流れる日常
宿屋街を抜けると、マンションも入り混じったビル街に出る。この街には、環状の車道を区切りに層がある。中枢、中間、外周。僕は中間より外に出たことはない。出たくないのだ。中枢にもあまり行かない。そこは、選ばれた人間が出入りするところだ。そんなわけで、僕はこの街の南西あたりの中間部分に生息していた。
南の陽桜はともかく、魔窟とも呼ばれる西の夕町は、外から流れてきた人間はあまり近づかない。僕は外から流れてきた人間が嫌いだ。臭いが違ってすぐ分かる。ずっとこの街にいて、僕にはこの街の異常な感覚が染みついている。外から来た人間は、その感覚に救いを見るのだが、僕にしたら常識以前のそれらを崇める彼らがバカらしい。僕は生まれは陽桜だが、そこには外の人間もうろついているため、あの女を離れると彼らが近寄らない夕町に部屋を置いた。
アパートやモーテル、一軒家も集まる夕町に出る。この夕町は、元は住宅街のようなところだった。モーテルもアパートを改造したものだったりして、連れ込み宿というより、寝泊まり宿だ。
一般人が近づかない通り、危険は身近にある。凶器絡みのいざこざは当たり前だし、気を抜けば身ぐるみ引ったくられ、道端に泡を吹いて昏倒していても、リンチのおもちゃになる。見かける人の半分が、酔うか飛ぶかしていて、痴話喧嘩だの幼児虐待だの、ひと晩じゅう叫び声が続く。嬌声の場合は、あまりにうるさいと、窓を割られたり壁をたたかれたりする。被害をすりぬけるコツさえつかめば、ハメのはずれた野蛮が気兼ねなくても、いつもどこかで強い者が弱い者を食いちぎっている。
外から流れてきた人間が思うほど、この街はこころよくない。野生の原野ほど、淘汰がきびしい。でも、外に較べればマシなのだろう。結局、僕もどうこう言いつつ、この街でしか息ができない。
派手な音はあちこちに聞き取れても、住宅街崩れらしく、イルミネーションの乱舞はない。部屋がもらす明かりはあれど、闇は濃かった。
この闇に紛れて、何者かが襲ってきたりするわけでも、僕は襲われるほうでなく襲うほうだ。いらいらしていたら、何の意味もなく荷物を引ったくり、財布も確かめずにゴミ箱に捨てる。
盗みは子供の頃からやっていた。そうでもして糧を調達しないと、あの女は一ヵ月も男の部屋に転がりこんで、帰ってこなかったりした。
彼女を雇う店にいけば、食事ぐらいもらえた。でも、そこは嫌いだった。行けばかわいがられたけど、僕はあの女の“家族”で、 “子供”ではなかった。彼女は周囲に、かたくなに僕が自分の子供であることを隠していた。
一度、彼女の旦那に、自分はあの人の子供だと打ち明けたことがある。男は幻滅して彼女を捨て、彼女は僕を半殺しにした。深く切れた舌に三日間何も食べられず、ヒールに踏みにじられた足で一ヵ月まともに歩けなかった。でも、子供だと名乗ったことであの女を打ちのめしたのが分かって、痛みがすがすがしかった。
蒸した空気にだるい風がかすかに流れ、香水がふわりと舞う。男の野太い怒鳴り声と、虫の澄んだ鳴き声が合唱している。
天を仰いでも、色合いは夜だ。月も星もない。
こめかみや胸に汗が流れる。似たようなコンクリートのアパートが並ぶところに出ると、その中のひとつに続く脇道に入った。
たどりつくのは三階建てのアパートで、僕の部屋は三階の303号室だ。ジーンズのポケットにあった鍵で、ドアを開ける。
「ただいま」
当然ながら、家では地声を使う。客の前で使ったなめらかな声は、営業用だ。声変わりはしていても、落ち着きが重なっただけの声で、このままでいける客もいる。
狭い玄関は暗くても、キッチンに沿って伸びる廊下の奥には、明かりがついていた。クーラーがただよう廊下を抜けると、涼しいリビングが現れる。
電燈を映すフローリングの部屋の中央で、毬音は相変わらず寝そべって絵を描いていた。
「ただいま」
毬音は首を捻じって、僕に僕そっくりの目尻が切れこんだ目を向けた。僕譲りの焦げ茶の髪を腰までストレートに伸ばしたこの小娘は、僕の子供だ。先月で四歳になった。クリーム色のワンピースを着る彼女は、「おかえり」とふっくらした脚を膝で折って、空にぶらつかせている。
「早かったね」
「まあね。夏乃は」
「いないよ」
舌打ちし、「どこほっつき歩いてんだ」と毒づく。
「先月のあいつのぶんの家賃、滞納してんのに」
「管理人のおにいさんなら来たよ」
「入れたのか」
「押し入れにいたの」
「くそっ、あの女、帰ってきたら股ぐらまでひんむいてやる」
「パパがはらっておいて、あとでもらえばいいじゃない」
「嫌だね。ガキが口はさむんじゃねえよ」
毬音は取り合わずに、スケッチブックに向き直った。そういうところも、僕そのものだと思う。かわいくない。
僕と毬音は、ふたり暮らしに近かった。毬音の母親の夏乃という女は、男から男を渡り歩いて、ここをつなぎの休憩所としか思っていない。
