靴箱で靴を履き替えると、昇降口を降りて校舎をあとにする。中学生になって二週間。肌に合わないことは分かっていた。だからあたしは、とっとと自主早退を決め込み、ひとりで校門まで歩いていく。
入学式には、とっくに桜は散っていた。だから、門までの小道に、降りそそぐ花びらはない。春の陽光だけが、花壇に咲く花の香りと共にただよっている。
そしてこのとき、その小道でよくすれちがう男子生徒がいる。制服をかったるそうに着崩して、煙草の匂いがしている。春風になびく髪は、雑に脱色された茶色だ。
挨拶なんてしない。言葉もない。でも、必ず一瞬、目が合う。
彼のことは知っている。伊島陽太。小学校も同じだった、このあたりでは有名な不良だ。クラスの男子を舎弟みたいにして、今もつるんで、喧嘩したとか恐喝したとか。
向こうは、あたしのことなんて知らないと思う。あたしは、小学校では不登校だったから。
リボンを結わえた胸が息苦しい。お揃いの制服も、整列した教室も、割り振られた時間割も、すべて窮屈だ。朝には家をたたき出されるから登校はしている。けれど、終業まで耐えられた試しはない。
「甘やかすのは、小学校までだ」と父親は言った。
「イジメられて行けない子もいるんだから」と母親は言った。
あたしは、イジメを受けて学校がつらいわけではない。朝、教室に入って「おはよう」と言ってくる子はいなかったけど、それでよかった。あたしのことは放っておいてほしかった。
でも、席に着いて小説を読んでいると、クラスの女子連中が近づいてきた。
「神木さんの爪、すごく綺麗だよね」
あたしは本を閉じないまま、特にネイルはしていないけど、磨いて手入れしている自分の爪を見た。
「……磨いてるだけだよ」
「え、マニキュアじゃないの?」
「絶対、マニキュアでしょ」
あたしの指先を自分の指先と見較べて、彼女たちは大袈裟に驚いている。
「どんなふうにお手入れしてるの?」
「私たちもやっていいよね?」
知らねえよ、と内心で毒づく。そんなことにあたしの許可は必要ないし、仮に許可しなくても真似する奴は真似するし、あたしはそういう奴が大嫌いだし。
翌日、彼女たちは勝手に爪のお手入れについて調べて、ご丁寧にマニキュアまで塗ってきた。その淡い色は綺麗だけど、下手くそにはみ出していて、ただ汚れているだけのように見えた。
あたしは、誰にも何も言っていない。彼女たちに、この爪は磨いていると言っただけだ。なのに、教師にマニキュアを見咎められた彼女たちは、「神木さんもやってるんです」と言った。しかし、磨いていただけのあたしは、もちろんマニキュアなんて塗っていない。
何だかよく分からないけど、それで盛大に女子連中に嫌われた。この顛末に、一週間もかからなかった。耐える必要はないと思って、あたしはいつもお昼になる前には、教室を勝手に出ていく。
どうせ給食が嫌いだ。あんなの、カップ麺のほうがマシだ。
住宅街の中の一軒家まで、徒歩二十分かかる。共働きの両親は、基本的に日中は留守だ。けれど、たまに父親がいつまでも出勤しなかったり、最悪そのまま休んだりしている。家の前に来て、車があったらそうだ。
その日も、家の駐車場に車が停まっていた。いるのかよ、と舌打ちしたあたしは、スカートをひるがえし、住宅街を抜けて駅前までの通りに出る。
居酒屋、カラオケバー、立ち飲み、スナックにラーメン。ややうらぶれたそんな店が立ち並ぶ、飲み屋街だ。カフェや美容院、焼き立てのパン屋が並ぶのは駅の反対側で表通り、こっちは裏通りと呼ばれている。裏通りより、さらに治安が悪い地下通りもあるけれど、さすがに危険かと思って近づかない。
駅構内を抜けて、表通りに出たあたしは、ファーストフードで昼食を取った。ダブルチーズバーガーとフライドポテト、ナゲット、ドリンクはホワイトソーダ。いつもこれだから、特においしいとも感じないが、飽きは来ない。こんな時間帯でも制服の子がちらほらいて、あたしが制服のままでも浮くことはないのは助かる。
