非常階段-61

理由なんてない

 翌日、俺はアンドロイドのような無表情で教室に踏みこんだ。目が蒼白に死んでいるのが分かる。いつものようにいくらか視線がはりついてきて、こんなに、表面上だけでも毅然と席に向かえるのは一年以上前から初めてだ。
 自分の足音だけを聞く。ばさっ、とくだらない借金をつくえにたたきつけるように、俺は手提げをつくえに放った。
 大きく息をついて、繁殖菌みたいにこちらに次々と集まってくる視線を傲慢に無視して、椅子に腰かける。外は曇り空だが、降ってはいない。まだ完全に考えはまとまっていなかった。
 待つか、向かうか。
 気持ちは決まっている。夕べは本気で考えた。もう学校なんか辞めたほうがいい。辞めるべきだ。でも負けたくない意地に賭けて、こうしてやってきた。
 待つか、向かうか。
 いつのまにか教室は雑音を下げていて、俺はしばらく肩に力をこめて自分の黒いスラックスの膝を見据えていたあと、もう自分の中には抑えておけない膨脹に従って教室を振り返った。
 弓倉は例の友達ふたりの一方の席に、三人で溜まっていた。中央列の前から三番目だ。彼もまた、みんなと同じようにきょとんと俺を見ていた。
 あいつは一級の詐欺師になれるだろう。でも俺はこれ以上は騙されない。裏切られるぐらいなら、裏切ってやる。せめて、うわべでぐらい。
 俺は席を立つと、まっすぐそちらに向かった。嫌な空気を嫌うクラスメイトのひそひそ話が耳に障る。初めてみずからそばにやってきた俺に、弓倉はちょっと臆した笑みを向けてきた。
「お、おはよう。何かあったのか」
 引き攣った笑みをいっさい起伏のない顔で見つめた。その動揺がこんな俺に向けてか、昨日の話を聞かれたのかと感づいているせいかは分からなかった。
「お前のためにも、こうしたほうがいいかと思って」
 本当は臆病に足元に取り落としてしまいそうな視線を、とまどう弓倉の目に何とかかたくなに据えつける。
「もういいよ」
「え?」
「ありがとう。短かったけど、ちょっとは楽しかった」
「な、何。何だよ。転校でもすんの」
 友人ふたりが顔を合わせ、周りも心持ちささめく。登校してきた生徒も、緊迫した空気に開きかけた口を閉ざす。昨日、金属の臭いが染みついて帰宅してずいぶん洗った手を握りしめ、弓倉にはっきりと敵意を突き刺した。
「問題児で悪かったな」
 弓倉の目がはっと開かれた。俺は苦く、すりつぶした声で続けた。
「委員長も終わったんだ。もう榎本の言いつけ守っとく理由はないだろ」
 その言葉の意味合いに、教室はしんと息を止めた。見る見るまぶたを押し上げた弓倉は喉を喘がせ、俺は本当はもっと汚い言葉をマシンガンみたいに投げつけてやりたかった。でも、どんな言葉もこの気持ちには追いついていない気がした。めいっぱい腫れ上がった沈黙にかろうじての憎しみをこめると、それだけで身を返す。
「し、塩沢っ、」
 弓倉が慌てた声で俺の手首をつかもうとしたが、俺は鋭く振りはらった。ついで、思わず口がかまいたちを走らせていた。
「お前のほうがずっと汚い、どうせお前なんか好きになるかよ、よかったなっ」
 そんな台詞を言わなくてはならないことに、炙られるような涙が滲みそうになり、顔を伏せて席に戻った。
 教室が静まり返っている。知ったことか。悪いのは弓倉だ。俺はもう知らない。
 こんな教室の奴、みんな大っ嫌いだ。そうだ、こいつらは俺よりずっと汚い。みんな脳みそが腐臭を放っている。
 つくえに伏せって、あとは外界を拒絶していた。チャイムが鳴るまでそうしていた。
「おはよう──ごさい、ます……」
 尻すぼみの榎本の声がして、やっと寝不足みたいな顔でゆっくり身を起こした。彼女は、教室のどことなく引き攣った空気を感じつつ、何も触れずに教壇に立って出欠を取る。背中や頬に視線を感じたが、俺は何も感じ取っていないふりをした。
