富永が言うには、俺をイジメる理由は「何かいらつく」であるらしい。そんな理由で、歩いていると突き飛ばされたり、仲間と囲んで「死ね」と言い続けられたりするのだから、たまったものではない。
俺も、この春に高校生になった男だ。正直、めそめそビビるより、こいつらバカなのかと冷めた眼をしてしまう。だから余計に、富永の癇に障るのかもしれない。
連休、中間テスト、梅雨──まったく変わらない富永が、いい加減うざくなってきた。期末テストが終わった夏休み直前、俺はまたたかってきた富永たちにそっけなく言った。
「お前らのやってること、相談できる弁護士が見つかったから」
富永は、想像以上に怖気づいた顔をした。
弁護士なんて完全にはったりだったから、どういうことだと、どんな弁護士だと突っ込まれたら、説明することはできない。なので、「じゃあな」とだけ言って、俺は教室を立ち去った。
「やべーよ」という富永たちのマジな声が背中に聞こえて、滑稽すぎて噴き出しそうになった。
彼女が俺の前に現れたのは、その翌日の放課後のことだった。
「息子の……富永洋司のことで、望くんにお話があって」
晴れ上がった青空から、まだまだ日射しがぎらついている。蝉の声、ぬるい夏風、道草から立ちのぼる匂い。呼び止められ、立ち止まった俺にお辞儀をした彼女は、そう言った。
俺は無機質な目で彼女を眺め、あいつ母親に泣きついたのかよ、と思った。だっせえ。それをネタに、今度は俺があいつをイジメることもできるんじゃないか? くだらないからしないけど。
「洋司が、その……あなたに、してきたことを気にしてて」
「はあ」
「昨日、私に相談してきたんです。どうやったら許してもらえるだろうって──」
「いや、弁護士に相談するのは変わらないっす」
「それだけは許してくださいっ。洋司がひどいことをして、本当に申し訳ありません。洋司も反省しておりますので」
「反省してるなら、せめて自分で謝りますよね」
「今、すごく怯えてるんです。今日も学校も休んでしまって……」
そうだったか? あいつの出席なんて気にしていなかった。
「洋司を許してあげてほしいんです。望くんも高校生なら、弁護士に頼ったあとのことについて、分別はつきますよね」
何言ってんだ、この女。そんなもん、息子に言っとけ。
「いや……もう子供じゃないんで、弁護士も探したんです」
「本当にすみません! それだけは……洋司の将来に関わってくるんです」
「じゃあ、イジメなんかして何も考えてなかったのは、富永のほうですよ。失礼します」
俺がさっさとすれちがおうとすると、彼女は素早く俺の腕をつかんだ。
「何でもします」
「……いや、そういうのって」
「何でもしますから」
面倒臭いな。百万よこせとか言っておけばいいのか? 百万だともしかしてガチで持ってくるかな。一千万? 思い切って一億とか言っとくか?
待て。それを持ってきた場合が怖いし、洒落にならない。そもそも、絶対に断られることを提示しなくてはならないのだ。
俺は考えるふりをしたあと、背の低い彼女を見下ろし、はっきり軽蔑をこめた低い声で言った。
「じゃあ、やらせろよ」
「えっ?」
「どうせ無理だろ」
「……あ、ええと」
「だから、あきらめて──」
「構いませんっ。それで望くんの気が済むなら」
俺は頬を引き攣らせた。マジかよ。どう考えても、揺らぎようのない「拒絶」だって分かるだろ。
だいたい、こんなおばさんに勃たねえし。セックスで、イジメられた気が済むわけもない。
「さすがに家では無理だから、ホテルでいいでしょうか」
「いや、えっと……」
「ホテル代は私が出します」
「い……一回きりで済むわけじゃねえぞ」
断る言葉がうまく見つからず、下手にそんなことを言ってしまう。しかし、それでも彼女はひるむことなく、「分かっています」と俺を直視した。
だんだん、うんざりしてきた。弁護士なんて大嘘だ、安心しとけと言おうかとも思った。しかし、そうすると、また富永が調子づいて絡んでくるのか?
