非常階段-59

夏から秋へ

 悪化するだけの毎日のうち、景色は秋めいて中間考査が近づいていた。今日も非常階段でひとり昼食を取ったあと、昼休みになってもここでぼんやりとしている。
 左肩は錆びた匂いにもたせかけ、脚は下り階段に放っている。どこから飛んできたのか、くすんだ落ち葉が一枚足元に横たわっていた。それの骸骨の眼窩みたいな虫食いの穴を見つめ、そよ風に乗せて息をつくと目を伏せる。
 服にはまだ煙たさが残っていた。気をつけて呼吸しないと、喘息患者みたいに咳きこみそうだ。静けさの中で、落ちつけて息を使っている。
 涼風がそっと髪をさすっていく。もう今では、誰も俺にそんなふうに優しく触れてくれない。肉体的にも、精神的にも。そう思うと、まぶたの中が震えそうになり、膝に顔ごと視界を埋めた。
 今の俺の毎日に、一年生のときの、とりわけあの三学期のような激しさはない。あの頃は呼吸がひりひりと膿みあがり、痛くてたまらない毎日だった。
 今はどちらかといえば重くて、憂鬱で、つらい。いちいち痛覚を使うのも嫌になるぐらい、傷が多すぎるのかもしれない。きっと麻痺してきているのだ。そして、借金みたいにのちにふくれあがったあと、痛みを体感していく。
 十数分前、四時間目が終わって昼食時間になろうとしていたとき、俺はいきなり正面から真っ白な霧を噴きつけられた。その煙たさに思わず目に涙を湧かせて咳きこむと、噴射が止まって向こう側に笑い声がはじけた。
 覚えのある異臭の合間に望永と坂巻のすがたが見える。望永がにやにやとしながら手に持つ缶を振った。にじんでぶれる視界でも、それにゴキブリの絵があるのは見取れた。殺虫剤だ。噎せ返る俺にげらげらとしたふたりは、またもスプレーを噴きかけてくる。
「食事中にいると、まずくなるからさ」
「そうそう。事前に退治しとかないと」
「ほら、人間には無害だけど、お前には毒ガスなんだろ。死にたくなかったら、とっとと失せろよ!」
 弁当と水筒を手探って、席を立った。彼らの侮辱を肯定するようなのは忍びなくも、このまま吹きつけられていたら目も喉も煙たさにつぶれそうだった。背中にふたりの高笑いが聞こえる。
 悔しくて余計に涙が出そうになった。だが唇を噛んでこらえ、晴天に繰り出そうとする生徒たちをよけて、一度一階におりると、校舎をまわってここにのぼってきた。
 そんなことをされても、もう一年生のときのように痛みが激しくない。そのときだけだ。怒りばかり鮮明に残り、もう哀しいとかいう感情は壊れてしまった。
 何でだろう。慣れたのだろうか。一年生のときよりマシなのか。俺が変わったのかもしれない。優しくなくなっているのだ。何をされても傷つくより怒りや憎悪に目を向ける。それは自分で自分を追いこむだけなのに、きっとどこかが嘆いているのだ。ひとつひとつに傷ついていたら、キリがない。
 だから強くなろうと思ったけど、強さなんて欲しいと思って得られるものではない。簡単に手にはいるのは、いつだって落ちぶれるほうだ。痛みは永遠じゃない。でも痛みをつけられた事実は永遠だ。そちらを怨めば、溝にはまったタイヤみたいにずっと記憶に絆されることになる。
 そういう自分が怖かった。そうして俺は、優しさのかけらもない奴になるのかもしれない。本当にサイボーグだ。憎しみだけは感じるサイボーグは、最強だろう。俺の感情は、憎悪だけに犬の嗅覚みたいに敏感になる。
 目を開くと、逃げ出せる階段がある。腰を上げて降りていくのは簡単だ。すごく簡単だ。そういうことなのかもしれない。俺はここを降りるべきだから、何もかもがあつらえられたように精神を追いつめてくる。
 頭の上のさっと絵の具を走らせたような水色に視界をそらし、ため息に肩の力を抜く。
 望永だけではない。舞田も、矢崎も、塚谷も、担任も家族も──誰も彼も俺をはじいてくる。弓倉はいてもいいと言ってくれるけど、きっとあれも俺に好意を持ってくれている彼の主観だ。
 客観的には、俺は首をくくるか、階段を降りるかなのだろう。すべてがそう物語っている。
 たとえば、舞田は俺をすごくみじめにさせる。かばわれればいいというものではないことを痛感させ、それどころかどんな罵倒より俺に道を外れなくてはならないと感じさせる。ゲイは必ずプラトニックだとは言えない。けれど、そういう本はホモの目的はセックスにあるとでも言っているようだ。
 あれは同性愛じゃない。何とか自分に言い聞かせている。一方はただの男の格好をした女だ。
 主人公は男なんか嫌だと言う。女の子がいいとわめく。なのに、いざとなれば、よがり声をあげる。そんな、餌をやれば吠えない犬みたいな主人公に、ゲイが共感したいだろうか。俺たちを肯定するわけでもなく男同士を取りあつかって、おもちゃにされていると以外、どう取ればいい?