 本当は泣きそうに喉が苦しかった。こんなのは虚勢だ。こいつらの前で、みじめなすがたはさらしたくない意固地だ。そう、こんな奴らには二度と期待してやるものか。
 榎本も何度かこちらを見てきた。俺は横柄な面持ちでつくえにそっぽをしていた。
「塩沢」
 三時間目の音楽の授業で、さっさと教室を出てうるさい廊下を歩いていたら、声をかけられた。すっかりその声が誰のものか聞き分けられるようになっていた俺は、聞こえないふりをして、生徒たちのあいだをつかつかと縫っていく。すると強引に腕をつかまれ、俺は眉を寄せながら立ち止まって振り返った。
 弓倉だった。
「何だよ、放せよっ」
 腕をよじって振りほどこうとしても、けっこう力があって粘つくガムが取れないみたいにうまくいかない。
「放せ、」
「塩沢、話がしたいんだ」
「話? 年上のねえさんに小遣いでももらえたんなら、あのふたりに自慢しとけよっ」
「落ち着けって、」
「お前の顔なんか見たくない、俺にだって感情はあるんだっ」
「だから!」
 行き交う生徒がはっと足取りを緩めて、怪訝そうにかえりみる。俺は涙をこらえるために眉をゆがめていて、弓倉は真剣に俺の目を見てくる。
「話したいんだ。頼むよ」
 弓倉の指が、俺の制服に食いこんでくる。俺は硬い眼つきで弓倉を見つめる。かたわらの窓の向こうでは、また雨が降り出していた。好奇心のない生徒は再び動き出し、俺はそっと息を吐くと足元に目を背けた。
「ここで?」
「塩沢がいつも消えてるとこでいいよ」
 俺は驚いて顔を上げる。
「知ってるのか」
「知らないけど」
「………、屋上でいいだろ」
 弓倉は少し頬を震わせたが、「そうだな」と口調を鎮めて俺の手首を離した。俺は、左腕の中からずりおちそうになっていた音楽の教科書やペンケースを抱き直す。
 そういえば手ぶらの弓倉が歩き出したので、一応続く。すれちがいざまの生徒には、好奇の視線を向けてくるのもいたが、誰もついてはこなかった。
 階段をのぼりきった踊り場が、屋上のドアに面している。広くはないけど行き来がなくて広く見え、イジメ向きに薄暗くて肌寒い。特に今日はこんな天気だ。昨日と同じように陰気な雨音が響き、カビっぽい臭いがしていた。
 俺は階段を見おろせる手すりにもたれ、弓倉は屋上への扉にもたれ、距離を置いて向かい合う。彼はため息をつくと、薄汚れた床を見つめる俺を見た。
「昨日の、ここでの話を聞いたんだな」
 小雨のささやきがこうだから声もよく響く。刹那答えようか迷ったが、長引いてもしょうがない。
「まあな」
「何で、ここにいるって」
「偶然だよ。教室は追い出されたんだ」
「………、悪かったよ。そんなつもりじゃなかったんだ」
 わけの分からない的外れな言葉に、つい一瞥を加えると、弓倉は首を垂らして視線をしおれさせていた。
「ああいうふうに、話を合わせておかないと──」
 弓倉の浅いまばたきをじっと見つめ、何かが湧き起こりかけて目をそばめた。
 この後に及んでなお、そんなことを言うのか。冷笑ぐらいもらしてやりたかったけど、どうしても口元がこわばっている。仕方なくため息をつくと、居心地悪く身動ぎした。
「何のために、そんな言い訳するんだ。俺のことほっときたいんだろ。よかったじゃないか」
「初めは、そう思ってた。榎本に頼まれたのもほんとだ。でもつきあってるうちに、変な奴じゃないって思うようになってたんだ」
 俺はそっぽを向いて、押し黙っている。
「ほんとに」
 その継ぎ足しに弓倉に目を向けた。彼は俺をまじめに見ている。その瞳を受ける瞳を、俺はできる限り冷酷に硬直させた。