店内にかかっているのは、しゃべりまくるFMラジオと厚ぼったいヒーターだ。外の陽気に当たっていると、そろそろ暑くなってくるのかなと感じるけれど、着る服はまだ長袖だし、朝晩もけっこう冷えこむ。
最後に残るのは、たいてい冷めたポテトで、それをゆっくりつまみ上げて口に運ぶ。塩味を噛みしめ、だるいなあ、とぼんやり頬杖をつく。
あたしの中学時代は、三年間、おそらくこんな感じで──たぶん高校にも行かされるから、やっぱりこんな感じで、いったいいつになったら変わるのだろう。大学ともなると、ぜんぜん想像がつかないけど、行っているのかな。わざわざ勉強したいことも、取りたい資格もないのに。
退屈だ。何にもない。毎日は垂れ流れているだけだ。
十六時をまわった。ホワイトソーダにたっぷり入っていた氷は、すっかり溶けていた。あたしは席を立ち、そろそろ帰宅してもおかしくないだろうと考える。ヒマすぎて眠いわ、と思いながらファーストフードを出て、一瞬、陽射しに目を細める。
表通りから駅、そして裏通りへと歩く。昼間は静かだったけど、どこも開店準備を始めている。ラーメンのスープの匂いや、焼き鳥のタレの匂い。打ち水をしている居酒屋もある。
そんな裏通りを抜けた先に、急に閑静になる住宅街がある。中学校や小学校は、さらにその奥で、駅と駅と中間に位置していることになる。
裏通りから、さらに路地に入る道がいくつかある。その路地沿いに、特にスナックや立ち飲みが入った雑居ビルがあって、そのビルに入ると、階段で地下に出れるらしい。地下の通りは、どんなところなのだろう。危ないと分かっていても、いつも気になるから、路地を通り過ぎるときは歩調が緩む。
路地を出入りする人さえ、普段はあまり見かけない。だけど、今日はぞろぞろと出てくる連中がいて、思わず足を止めた。それに合わせて、彼もあたしに気づき、やはり目だけかちりと合う。
伊島陽太。制服のまま、舎弟たちを連れて、ビルをぞろぞろ出てきている。
あいつも、このへんをうろついてるのか。まあ、この地域には近づくなと学校で言われていても、守る奴ではないだろうけど。
伊島はすっと視線を外し、舎弟たちと路地奥のほうへ行ってしまった。舎弟の中には、中学生だけでなく、小学生高学年くらいの子もいるようだ。年上に見える奴は従えていない。あと、女もいない。
なのに、なぜか男子の群れという生温さを感じなかった。やっぱり、伊島がその中で有無言わさぬボスだからだろうか。
あたしも男ならあれに混ざってたのかな、なんて思った。あたしも「普通」をはみだしてるし、行く場所もない。無駄な時間はたっぷり。パパ活をしようとは思わないけど、無感覚に誰かを殴る蹴るしたいような、もどかしさは抱えている。
やりたいようにグレている伊島たちのことを考えていると、何だか、家に帰る気がしなくなった。結局、夜にはおとなしく家に帰っているあたしは、ナイフになれない人間だ。
家なんか嫌い。小学校のときに学校に行けなかったあたしを、「落ちこぼれ」として見下して。その心情はぬぐえぬまま、中学には何とかたたき出しつつ、「ああ、何でうちの子は、楽しそうに学校に行けない出来損ないなんだろう」という想いが態度に滲んでいる。
でも、あたしは、宛てがなくて家に帰るしかない。情けない。
家の前を通り過ぎ、その先にある公園に踏みこんだ。子供たちが遊具で遊ぶというより、ただ広いグラウンドがあるだけの公園だ。葉桜になった木に、ぐるりと囲まれている。風に葉擦れがざわりと響く中、あたしはため息をついてベンチに腰かけた。
かったるいなあ、と睫毛を伏せる。学校も、家庭も、毎日の何もかもが鬱陶しい。だから死にたいとかは思わないけど、生きていて何なのかなと思う。このまま大人になって、あたしはちゃんと働くとかできるの?
