに訊きたいことがあってね」
「え、……と、あなたは──」
「どうして、おばちゃんはおとうさんと仲良くするの?」
私は息を飲んだ。その子の顔を憶えていたわけじゃない。でも、その質問ですぐ分かった。
森谷くんと千佳の──
「おとうさんによしよしってされるのは、毎日ごはんとかお洗濯とか頑張ってるおかあさんじゃないの?」
「あ……」
「おばちゃんも、おとうさんのために何か頑張ってるの?」
私は目を開き、立ち尽くしてしまった。未華子ちゃんの瞳が、澄んできょとんとしているのが、余計に胸をえぐった。
ああ、この子、本当に分からないんだ。まだ、分からない歳の子なんだ。自分の父親が、母親ではない女と仲良くして、純粋にわけが分からないんだ。
急激に、自分への嫌悪感で吐き気を覚えた。あまりの吐き気に涙がこみあげ、未華子ちゃんはびっくりした顔になる。そんな彼女に「ごめんなさい、本当にごめんなさい」と何度も言うと、私はその場を駆け出していた。
こんな田舎に、身を隠すような雑踏はない。どうしよう。とにかく陽に当たりたくなかった私は、山のほうへ歩いていった。山道を歩くうち、さくさく、と自分が何か踏みしめていることに気づき、頭の上を見上げる。
ああ、もう、そんな時期なんだ。
紅葉がいっぱいに陽射しに透けている。
きらきらと、落ち葉が地上に降りそそいでいる。
あの日から、もう十五年くらいかな。私、ずいぶんと間違えてしまった。本当に、あまりにも、間違え過ぎた。
ふと、水の音がすることに気づいた。耳を澄ましてその音をたどり、私は川の清流に出た。ひらひらと紅葉が舞いこみ、急流に飲まれている。しゃがんで水に触れてみると、冷たいけど、思ったより凍てつくようではなかった。
しばらく、自分の息遣いを聞いていた。何だか、消え入っていくように感じた。その中で、ぱちぱちと静電気のように、抗えない衝動が起きはじめる。
私は靴も脱がずに、川に足を踏み入れた。
わがままだ。めちゃくちゃにわがままだ。でも、死ぬ前に私を雪いでほしいから。
ざぶざぶと川の中を進む。強い流れが来た瞬間、深瀬にがくっと足元が落ちた。拍子、岩でしたたかに頭を打ってしまい、視界に赤いものがゆらりと大きく広がった。
血が、私の赤い血が、紅葉と一緒にどんどん流れていく。
熱い涙が止まらないけど、それも水に溶けて流れていく。
ごめんなさい。違ったのにね。あなたの幸せの相手は、私じゃなかったのに。
ちゃんと幸せになって。私の友達と、その子供たちを幸せにして。
私の、ことは……
意識が霞んで、薄れていく。軆が流れに持っていかれる。沈んでいく。喉を水流に塞がれ、頭の中が暗くなる。清らかな水の流れを、穢れた紅葉で穢しながら。
私は最後に咲いかけて、もう何も見えなくなった。
FIN