 無理やりのしかかったり、裏返ったとたん求めまくったりする。そんなののどこが俺たちを肯定している? 理解しようと思わせる? ゲイがもしそんなことをする人種なら、軽蔑されても仕方がない。
「ねえ見て、このふたり。ほんとかわいいよね。こんなのを汚いっていう人が信じられないわ」
 俺のつくえを焚き火みたいに囲んでそう言う彼女たちの口調は、美しくて軽すぎる。何もかも観念論だ。
 そのふたりの五十年後を考えないのだろうか。そんなふたりが金婚式を迎えるとも思えないが。年老いたふたつの軆が重なっていたら? 不細工な大人のホモが出てきたら、おおかた主人公たちの仲を邪魔する悪役だ。
「こういうおじさんになっちゃダメだからねっ」
 舞田たちは言うけれど、俺だって死なない限りおじさんになる。彼女たちの言い方はどことなく、賞味期限が切れたらやめろという苦味を帯びている。少年愛と同性愛は違うのだ。俺はそんなに綺麗な顔はしていないし、いつまでも若くはない。彼女たちの男同士は綺麗だという弁護は、かえって俺を大人になったときを案じさせて迫害する。
 美しいものに範囲はないから惹かれる。そんな正当そうな言いまわしだって、相手がいつかはジジイになればどうなんだ? 男同士を執拗なまでにセックスのためだけのかたちに仕立てあげていること──それがすごくつらかった。
 少年と少年。それは上っ面だ。なぜ上滑りの性を描くのに男同士を利用し、俺たちを軽薄な人種として巻きこむのか分からない。
 せめて勝手に女で楽しんで、俺に引き合わせないでほしい。なのに舞田たちは俺に無理に読ませて、味方ぶって、望永や矢崎をさも同情した顔で毒づく。葬式を報じるレポーターみたいな顔だ。
 舞田や望永ほどではないが、あの日肩がぶつかり、矢崎はときおり俺にトゲを刺してくるようになった。中間考査が近い中、矢崎はうざったそうにぼさつきすぎて逆立てたような茶髪をかきながら、やってきた教師の前を横切って早退しようとする。
 あきらめている教師もいる。引き止めてしかる教師もいる。
 おとといぐらい、榎本が呼び止めて早退の届けはもらっていないとかなり白けたことを言った。矢崎は榎本を飛び出しナイフを向けるように睨みつけると、鼻を鳴らして肩に引っかけていた手提げを下ろした。
「じゃあ、あいつをこの教室から外せ」
「え?」
「そいつだよ」
 矢崎はやつれて鋭い顎で、廊下側二番めで比較的そばにいる俺をしゃくった。その日、彼の左頬には痣があった。
「だったら、少しはまじめにここにいてやってもいいぜ」
 音もなく集まった視線に、硬直していた俺は頬を一気に熱してうつむいた。俺。俺がいなけれはまじめに──
「あいつと同じ空気吸ってると思うと、吐き気がしてくるんだよ」
「や、矢崎くん──」
「校長はそいつのこと知ってんのか。よそに送らないんだな。責任取りたくない教師が勧めるとこあるじゃん」
 また鼻を鳴らす音がする。
「何だっけ? 児童相談所? ふん、あんたも俺よりあいつの親に勧めれば?」
「矢崎くんっ」
 がっと音がして思わず目を上げると、矢崎が榎本のスーツの胸倉をつかんでいた。榎本も反射的に言葉を失っている。男と違う、なめらかな喉が動くのが見えた。
「今ここであんたを殴って、停学になってもいいぜ」
「お、落ち着き──」
 矢崎は最後まで言わせずに榎本を突き飛ばすと、手提げを骨ばった肩に引っかけなおした。
「あんただって、オカマを軽蔑してんだろ? そんな面だぜ」
 しゃがれた嗤笑に榎本がどう反応したかは、俺はまたうなだれていたから分からない。思わしくはなかった。矢崎が教室を出ていこうとすると、ヒステリックな声が呼び止める。矢崎は今度は立ち止まらずに行ってしまい、深呼吸が聞こえて、榎本は俺には何の声もかけずに授業を始めた。
 矢崎は、はっきりしていると言えばはっきりしていた。そのぶんずぶとく刺さるけど、鋭利に刺さるということは少ない。弓倉の言っていた通りなのだろう。彼の住む世界では、ゲイを嫌悪するのも男らしさのひとつなのだ。俺は彼のおかげで、グレてしまおうかという考えを、ずいぶんしりぞけるようになっていた。
 そんな矢崎とは正反対なのに、塚谷みたいな態度も突き刺さる。初めての図書委員としての働きで、水曜日の昼休み、俺は図書室におもむいた。塚谷はすでに受付にいて、自分も本を読んでいた。
 休み時間に図書室に来たことなんてなかったが、陽の射す長いテーブルにはけっこう生徒がいた。嫌に静かで、本のホコリっぽい匂いがする。広さはなくも棚はいっぱい並び、量は豊富だと思う。カウンターに入って塚谷の隣のスツールに腰かけると、彼は眼鏡の奥からこちらを瞥視し、無言で本に目を戻した。
 彼はほとんど俺に口をきかなかった。つっかかってきたりして、最低限以上接することもない。でも、なぜか無視という印象は与えない。そういうふうにしているのだろう。印象としては、淡々としている。何とも思っていないみたいに接する。でもずいぶん神経が鋭敏になった俺は、膜に包まれた赤ん坊がうっすら透けて見える感じで、彼の淡白さの奥に軽蔑を感知していた。
 俺は塚谷みたいに秀才ではなくも、もし自分がゲイではなかったら、それでゲイだという奴に接していたら、こういうふうにしてただろうな、と思う。
 両親がああなのだ。堅実な父親と保守的な母親のあいだに育ち、どうやって同性愛なんか理解する?
