白桜の頃

 卒業式、白い桜の花びらがちらちら降っていた。俺はその中に突っ立っている。近づきたい。近づけない。そんな彼女の笑顔を見つめながら、ポケットの中の連絡先のメモをくしゃっと握った。
 水原みずはらにメッセを送っても、いつまでも既読がつかないから、不安は感じていた。昼までは寝ているにしたって、夕方に送ったメッセに、深夜になっても何も反応がないということは今までなかった。
 その日も、終電は地元まで俺を運んでくれなかった。というか、俺の最寄りを通り過ぎてしまう。だから、手前で降りて、俺は毎日三駅ぶんの線路沿いを歩く。
 こんな時間、いつもは静まり返っている町だ。なのに、今日は人がちらほらといて、ひそひそ話をしていた。俺は町並みを見やって、山のほうで赤いサイレンがまわっていることに気づいた。
 初めて、不安が嫌な予感になった。
「何かあったんですか?」
 同じようにサイレンを見守る人々に、それとなく訊いてみると、「水原さんとこの娘さんだよ」と返ってきた。心臓がざわりと逆撫でられる。
「事故じゃないよなあ、あれは」
「自殺かしらね。嫌だわあ」
「いつか何かやらかすんじゃないかって思ってたわ、私」
「そうよねえ、こっちに帰ってきて働きもせずに──」
 自……殺?
 水原が?
 脳髄から脊髄へと、さーっと感覚が冷えていった気がした。俺はまだうわさ話を続ける町人を置き、赤いサイレンをまわっているほうへと走り出していた。
 救急車はもういなかった。赤いサイレンは警察だった。野次が集まっている。突っ立っていれば、だいたい情報がその口々から聞こえた。
「川がひどい血の色だったなあ」
「たぶん、急流から流れてきたんだってよ」
「こんな時期に、そもそも山には近づかないでしょ。自殺だよね……」
「うちの子が一瞬遺体を見たらしいんだけど、岩に何度もぶつかって、ぼろぼろだったみたいよ」
「何でまた……せめてよそでやってくれんかねえ」
 聞いているうちに、頭がぐらぐらしてきた。俺は身を返した。視界がぶれる。涙じゃない。めまいだ。酩酊しているみたいに、足元がおぼつかない。
 そんな足で、どうにか帰宅すると、まだ明かりがついていた。いつも未華子みかこ智弥子ちやこが眠ってしまっているからと、明かりは落とされているのに。息をついて玄関を開け、「ただいま」と声をかけても、返事はなかった。
 重たい足で、明かりがついている居間を覗いた。そこでは、未華子に膝まくらをしている千佳ちかが、まだ起きていた。「千佳」と声をかけると、彼女は肩を揺らしたけど顔を上げない。
「どうした?」
「……外の騒ぎ、見なかったの?」
「あ、……えと。いや」
祥子しょうこだよ」
 俺は口をつぐみ、千佳の隣にしゃがんだ。千佳は泣いていなかった。ただ、奥歯を噛みしめているのか、頬がこわばっている。
「そうだな。お前たち、高校時代はけっこう仲良かっ──」
「そう。仲良しで、あたし、すごく祥子が好きだった」
「……うん」
「祥子は……あたしを裏切らないから」
「………、」
「絶対、あたしの下だったから」
「……は?」
 千佳は俺に顔を上げ、「全部知ってる」と突然言った。俺は千佳を見る。
「全部」が、本当に「全部」かは分からない。だが、俺は低い声で、「……そうか」と応じた。
「祥子が、好きなんだよね」
「……まあな」
「ずっと」
「うん──」
「高校のときから」
 俺は眉を寄せ、千佳を見た。
「知ってるよ。内緒だよって言われたけど、……もういいか。祥子ね、道哉みちやと紅葉デートしたこと、嬉しそうにあたしに話してくれたから」
「そう……なのか」
「あの頃から、あんたたちが両想いだったのも知ってた」
「……お前、成人式で俺に告ってきたよな」
「うん」
「俺は、水原を忘れなきゃと思って」
「それも知ってた。あたしはずっと悔しかった。祥子がうらやましかったの。だから、高校の卒業式も祥子にくっついて、道哉とはふたりきりにならないようにした」
「───」
「連絡先も交換できないようにした。あんたたちを引き離すために、あのときは、どれだけ気を張ったことか」
「千佳──」
「それでも、道哉は祥子を忘れてくれなかったね。あたしが尽くしても、未華子が育っても、智弥子が生まれても、祥子が町に戻ってきたらあっという間だった」
 俺はため息をついて、たたみに腰をおろした。
 否定できなかった。そんなことない、俺はお前たち家族が大切だよ──なんて、さっきからめまいにちらつく水原の瞳がよぎって、とても言えない。
「あたしの片想いにつきあってくれて、嬉しかったよ。全部分かって、覚悟して結婚したつもりだけど……やっぱつらいね」
「……つらい、って」
「道哉が、そんなに祥子を想ってるのだけは誤算だったかも」
「でも、」
「未華子がね、今日、祥子に何か言ったらしいの。学校から帰ってきて、一番に報告してきたよ」