家を出たいから、仕事はしないといけない。でも、職場に通って、労働して、給料をもらっている自分のイメージが湧かない。やってみたい仕事のような、将来の夢もない。
このままではいられないのに、このまま変わりそうにない自分が嫌いだ。考えるほど、脳が弛緩してきて眠くなって、思考から逃げ出したくなる。
いつのまにか、すっかり暗くなっていた。この薄暗さの中、ぼんやり座っているのも危ない。帰るか、と結局思って、ベンチを立ち上がろうとしたときだった。
「帰るの?」
眉を寄せ、声のしたほうを向いた。いつのまにか、腹が突き出たジャージのおっさんがベンチの脇にいた。誰、と一瞬動きを止めた隙に、ぶあつい手に手首をぐいっとつかまれる。
「どうせ帰りたくないんでしょ」
不愉快をあらわにして、手を振りほどこうとしても、手汗が気持ち悪い手は離れない。
「俺の家においでよ。すぐそこなんだ」
「……っ、離して、」
「かわいい声してるね。制服もそこの中学? ねえ、写真撮らせてくれたら、お小遣いあげるよ」
にたにたした笑いを浮かべたおっさんに、手首を無理やり引っ張られたときだった。
「何してんだよ」
そんな低い声がして、背後から人影が現れた。と同時に、長い脚がおっさんの腰を強く蹴りつける。
あたしはその人を見た。目を開く。
伊島陽太──
「なっ……何だ、このガキがっ」
「俺がガキなら、この女もガキだろうが」
伊島は、あたしの手首をつかむおっさんの手も、たたき落とした。それがけっこう痛かったのか、もう一方の手でかばいながら、おっさんは「クソがっ」と吐き捨てる。
「マセガキ同士でつるみやがって。胸糞悪りいな」
どっちがだよ、と思っていると、おっさんはその場を去っていった。
あたしは伊島を見た。意外と、身長が変わらないことに気づく。あたしは背後を見たけど、舎弟連中はいないようだった。
伊島は、面倒そうにあたしをじろりした。
「何してんだよ。危ねえだろ」
「何で助けたの?」
質問には答えず、ぶしつけに問うたあたしを、伊島はひと睨みしたあと、歩き出した。「何で?」と繰り返して、あたしは彼を追いかける。
「ついてくんな」
「あたしの家もこっちだし」
伊島はむすっと押し黙り、道路の反対側の端に寄って、露骨にあたしを離れた。あたしも、さすがにそれにすり寄るのはやめておく。あたしと伊島は、道路の端と端で歩いた。
しばらく無言だった。そのうち、前方に裏通りの夜の明かりが見えてくる。あたしの家への道は、とっくに通り過ぎていた。
「不登校してたよな」
不意に、伊島がぼそっと言った。「知ってるの?」とあたしは思わずまじろぐ。
「うらやましかったから」
「不登校が?」
「ああ」
「楽しいもんでもないけどね」
「学校よりマシだろ」
「まあ、そうだね」
「俺もひとりになりたい」
「え……舎弟連れてるじゃん」
「勝手についてくるんだ」
「………」
「俺みたいになりたいって」
「それは、慕ってるんでしょ」
「俺のことバカにしてんだよ」
そんな淡白な会話をしていると、裏通りに入っていた。ラーメンのおいしそうな匂いがして、急に空腹を覚えた。
「……お腹空いた」
「食ってねえの?」
「お昼にハンバーガー食べただけ」
「………、じゃあ、こっち来な」
伊島はすっと路地に入る。あたしはやや躊躇ったものの、ついていった。エステとかヘルスとか、けばい看板が並ぶ狭い道を進む。食事代稼げばいいとか言われるんじゃないかと危懼していると、とりわけボロい平屋に伊島は入った。
風俗店ではなさそう、というか、薄汚れたショウケースに、安っぽい料理の模型が並んでいる。かなり古ぼけた定食屋っぽかった。でも、こんな通りの定食屋なら、売春の斡旋など副業もやっていそうだ。