 だから塚谷の嫌悪も彼自身に根づくのでなく、親の性格に根づいているのではという気がしている。彼はいかにも親のしつけに縛られていそうだ。親が理解してない奴に理解は期待できないな、と少年漫画以外の本を読むと頭が痛い俺は、当番のあいだ、虚ろな精神患者みたいに空を眺めていた。
 そんな塚谷が俺に口をきくとすれば、事務的なことが主だが、たまに気まずい会話が発生するときもある。俺のほうはぎこちなく、塚谷のほうは心ない。たとえばこうだ。
「僕、矢崎のことはとうてい理解できないと思ってたんだけど、君に関しては同感だね」
 こんなのもある。
「僕は君にまともな考え方ができるとは思ってない」
 極めつけはこれだ。
「同性間に子供ができないのは、同性愛が遺伝しないようにするためなんじゃない?」
 彼が本気でそう思っているらしいのが怖かった。望永とか矢崎は、どちらかと言えば本当にそう思っているというより、とりあえず俺のことはののしっておこうという感じだ。もちろん、俺のことを嫌悪はしているが、それをうまく説けと言われても即座に理論立てることはできない。
 塚谷は一応じっくり噛み砕き、考えた上で俺を軽蔑している。だからその理論は、なぜそう考えるのかという根本をさしおけば、一貫していた。俺は彼の小刀のように小回りのきく皮肉には傷つくことしかできない。こいつに理解されなくたってかまわない。そう負け惜しむけど、こういう、絶対に理解しないだろう奴がいるのを知るのはつらかった。
 榎本は、もう何の役にもたたない。一度面談を申しこまれたが、俺は適当に話を切り上げて帰った。何も愚痴らなかったし、チクらなかった。弓倉と友達だというのを話したくらいだ。矢崎の発言なんか受け入れたくないが、榎本がゲイを嫌悪しそうだというのはうなずけなくもない。少なくとも、俺に関わりたくないとは思っている。そのときも、同極の磁石がはねあうみたいに俺と目を合わせようとしなかった。
 室月の揶揄も相変わらずだし、舞田たちに押し退けられて以来、俺に近づきはしない笠井たちなんかも遠巻きに眉を顰めている。東浦を筆頭に、教師たちにも私情を挟むのがいる。学校には敵ばかりで、弓倉のことだって、本音ではいつ失うか怖い。いつ、巻き添えのうわさに嫌気を感じるだろう。いつみんなのほうに寝返って自衛態勢をとるだろう。彼の真摯さに心は許してきていても、信じるには俺の強さが足りない。
 何のために毎日こんな学校に来ているのか、自分でも分からない。やめてしまえばいいのに。何で続けるのだろう。やめればすごく楽になれる。グレられないからか。家にもいられないからか。いや、本当は、できることなら普通に学校に来つづけたいからなのだけど──
 いまさら、俺に“普通”なんてバカげた幻想なのだろうか。俺には引きずる記憶が染みついてしまった。矢印に逆らって泥沼に歩いていって、何でこんなにバカげた生活を続けようとするのだろう。
 もうすぐチャイムが鳴る。そう思っても腰がずっしり重い。ここを降りれば、殺虫剤なんか吹きかけられた教室には行かなくてすむ。そう思うと、無重力のように腰が軽く浮きそうだ。
 澄んだ秋風が伸ばし気味になった前髪をくすぐっていく。穴の空いた落ち葉が階段を滑り落ち、じっと思いつめて下の踊り場を見つめていた。けれど予鈴が鳴ると結局苦しい息をつき、弁当と水筒を取って扉のほうへと立ち上がる。

第六十章へ

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