非常階段-58

まともじゃない

 十月の一番初めの学級活動は、もちろん後期の委員決めに当てられた。
 ちなみに俺は、前期には美化委員という雑種の犬みたいに地味な委員を務めていた。じゃんけんに負けたのでなく、はなからそのへんを希望しておいたのだ。昼食時間にDJになれる放送委員とか、新聞を作れる広報委員とか、人気の高いものはなったところで仕方がない。体育委員でなければよかった。東浦のことをさしひいても、体育委員ほどくだらないくせに重労働な委員もないらしい。
 同じ委員になるのは、何事も経験、という前向きぶった理由で避けられる。今回は厚生ぐらいになれればさいわいと思っていた。が、地味な委員は楽だと聞いたらしい奴がいて、先に取られてしまった。
 じゃんけんに勝ち抜き次第、希望の空席に名前を書きこんでいく。手についたチョークをはらって席に戻るクラスメイトたちの中、俺は黒板の前でプールサイドでためらうカナヅチみたいに困惑した。が、俺のあとで勝った奴は俺が書きこまないと書きこめないので、俺はただぱっと目に入ったという理由で、図書委員に名前を書きこんだ。
 クラスごとにその委員になれるのは四人か三人で、図書委員には三人がおさまらなければならなかった。ひとりが“委員”で、ふたりはその補佐の“係”だ。俺が図書委員に名前を書いたので、その後、そこに名前を書きこむ奴はいなかった。かくして、二年四組の図書委員は、俺と、俺の前にそこに名前を書いていた塚谷つかたに、そして例の登校拒否児の千坂で結成された。
 塚谷ってどうだっけ、と名前以外は白紙のクラスメイトを教室に捜す。火曜日に道徳の授業をつぶして席替えしたので、俺は廊下側の前から二番目になっていた。塚谷は中央列の前から五番目にいる。眼鏡をかけた貴族のような無表情を見て、ああ、とすぐ思い出してつくえに向き直った。
 塚谷──すぐる、とかいったと思う。あいつは、この教室で最も頭のいい生徒だった。秀才の優等生で、冷淡で寡黙、でもわりと女子にモテる。眼鏡を外したら美少年であるらしい。本人は女に興味はなさそうで、かといって男に興味があるわけでもないのは、俺への態度は徹底して黙殺であることで分かる。だから関わることがなくて、一瞬顔が浮かばなかった。
 成績優良児は体育が苦手なものだが、塚谷はそんなこともない。ただタイルみたいに冷たく堅い性格だから、サッカーやバスケでは活躍しない。友人も見当たらない。矢崎と同じように、彼もまた俺と同じようにひとりなのだけど、孤立と孤高に分かれている。
「気むずかしそうなのと組むことになったな」
 晴天にゆったりと風が歩く帰り道、さっきの六時間めの委員会について話しながら弓倉はそう苦笑した。いつもどおり生徒や車にざわめく坂道で、陽射しには暑さが名残っていても風には秋の匂いがある。
「俺、あいつとは一年のときも同じクラスだったんだ」
「あ、そうなのか」
「なかなかくせがあるよ。同じ班にもなったことある」
「俺のこと、あんまりよく思ってなさそうな」
 弓倉は実った果物の重みにかたむいた枝みたいに首を向け、「うん」と一応否定はしない。
「かもな。頭堅そうだし。でも、何かやってくるってことはないよ」
「そう、かな」
「うん。やるとしても無視かな。望永たちみたいに手のこんだことはことはしないと思う。今日は──あのほかには」
 風に揺れた前髪に紛れて弓倉を見、肩をすくめて、手提げをつかむ悪い夜の月のように蒼い手を見る。
 今日も昼食は弓倉と取ったのだけど、そのとき、水筒の中身をふたにそそぐと泥水だった。ついでに、弁当にもその泥水がかけられていた。かあさんはまだそんなことはしないだろう。
 睨まれるとか笑われるとかを除けば、今日はそれぐらいだ。弓倉はおかずを分けてくれようとしたけど、食欲なんて蛇をみつけた蛙みたいに飛び退いてしまった俺は首を振った。
「ほんとによかったのか、話合いとかにしなくて」
 いつしか変わらない高さになった目線で、弓倉はあえて損を選んだ優柔な人間に仕方なく笑うような目を投げかけてくる。
「俺、もう学級委員じゃなくなかったから、何にもできないぜ」
 陽のあたるアスファルトに躙られた、煙草の吸い殻から顔を上げる。
「話合いにしても変わらないよ。一時間気まずいだけ」
「何にも抵抗しないと、塩沢にはそういうことしていいって認めるみたいだ」
「そうなんだと思う」
「えっ」
「俺にはそういうことしていいんだ」
「塩沢」
「俺はそう思いたくないけど、それが普通の考え方なんだ。俺ひとりがわめいても、常識には勝てないよ」