「言ったって──」
「『ママの代わりに、水原のおばちゃんやっつけたよ』って」
「えっ……」
「子供なりに、気づいて、心配してくれたの。未華子のことは責めないで」
「……じゃあ、水原が自殺したのは」
「未華子のせいかもしれない。……そうだと思う。でも、」
 胸がつっかえる。喉にうまく呼吸が通らない感じを覚える。未華子。俺の娘の何かしらの言動で、水原は──
 いや、千佳の言う通りだ。未華子を責めてはいけない。千佳の膝で眠るこの子の父親にもなっておきながら、水原を放っておけなかった俺が悪い。水原に、揺れたりしなければ──
 でも、どうしても水原の声がよぎる。彼女が町を出て、送ってきたひどい日々。あの日、三駅走らせてまで、呼びつけた俺を見つけた瞬間の瞳。やっとほっとしたように、微笑んでくれた。
 俺はまた、昔のように水原しか見えなくなった。
 俺さえ隣にいれば、こいつはあんなひどい目には合わなかったかもしれない。そう思うほど、まるで贖罪のように水原を抱いた。言えなかった「好き」という言葉を、飽き足りることなく交わした。
 自分の立場を捨てることになってもいいと思った。バカみたいだけど、狭いこの町を追われることになれば、水原の手を取って逃げればいいとさえ……
 無理だろ、と引き攣った息がもれた。後悔するなんて無理だ。俺はやっぱり、水原がずっと好きだったから。
「お通夜、明日だそうから」
「えっ……」
「行ってあげなよ」
「俺が、行っても──」
「ずっと想ってた相手じゃない」
「………」
「……祥子にとってもね。道哉が来たら喜ぶよ」
「千佳は」
「……あたしが、行ってもいいと思うの?」
 俺は唇を噛んだ。さっきの話を聞いて、当たり前だろ、とは言えなかった。
「誰も、知らないから。大丈夫だよ。あたしはさすがに合わせる顔ないけど、祥子は道哉の顔は見たいと思う」
「……分かった。じゃあ、明日行ってくる」
「うん。未華子、寝室に運んであげて。何か食べる?」
「いや……」
「喪服とか、用意しとくね」
「……ああ」
 未華子を優しくたたみに寝かせてから、千佳は奥の和室に入っていった。俺も腰を上げ、未華子を抱き上げて寝室に連れていった。よく眠っていて、起きる気配はない。寝室では智弥子も眠っていて、俺はふたりの娘の寝顔をしばらく見つめていた。
「……ごめんな」
 消え入るような声で言ったけど、もちろん返事はない。すうすうとまろやかな寝息だけが返ってくる。それを聞いていると、やっとほんの少しだけ泣けてきた。
 居間に戻ると、食卓に『やっぱり、少しだけでも食べて。先に寝ます』という千佳のメモが置かれていた。伏せられたお椀のそばに、お茶漬けの素が添えられている。俺は息をつくと、それより台所から酒を持ってきて、水割りにもせず、氷だけ入れて一気に飲んだ。
 ビジネスバッグのかたわらに、帰ってきたとき使った鍵が入ったキーケースが、転がったままだった。俺はそれを手に取り、キーケースを開いた。
 鍵束に紛れて、銀メッキの小さな指輪がつながっている。いつも持ち歩いている、ちゃっちいこの指輪は、水原に渡せなかったものだ。
 高校時代、水原と紅葉の中をデートした。我ながら、金もロマンもないデートだった。でも、ひらひらと紅葉が舞う中で、水原は喜んでくれたっけ。しかし、やはり初デートで指輪は重すぎる気がして、これは取り出すこともできなかった。
 あの頃、俺は必死なほど水原をつかまえておきたかった。夏、水原が進学で町を出ていくことを知った俺は、どうしてもつながりを持ちたかった。あのデートは、本当にチャンスだった。なのに、「またデートしたい」なんて曖昧なことを言うだけで、それ以上彼女に踏みこむ勇気はなかった。
 確かにあの頃、千佳がよく話しかけてきて、水原との会話は途切れてしまうことも多かった。しかし俺は、それを鬱陶しいと思うどころか、こいつって俺に気があるのかなとかバカバカしく浮かれた。そんな浮かれた気持ちがあったから、成人式で振袖の千佳に告られたときも「やっぱり」という感じで、それを受け入れた。
 水原を想わなかったわけじゃない。でも、とっくに町を出ていった女を待つ男もかっこ悪いとか、そんなことを思った。
 俺はいつも上っ面だった。それが、水原との再会で、いまさら獣みたいに思うまま動いてしまった。彼女を抱きしめながら、俺はずっとこうしたかったんだと思った。
 翌日、水原の通夜が行なわれた。会社に不幸を伝えて有給をもらった朝から、雨がしとしと降っていた。泣いている人はそんなにいなかった。疲れた顔や憮然とした顔が多く、水原の両親は何だか恐縮したように対応していた。
 玄関先に赤いダリアが添えられていた。雨に濡れていたので、軒下に動かそうとしていると、「ああ、すみません」と声がかかった。
 振り向くと、水原のおかあさんだったから、どきっとしてしまう。