足踏みしてると、「おい」と伊島の声がして、あたしはため息をつく。助けてもらった礼を稼ぐのは恩なのかな、と思い切って店に足を踏み入れた。
「あ、陽ちゃんだ」
「今日は何食べるの?」
「喧嘩しなかった?」
店内に踏みこむと、ほかに客もいない中、伊島の足元に三人の幼い子供たちが集まっていた。伊島は子供たちの目の高さにしゃがむと、「ふたりぶん、いつものよろしく」と微笑む。咲った、とあたしは思わず伊島を二度見しそうになる。
「ふたりぶん!」
「初めてのお客さんだ」
「女の人だよ」
子供たちの視線がわらわらとあたしに集まってきて、すくんでしまう。どの子もぼさついた髪、粗末な服、手足はホコリか土かで汚れている。
「女将さん、陽ちゃんが女の人連れてきた!」
「綺麗な人だよー」
「注文、ふたりぶんだって」
子供たちが店の奥に声をかけると、「あらあら」としわがれた女の人の声がした。こつ、こつ、というぎこちない音が近づき、顔を出したのは杖をついた初老の女の人だった。
「陽ちゃんが女の人を連れてくるなんて。ゆっくりしていってくださいね」
にこやかにそう言いながらも、女の人の視線はこちらにはっきり向かっていない。目が不自由なのは、すぐに分かった。
「別に……俺の何かってわけじゃないけど」
「ふふ、照れるのねえ」
「ほんとに、何でもないよ。ただ、腹減ってるらしいから。ちゃんと俺がはらうよ」
「ありがとう。すぐ用意しましょうね」
「手伝おうか?」
「陽ちゃんは、連れてきた人とお話していなさいな」
女将さんらしい女の人は、また不安定な杖の音と奥に行ってしまった。「僕たちは、女将さん手伝うね」「待っててね」と子供たちも消えてしまい、伊島は少し参ったように髪をくしゃっとさせて頭を掻いた。
「……悪かったな。お前は俺の何でもないのに」
「ここが、あんたの家なの? さっきの、おかあさん?」
「んなわけねえだろ」
言いながら伊島はテーブル席に腰かけ、あたしもおとなしくその正面の席に座る。
「昔から、俺に飯をくれる人なんだ」
「家は?」
「親父がうざい」
「……あたしも」
「母親は?」
「父親のロボットみたい」
「俺んとこは、糸切れた凧だわ」
伊島は煙草を取り出し、火をつけてふかした。「いる?」と勧められて、「うん」と吸ったこともないのにうなずく。火を移してもらい、少し吸ってみたら、煙たさに派手に咳き込んでしまった。
「吸ったことないのかよ」
「ない」
「じゃあやめとけ」
「あたしの勝手でしょ」
伊島は肩をすくめて、煙草に口をつけ、客が来る気配もない薄暗い店内を見やった。暗目にも、掃除が行き届いている様子はない。奥からは、何かを炒める音がしていた。
「できたよー」と子供たちが運んできたのは、チャーハンとギョーザだった。正直、すごくおいしいわけでもなかった。でも、何だかほっとするのは、いつものハンバーガーより味つけが優しいせいだろうか。少なくとも、給食よりは心が温まる。
あたしは無言で食べていたけど、伊島は子供たちと言葉を交わしていた。子供たちも「女将さん」と呼んでいるから、あの人が母親というわけでもなさそうだ。「家で何か食えてるか?」と伊島に訊かれると、「食パン食べたよ」とか「ママが捨ててた奴食べた」とか──どうやら、子供たちは三人兄弟でもないらしい。
食べ終わったあと、あたしは自分のぶんは自分で出しておいた。「おねえさん、また来てくれる?」と子供たちに訊かれ、「来てもいいなら」とあたしが答えると、「来てね!」と子供たちは嬉しそうにはしゃいだ。女将さんには、会釈では何も伝わらないのかと気づいて、「ごちそうさまでした」と声を出す。