 弓倉は物言いたげにしたものの、黙って前方に目を投げかける。そのあくのない横顔を盗み見て、「ごめん」と俺も覗ける公園の緑を見つめる。
「でも、ありがとう。ちょっと不安だったんだ。学級委員じゃなくなったら、弓倉は俺のことほっとくようになるかなって」
 弓倉はこちらに葡萄の皮がむけるように少しまぶたを上げたあと、わずかにくすりとして前方に向き直った。その様子に俺もようやくおろしたての服みたいに染みのない安堵を覚える。
 後期の学級委員は、委員決めの前に投票で決められた。これにも引き続きというのはなく、その際、弓倉は無事学級委員の荷をほかのクラスメイトに移した。
 今朝まで彼の胸にあった“学級委員”という文字は、“風紀委員”という文字になっている。弓倉は例の友人たちとまとめて三人で風紀委員になった。つまり縁が切れていないということで、俺としてもほっとした。
 初めての委員会は、翌週の同じ時間に行なわれた。図書室に集まるのかと思ったら、三年三組の教室なのだそうだ。図書委員会を受け持つ教師の教室が、そこなのだろう。五時間目が終わると塚谷はさっさとひとりで出ていき、俺は同じく集会する教室へと向かう生徒の混雑の中、行ったこともない教室に転校生みたいに迷いかけながらたどりついた。
 クラスごとにかたまって座るよう黒板にあったので、俺は窓際の一番前にいる塚谷の右隣にそろそろと腰かけた。彼は冷たく一瞥すると、鼻を鳴らしもせずに窓に向き直る。こういうタイプは元から苦手なんだよな、と近くで盗視した塚谷は、表情は冷淡だが、たしかに赤や青の中で際立つ金か銀の色紙みたいに秀でた顔立ちをしていた。
 黒髪は綺麗に梳かれ、目つきは無関心だがいかにも怜悧で、鼻梁や顎の線もよく切れている。背の順では俺のほうが後ろにいるはずなのだが、脚が長くて姿勢もいいので座っていても背が高く見える。担任の榎本に印象が似ている。綺麗すぎて、印象が冷たい。当然ながらこいつは榎本のお気に入りだが、彼はそういう贔屓目にも超然としている。
 モテそうだな、と正面の棚のガラスに映る自分を頬杖で見つめる。何となく。男にも。でも、俺は惹かれない。俺のタイプはしょせんあの幼なじみみたいな感じなのだろう。まさかいないよな、とチャイムが鳴って委員会が始まる中ざっと教室を見まわす。さいわい賢司に限らず、気まずい相手というのはいないようだった。
 みんなやる気なんてなくて、動物園の動物みたいにだらだらしていて、一時間で決めたことはどのクラスがいつ図書室を受け持つかということぐらいだった。
 昼休みか放課後を二週間に一回の割合で受け持つ。全部で十八クラスなので、どこかふたつが毎週あたる。だが塚谷がとっととじゃんけんに勝ち、二年四組は水曜日の昼休みを一年二組と交互で受け持てばいいことになった。
 それが決まると、塚谷はずっと、三階からの秋晴れをおもしろくもなさそうに眺めていた。
「先に言っておこうと思うんだけど」
 帰りは塚谷と並んで帰った。彼は愛してもいない継子の歩調など気にもしない継母のように、つかつかと歩いていく。すれちがう生徒たちをよけながら俺がその隣を追っていると、彼はこちらを瞥視して、意外と低い落ち着いた声で言った。
「僕は君に嫌がらせはしない」
 塚谷を見つめ返す。眼鏡の奥で、その瞳に色はない。
「だから、君も僕に馴れ合わないでほしい」
 俺は押し入れに隠れる子供の用に押し黙って、息も詰める。
「僕は君をまともじゃないと思ってるんだ。信用はしない」
 目を開いたが、塚谷は毒を吐いたつもりもなさそうに淡々と階段を降りていった。俺は真っ白に穿たれた喉に何秒か突っ立ち、棒のようになった脚を何とか動かして彼の夏服の背中を追いかけた。
 信用しない。また心に杭が深く突き刺さり、まぶたが麻酔でもきいたように重くなる。望永。矢崎。そして、こんな嫌悪か。次は、いったい何が来るのだろう。
 教室に帰ると、ホームルームまでいつものようにつくえに伏せっていた。何も考えたくなかった。今感じているどろどろでじゅうぶんだ。大量のどすぐろい血のような気分について、あれこれ考える気力はまだない。
 俺にとって、塚谷なんて何でもない。信用しない。ああそう、と受け流せばいいのに──
 どうして心にはこんなにも深い傷口が入り、頭の中にけして消えない血の痕をべったり広げるのだろう。俺のことなんか何も知らないくせに。何でゲイだというだけで、人は俺を醜い奴だと定義するのだろう。

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