何なんだよ。親子揃ってうぜえな。天を仰ぎたくなっていると、「行きましょう」と彼女は俺の腕を引っ張った。
そばに路上駐車していた彼女の車に乗った。ここで警察に通報すれば、俺は未成年だし、うまいこと収まるかもしれない。そう思ってスマホを取り出そうとすると、「道は分かるから」とか言って、彼女はナビも使わずにラブホに直行した。
うん、これは誘拐だな。「今、俺が110番した場合って考えてます?」とスマホをちらつかせると、彼女は絶望した蒼顔になった。「何で」と彼女はハンドルを握りしめる。
「あの子は、あんなに反省してるのにっ……」
泣きそうになっている彼女を眺めた。普通のおばさんだ。白髪は少ないけど艶が失われてきた髪、少しシミが出てきた目元、ほうれい線も分かる。四十代にはなっているだろう。
いや、マジで勃たねえわ。
「何でもする……何でも、していいから。お願いします。私はどうあつかってもいいから、洋司の将来にかかわることはやめて」
俺は眉を寄せ、息をつきながら窓の外を目をそらした。何だかんだ、富永って愛されてんだな。ぽつりと、そう思った。
彼女はラブホの部屋に入って早々、服を脱ぎ始めた。さっさと済ましたいのは、お互い様ということだ。俺はポケットに手を入れ、あまりにもげんなりして、突っ立ちそうになっていた。
けど、まあ、どうせなら憂さ晴らしするかと腹をくくる。
「あんたで、俺が興奮すると思う?」
下着だけになった彼女に、冷たく言い捨てる。彼女はこちらを見て、しずしずと俺の足元にひざまずいた。本当に「何でも」するんだな。スラックスのファスナーをおろす指を見つめ、嘲笑がこぼれてくる。
しかし、彼女は特に上手でもなかった。俺はわざとらくため息を吐くと、彼女を突き放して制服を正し、ベッドサイドに腰をおろした。「つまんね」とつぶやくと、「すみません」と彼女は言い、下着すがたのまま俺に土下座する。
「何でもします。だから、洋司のことは──」
俺があいつの名前を訊くだけで不愉快なのも分かっていないのに、何が「何でもします」だ。まずは、俺を不快にさせないことを理解しろって話だ。
冷めた眼で彼女を見下ろす。あんなやつのために、ここまでするなんて。
……まるで、俺が親に接しているときのようだ。
脳裏がちりっといらついて、俺は舌打ちした。それが聞こえたらしい彼女は、そっと顔を上げて、「申し訳ありません」と目を伏せる。
「洋二のせいで、つらい想いをたくさんしたんですよね。全部、そのつらさを私にぶつけていいので」
「………、あいつの将来を考えてないのは、あんたのほうだと思うけど」
「………、分かってます。でも、私があの子にしてあげられることはこのくらいなんです」
「いつもそうやってきたの?」
「はい」
「可哀想だね」
彼女は俺を見上げ、「ごめんなさい」と俺の直したファスナーにもう一度手を伸ばした。
「いいよ、そういうの」
「ちゃんとしますから」
「どうせ、富永のことは許さない」
彼女はこわばった瞳で俺を見た。口紅を塗った唇を噛みしめている。
「どうしたらいいですか?」
知らねえよ。それが俺に分かるなら、そろそろ要求している。「自分で考えろよ」と言っておき、あと三分くらいで「飽きた」と言って帰ろうと思ったときだった。
彼女は急に立ち上がり、俺をぐいっと胸の中に抱きしめてきた。前のめった俺は、彼女の行動が想定外で声を出してしまう。贅肉もあるのだろうが、彼女の胸はかなり豊満だった。
「何──」
「私が、望くんの気持ちを受け止めますから。お願いします、許してください」
優しく頭を撫でられ、少し、砂嵐が混じったように脳内が混乱した。
いや、落ち着け。こんなもん、何だよ。
そう思っても、肌に肌を合わせ、安んじられることに動揺してしまっている。
「私は望くんのそばにいる」
俺は切れ切れに息を吐いた。皮膚が温かい。どくんどくんと心臓が聴こえる。俺は生唾を飲み、ゆっくり、額を彼女の胸に預けた。
くそっ。この女、どうして、俺が親にこうされたことがないって分かった?
見破られたことにむしゃくしゃして、俺はまた舌打ちした。ついで、彼女の腕を引くと無理やりシーツに組み敷く。彼女は黙ってうなずき、俺の乱暴な行為を受け入れた。
俺と彼女の秘密の関係が始まった。夏休みのあいだ、何度も会って軆を重ねた。俺の行為はいつもひどかった。彼女はいつも優しかった。ひどくすればするほど、俺はその優しさに快感を覚えた。俺が何をしても、受け入れて微笑んでいる。それは、予想以上に興奮した。
「俺たちって、つきあってるの?」
夏休みが終わる前、彼女にそう訊いてみた。彼女は「私は望くんのものだから」とうなずいた。「ふうん」と俺はベッドの上で膝を抱え、彼女がシャワーを浴びにいった隙に、笑みを噛みしめた。
それから、すぐに二学期が始まった。富永は、俺に何もしなかった。俺と自分の母親とのことを知っているから──ではなかった。
何やら、あいつは女子とつきあいはじめたようなのだ。イジメそっちのけで、恋人に夢中になっている。
富永の母親である彼女も、まもなくそれを知った様子だった。
何だか、富永が俺をイジメることも、もうなさそうだった。俺にいらいらするより、恋人にでれでれするほうがいそがしそうだ。そして、そんな息子がいちばんおもしろくないのは、どう考えても愛情が過剰すぎる母親の彼女だった。
尻拭いのように、俺を口止めしておく義理もない。せいせいとすると思った。なのに、事が終わって素早く服を身に着ける彼女に、俺は思ってしまった。
この人に会えなくなったら、また俺は、誰にも頭を撫でてもらえない。
「これからも、俺たち、会えるよな」
彼女は、言葉もなく俺を見た。明らかに用無しを見る目だった。そんな目のまま、彼女は口をゆっくり開こうとした。
俺は耳をふさいだ。子供っぽく。泣くのをこらえるみたいに。嫌だ。だって聞きたくない。
彼女は無表情にため息をついた。そこには、優しさも、温もりも、慈しみもなかった。
彼女が俺を何とも想っていないのは、初めから分かっていたことだ。すべて愛する息子のために、口封じしていただけ。なのに今、俺のほうが彼女の口をふさごうとしている。
──もう終わりでいいんじゃないかな。
絶対に、そんなこと言わせるものか。そう思って、俺は彼女にキスしようとした。けれど、服を着た彼女は俺をさっと避ける。
そして、気だるそうに何か言いかけた。
言わせない。そんなこと言わせるくらいなら──
ショートしたみたいに衝動が爆ぜる。俺は彼女を見た。そして、発されかけた忌まわしい言葉を封じるために、白い首に手を伸ばした。
FIN