「いえいえ、来てくれてありがとうね」
女将さんも笑みを作ってくれた。「行くぞ」と伊島に声をかけられ、あたしはそれを追いながら、もう一度店内を振り返る。あたしたちのお会計を、子供たちが女将さんに渡している。その中から、女将さんは子供たちに駄賃をあげている様子だった。
伊島は、裏通りを抜けたところまであたしを送った。時刻は二十時が近い。そういえば、今日は父親が家にいたわけだから、まっすぐ下校しなかったことがばれている。めんどくさいなあ、と思うけど、別にそれを伊島に愚痴ることもないか。
「寄り道すんなよ」
言い残して、伊島は裏通りを引き返していった。あたしは息をつくと、のろのろと自宅に向かう。
リビングをスルーして二階の部屋に行こうとしたけど、案の定、親につかまって怒られた。父親は学校にちゃんと行ったのかと怒鳴るし、母親はいい加減にしてちょうだいとなじる。でも、あたしは伊島のことを考えていて、内容は耳を素通りしていった。
それから──伊島とつるむようになったり、まして親しくなったりすることは、なかった。でも、行く宛てがないときには、あたしはあの定食屋に行った。子供たちはそれを喜んでくれたし、女将さんも料理を作ってくれた。
「陽ちゃんは、昔から夜に家を飛び出してばかりでね。詳しいことは私も知らないけれど、このへんを子供が夜に出歩いているのは危ないから。何かあればうちにおいでって言ったから、今も来てくれるのよ」
女将さんは、よくあたしの話相手になってくれて、伊島のそんな話もしてくれた。
「あなたは、陽ちゃんがいつも連れてくるお友達とは、少し違うわね」
女将さんはそう微笑む。いつも連れてくるのは、あの舎弟連中なのだろう。
あたしが公園で伊島に助けてもらったことを話すと、女将さんは心配そうにして、「あなたにも、逃げるところがないならいつでもおいでって言いたいのだけど──」と言った。
「もう、この店も限界みたいなのよ」
「限界?」
「主人がここを手放すと言ってね」
「え、ご主人──」
「ここにはいないの。ずいぶん昔、このへんのスナックの女の人と逃げてしまって」
「………」
「その頃から、経営も家計もずっと苦しくて……でも、子供たちが集まって、ここでなら怖い想いをしなくていいって言ってくれるから。頑張ってきたんだけどね」
「……伊島も、そういう子供のひとりだったんですね」
「そうね。陽ちゃんは、お代を必ずくれるのよ。きっと、あまり良くない方法で手に入れたお金なのは分かっているのだけど。連れてくるお友達にも、お代は出すように言ってくれて」
女将さんは苦しそうにうつむき、「でも、もう立ち行かないねえ」と目を伏せる。
「逃げた主人が、見つかったそうで。すぐに売り飛ばすサインをしたそうだから……もう立ち退くように言われてるの」
「伊島は、その話知ってるんですか」
「話していないけれど、知っているかもしれないわね。ごめんね、あなたには話してしまって。重たいわね」
「いえ……」
「一応、陽ちゃんには話さずにいておいてね。自分の負担になることも、あの子は恩義ならしようとするから」
あたしは伊島を想った。たまに目が合うだけのあたしを痴漢から救った彼なら、お世話になった人のことは、ことさら助けようとする気がした。
連休が終わって、五月が本格的に始まった。すでに真夏日もちらほらする日々、あたしは学校に行っても自主早退を繰り返している。ただ、すれ違うときに少し伊島と話すようになっていた。
「神木さん、五組の伊島くんと仲いいの?」
そんなある日、例のマニキュア連中がのうのうと話しかけてきた。あたしは一瞥のみで、答えずに本に目を戻した。