「だから?」
「……え」
「それでも、しっかり陰口は続けてたんだろ」
「陰口というか、」
「陰口じゃないか」
 引っぱたかれて、引っぱたきかえすような隙のない俺の冷めきった声に、弓倉はうなだれて肩を落とす。
「……そうだな。陰口だ」
「あいつらを失くすのが怖かったんだろ。っていうより、あいつらより俺を選んで、自分もホモあつかいされるのが怖かったんだろ。そうだな。されるだろうな。だから俺は、お前にはあいつらとも友達でいてほしかったし。でも、あいつらが俺を悪く言っても、お前は参加してないと思ってた。よく考えれば、都合いいよな」
 視線を鬱陶しく空に放って、ようやく喉に陰惨な笑みがこぼれる。
「陰口に乗らなかったら、あいつらが言い出してたもんな。弓倉もホモだって」
 しかられる小犬のように畏縮する弓倉に目を戻す。
「そういう気持ちは分かるけど。分かるけど──」
 投げやりになりかけていた眼をきっと敵意に縛り上げる。
「許せない」
 弓倉が息遣いを押し殺す音が聞こえる。俺は背中を手すりから剥がした。これ以上、尊大な台詞を垂れ流すのは恥ずかしい気がしてきた。
 ちょうど始業のチャイムも鳴る。遅刻だ。
「ほっといてくれよ。結局お前の本音は、はなから俺に関わらなければよかったとか、そんなのなんだろ」
 冷えてきた腕で音楽の教科書を抱え直し、俺はそう言い残してその場を離れようとした。
「塩沢」
 だが素早く呼び止められ、わずかに眉間を顰めて振り返る。弓倉のすがりつく目は本気だ。
「教えてほしいんだ。そしたら俺、絶対にお前の力になるから」
 俺は口を開かない。瞳も動かさない。けれど、次の言葉には無反応ではいられなかった。
「何でゲイなんだ?」
「……は?」
「女嫌いになるようなこととかあったんだろ。俺、説明してみんなを納得させるから。理由を教えてくれよ」
 俺は肩から下を徐々にこわばらせて、その場に立ち尽くした。
 理由? 理由!?
 本当に、俺は何でこんな奴を信じてしまったのだろう!
 胸倉でもつかんでやりたくなった。けれど、その衝動はこらえ、怒りで熱さえ通った手を、爪が食いこむぐらい握りしめる。そしてそのあと、ゆっくりと瞳をなるべく虚脱させた。
「ゲイはさ、好きな相手を無理やり押し倒したりしないんだ」
「え」
「舞田とかが読んでる本みたいなことはしない。もっと、ストレートと同じなんだよ」
「同じ……」
「レイプするとしたら、それはそいつが憎いからだ」
 いったん力を抜いた瞳に、にわかに憎悪を振り絞る。
「いっそ傷つけたいからだ」
 一歩近づいてみせると、弓倉はびくっと後退り、扉ががたんとやたら大きな音を立てた。授業が始まったから、雨音以外、校内は静かになっている。
 俺は息をついて、階段へと身をひるがえした。
「俺も訊くけど」
「………、」
「ストレートの男には女に惹かれるのに理由があるのか。男嫌いになるようなことでもあったとか?」
 一段、階段を降りる。すると、下のほうで慌てて走り去る足音がした。内心、ため息がもれる。「だったら」と俺は振り向かずに言っておいた。
「今言ったこと、言い触らせよ。俺にもそっちのほうがいいかも。偽善者に裏切られるのはたくさんだ」
 もう何段か降りて、弓倉が見えなくなる前に一度振り返った。彼はドアに背中を押し当て、とっさの危機感をほどきながらも俺を凝視している。その瞳を見ていると、俺はつい涙のかわりのような笑みをこぼしてしまっていた。
「お前に惹かれたりしてなかったのはほんとだよ。友達だとは思ってた。ほんとに、……思ってたのに」

第六十二章へ

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