「あ、いや、濡れてるのも可哀想かなと思っただけで」
 俺がそう言うと、水原のおかあさんは俺を見上げ、弱々しく微笑んだ。
「ええと、森谷もりたにさんのところの」
「あ、はい。娘さんとは、高校時代に同級生で」
「……そうだったんですね」
「その、……娘さん、お悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます」
「妻も──同級生だったんですが、娘を見なきゃいけなくて」
「ああ、そうでしたね。確か、ふたりとも女の子」
「そうです。連れてきても、騒がしいだけですから」
 水原のおかあさんは目を伏せて微笑み、「元気なのはいいことですよ」とかぼそく言った。
「あの子……祥子は、地味な子だと言われることが多かったから」
「え、いや……そんな」
「でもね、私と夫にとっては、生きてくれているだけで華やかな気持ちにさせてくれる子だったんです。このお花みたいに」
 俺は一瞬口をつぐんだが、「俺も同じです」とつぶやいた。我ながら、娘たちのことを言ったのか、水原のことを言ったのか、分からなかった。
「そうね、娘さんがいるならそうですよね」
 水原のおかあさんは、当たり前のように涙ぐむ。そう言われてみて、自分は水原のことを言ったのだと自覚した。
 生きてくれているだけで。そうだ。水原、俺はお前が生きてくれているだけで。
「妻も……知っていることなんですが」
「はい」
「俺の初恋、祥子さんなんですよ」
「えっ……あら、そうなんですか。祥子ったら、こんな素敵な人を振っちゃったのね」
「いえ、俺が伝える勇気がなくて」
「そうなのね……。ふふ、もしかしたら、あの子にもずいぶん違う道があったのかもしれないですね」
 顔を伏せた俺に、「何だか、奥さんに失礼ね。ごめんなさいね」と水原のおかあさんはすぐ謝る。俺は首を横に振ると、ポケットのキーケースを取り出した。
「もし良ければなんですが、当時、祥子さんに渡せなかったものを預かってもらえますか」
「あ、もちろん。何でしょうか」
 俺はキーケースのリングから、指輪を外した。それを見て、水原のおかあさんはやや息を飲む。
「いや、えっと、高校生が夏祭りの射的で撃ち取った、ちゃっちい指輪ですけど」
「……祥子に?」
「はい」
「それは──さすがに、奥さんに悪いような」
「いえ、妻や娘たちと生きていくためにも、もうここでしか手放せないので」
「………」
「お願いします」
 俺が深く頭を下げると、水原のおかあさんは慌てたようにそれを制し、「分かりました」と手をさしだした。
「預からせてもらいますね」
「……すみません、わがままで」
「いえ……」
 指輪を受け取った瞬間、水原のおかあさんの瞳から涙が落ちた。水原のおかあさんは、それを何度も謝りながらも、涙をあふれさせる。
「ごめんなさいね」
「あ、いえ。俺こそ」
「違うの、あなたに祥子を幸せにしてほしかったなんて思っちゃって。本当に、嫌な母親ですね。ごめんなさい」
 指輪を握って嗚咽をこぼす水原のおかあさんに、俺も泣きそうになる。
 俺も水原を幸せにしたかった。いまさら、できることはあるのだろうか。俺もそっちに行けばいいのか? もし、水原がそれを望むなら──
 その日からしばらく、雨が続いた。土砂降りのあと、やっと晴れ間がのぞいた。
 今日も二時間かけて通勤する。会社までのアスファルトには、街路樹の紅葉がだいぶ落ちてしまっていた。それを踏みしめて、俺は早足に歩いていく。
 雨粒がそこかしこできらきら太陽を反射している。風は冷たい。もう秋も終わりそうだ。
 未華子と智弥子はかわいい。千佳のことも、愛していないわけではない。俺はたぶん、水原を一生引きずるけど、それに囚われているわけにはいかない。
 もうすぐ冬が来る。
 俺は二度と、心温まる冬は過ごせない。それでいい。水原は冷たい水流にあっという間に奪われながら、ひとりで逝った。だから、俺はゆっくりと死んでいく。時間をかけて苦しんで、死ぬまで背負って。
 秋の青空は高く、ひんやりとしている。陽射しに目を細め、俺は一瞬、春になったばかりの寒空を思い出した。
 卒業式。桜の残像。花びらは白く降っていた。
 俺は何も分かっていなかった。本当に、分かっていなかった。少しでも、早くつかまえていたら。勇気を出して、水原の手をつかんでいたら。
 あの頃に戻れることはない。決して戻れることはないのだ。それが俺の胸を、あまりにも締めつける。
 まばたきをして、正面を見た。人が慌ただしく行き交う雑踏がある。白桜の頃は水底に封じ、俺はその中に混じる。
 柔らかい落葉とは違う、砕け散ったガラスの上を歩いていくような想いで、長い長い冬に迷いこんでいく。

 FIN

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