「あいつ、小学校のときからめちゃくちゃ不良なんだよ」
「そう。神木さん、ずっと不登校してたし、知らないかもしれないけど」
「顔はかっこいいけどねー。危ないから、近づかないほうがいいと思うよ」
あたしはページをめくり、「あたしには、そんなにひどい奴でもないから」と言っておいた。彼女たちは顔を合わせた。明らかにむっとした雰囲気が伝わってくる。
「それ、自分は伊島くんの特別だって言ってるの?」
「騙されてるから! あいつ、マジでやばいんだよ」
いらいらしてきて、あたしはわざとらしくため息をついた。席を立ち上がると、「な、何?」とひとりが臆しながらも言ったけど、静かに本読みたいから」とあたしは文庫本だけでなく荷物も持って、教室を出ていった。
こんなの、いつものことだ。あの子たちは、顔がかっこいい男子としゃべっている男子があたしが気に入らないだけ。何だかんだ、自分たちも伊島とお近づきになりたいだけ。マニキュアみたいに、真似っこをしたいだけ。
勝手にそうすればいい。もし伊島が彼女たちをあしらわなかったら、あたしが伊島を離れたらいい。
なのに、それはなぜか理不尽に思える。分かっている。伊島はあんな連中を相手にしないと分かっている。でも──
その日も早退して、定食屋に行った。すると、今日はそこには、見覚えがあるような、伊島の舎弟らしき奴らがいた。子供たちもいるけれど、伊島はいないせいか、彼らに構うことなく店の隅っこに集まっている。
「おねえさん」
あたしには近づいてきて、注文を訊いてくれる。「いつもの」と言うと、「分かった!」と子供たちは笑顔になり、店の奥に駆けていった。
「伊島さんも、あんな使えそうもないガキ、ほっとけばいいのになー」
ふと舎弟のそんな笑い声がした。
「伊島さん、変なとこで優しいからな」
「やっぱ、家のことのせいなのかねえ」
「よく知らねえけど、伊島さんのことは可哀想だと思うぜ」
「確かになー。何か、ここしか飯食うとこなかったんだろ?」
あたしは眉を寄せ、舎弟共を一瞥した。「よく知らないのに『可哀想』」って何? ここではごはんを食べれることが、伊島には救いだったのはあたしにも分かる。なのに──
……ああ、そうか。あたしも、そうなのかもしれない。あの子たちも、彼らと同じ。嫌がらせでさえなく、不登校だったあたしを憐れみ、真似っこすることでなぐさめようとしていたのかも。クソみたいな余計なお世話だけど、「可哀想」な人に優しくすることは、気持ちよくなれる正義だ。
テーブル席に着こうとしていたあたしは、思い直して舎弟の席に行った。「ねえ」と声をかけると、彼らはいっせいにこちらに目を向け、「何だよ?」とガンを飛ばしてくる。
「伊島の家、どこか知ってる?」
「はあ?」
「何だよ、お前」
「教えてくれたら、あたしの胸触っていいよ」
舎弟たちは顔を合わせた。「胸?」「生で?」と言われて、あたしはうなずく。彼らは、途端に下品な笑みを浮かべた。「ここで?」と言われたときには「あっちの公園で」と答えておいた。
「よし、じゃあ行こうぜ」
「あいつの住所、教えてくれるの?」
「終わったら連れてってやるよ」
「何の用事か知らねえけど」
子供たちが、店内を窺っていることに気づいた。あたしはお代を渡して、「女将さんのごはんは、みんなで食べていいから」と言い置いた。子供たちの心配そうな瞳に、あたしは笑みを作ってから、舎弟たちと定食屋を出た。
公園は、あの変態が出た公園だ。桜の木の影で、舎弟たちはあたしの軆にぶしつけに手を伸ばした。あたしは無表情のまま、好き勝手させておいた。
「本気で、胸だけじゃないよな?」
息を荒くさせはじめながら、ひとりが言った。あたしは眉を顰めるのをこらえ、「勝手にすれば」と言った。途端に芝生に押し倒され、舎弟連中が群がってのしかかってくる。
伊島が、良くないお金で女将さんを助けてきたみたいに。
あたしも、軆を汚してあいつに会いに行くのか──
ぼんやりそう思ったとき、突然、軆の上でばきっと強い音がした。同時に、リボンをほどいた胸から肌に触れていた奴が吹っ飛び、ほかの舎弟も声を上げる。下卑た笑いをしていた奴らを、あたしの目の前でめちゃくちゃに殴っていったのは、伊島だった。
舎弟を片っ端からつぶすと、伊島はあたしの手を取ってそこから連れ出した。伊島はめずらしく饒舌に、定食屋の子供たちが泣きながらあたしのことを伝えにきたのを話した。あたしは怯えていた子供たちを想い、まあそうするよな、と納得した。
「何で、あんなことしてたんだ」
夜が始まりかけている夕方の裏通りを進みながら、伊島はそう言ってくる。
「あたし、もう学校行くのやめるから」
「えっ」
「クラスの女子に同情されてるって気づいて嫌になった」
「………」
「でも、あんたにはこれからも会いたいから。あいつらに、軆触らせるから、あんたの家を教えてほしいって言ったの」
「……俺に、会いたいって」
「あたし、たぶんあんたが好き」
「は?」
「あんたのことが、好きになった」
伊島はあたしを振り返り、当惑を見せたあとに「俺は」とぼそりと言う。
「人に愛されるような奴じゃねえし、……俺からも人を愛せないよ」
「……うん」
「そういうのは、怖いんだ」
「怖い?」
「だって、もし、つきあったら……いつか、終わるだろ」
「そうかもしれないけど──」
「俺は、お前とは離れるより、このまま──」
「じゃあ、終わっていい子とはつきあうかもしれないの?」
「そうかもしれない」
「あたしは、それをどんな気持ちで見守ればいいの?」
伊島はあたしを泣きそうな目で見つめた。
「ほんとに、俺を見捨てない?」
「約束はできないけど」
「だったら、」
「でも、あたしは、あんたをつかまえてると思う」
あたしは、伊島とつながった手を握り返した。伊島はそれを見て、あたしの手をぎゅっと握る。
「俺の家には……来るな」
「え」
「親父が、マジでおかしいから」
「……分かった」
「姉貴の部屋を教える」
「おねえさん?」
「親父に犯されかけて逃げた。俺以外の野郎には、絶対教えない場所だ」
つまり、舎弟たちも知らない場所ということか。
「俺も、学校行くのやめる」
「え」
「一応、自分についてきてた奴を殴ったしな。こんなふうにグレてんのも終わりだ」
「じゃあ、どうするの?」
「俺を裏方で雇ってくれるっていう料理屋がある。料理の勉強をしたいんだ」
「女将さんの、店のこと──」
「知ってる。あの店がなくなっても、絶対俺がそういう店をやる。それで、ガキ共の面倒見るし……女将さんにも、楽してもらう」
あたしは彼を見つめて、「いいと思う」と言った。
彼が初めて、あたしに向かって咲う。
あたしも初めて、彼に対して咲った。
裏通りに夜が始まっていく。あたしたちは、手をつなぐまま歩いた。家庭にも学校にも行き場がなかったあたしを、伊島が居場所に連れていく。
ずっとこの手を探していた。裏通りを抜けた先、この町から引き離す手。
十代をこの裏通りで過ごしたら、あたしも伊島も守りたいものも守れない大人になるだろう。だから、ちゃんと成長して、大切なものを守るんだ。
ちかちかと夜が灯っていく。おいしそうな匂い、集まる大人たちのざわめき。まだ少し涼しい五月の夜風が流れ、夕暮れが終わっていく。
空にたなびくオレンジの雲も、次第に闇色に溶ける。けれど、たとえまだ未来が不透明でも、怖がらなくていいんだと思った。
FIN