そう、僕はストレートだ。男に愛されるのは好きだ。けれど、欲情はできない。
僕が夏乃を孕ませたのは、十四のときだった。十四の頃といえば、僕は猛烈に荒れていた。毬音の出生を知ったのは、こいつが一歳半に近いときだった。
夏乃は何の気紛れか毬音を生み、血液検査をするまでもなく僕の遺伝子がかよった顔に、赤ん坊を押しつけてきた。十六になって落ち着きけかけていた僕は、もちろん頬を引き攣らせ、今のうちにばらしてゴミ箱に突っこもうかと考えた。
だが、処理が面倒だったので生かし、ここまで成長させている。後悔がないといえば嘘になるが、そういう成り行きだったのだろう。
手を当てた首を捻り、毬音のかたわらに座った。床はひんやりとして、髪のあいだにそそぐ冷風が、べたついた汗を冷たくする。このリビングには、ほとんど何もない。押し入れ、クローゼット、ホコリをかぶった鏡台。カーテンのかかったガラス戸の先のベランダには、盗まれるだけなので洗濯物も干せない。
奥には、物置と空き部屋がある。隣が怒鳴りだせば聞こえるが、それなりの防音で、日常の物音は障らない。
あくびをした僕は、シャワーを浴びたいと思いながらも、仰向けになった。
「寝るの」
「シャワー浴びなきゃ」
「石けんじゃない匂いがする」
「香水の価値が分かんない女になるなよ」
「あたし、パパみたいな香水の趣味の人とは結婚しない」
「けっこうな方針ですね」
「パパの匂いはいいよ。ママのは嫌い。パパはああいう匂いが好きなんでしょ」
「好きじゃねえよ。あいつが勝手につけてんだろ」
「あたし、果樹さんみたいな匂いが好き。ああいう匂いが好きな人と結婚する」
果樹さんというのは、予約がないとき僕が溜まっている喫茶店、〈neve〉のウェイトレスだ。
毬音が娘であることは、僕は別に隠していない。ときどき、〈neve〉に連れていったりもする。ただし、客が来たらさすがにごまかす。そこで毬音が娘だと名乗れば、確かに僕はこいつを半殺しにするだろう。
寝返りでうつぶせになり、毬音の絵を覗いた。いつもの絵だ。
黒いクレヨンで人のかたちを取り、目と口を描いて、あとはひたすら赤いクレヨンで落書きをする。口から垂れる血、喉からあふれる血、腹から流れる血。
毬音は恐ろしくこましゃくれた眼力で、大人の機微を鋭利に透視する。その冷めた瞳の反動の炎を、いつもそうして赤いクレヨンを通して吐き出している。怖いとは思わない。そうしたくなる気持ちは、僕も子供の頃、身を持って知っている。
毬音の柔らかな髪を爪繰って指をなぐさめていた僕は、起き上がってバスルームに行った。洗面所は、置き場所はあるのに洗濯機がなくて、妙にぽっかりとしている。ガラス戸の先のタイル張りのバスルームは広く、ゆっくりとバスタブもある。コックをひねり、冷たいタイルに打ちつける飛沫が湯気を立てるのを待った。
この仕事をやると決めたとき、バスルームはしっかりしたところに住もうと思った。バスルームのために、こんなわりといい部屋に暮らしている。僕の商売は、軆を清潔にしておいて、しすぎることはない。穢される仕事だ。そしてどんな汚辱も受け入れることで、相手に愛を感じさせる。
鏡を覗き、心臓の上のタトゥーを見つめた。白鳥の影絵だ。水鳥。僕の源氏名にちなんでいる。僕は愛を知らないから、愛を売り物にできる。でもこの刺青を見ると、愛が分かりそうになって怖い。逆に不安になったとき、この白鳥で気丈を取り返せる。このタトゥーは、お守りのようなものだ。
汗をさっぱりさせて、ボディソープの匂いに包まれると、腰にタオルを巻いてリビングに戻った。毬音は絵を描いている。僕は押し入れを開け、ポリエステルの黒いパンツとTシャツを選んだ。タオルは、脱いだ服と共に洗面所のかごに入れておく。
洗面台の棚を開け、水色に透き通る瓶の香水を肌に噴きつけた。僕はすっかり、この匂いに依存している。なければ落ち着かないというわけではなくも、嗅げると安堵感がある。好きな匂いの相手ってのは持続性あるかもな、と毬音の結婚観に同感しつつ、リビングに帰った。
最後の食事が昨日なのを思い出し、毬音のぶんも作って夕食を取った。「とっとと飯ぐらい作れるようになれよ」と言ったら、「ごはん作れるなら、もう家出してるよ」と返された。
僕は野菜炒めを口に突っ込む。こいつと話していると、子供と話しているという感覚が希薄だ。僕より口達者だったりする。家出すれば、僕があの女を捨てたように顔も見せなくなるだろう。哀しくも嬉しくもなかった。
毬音をひとりで浴室に行かせると、食器を洗った。こういうのをしてるとこは客には見られたくないな、と思う。床にふとんを敷く頃には、カーテンの隙間で、空の濃紺が蒼ざめはじめていた。
毬音は先に眠り、僕は眠くなるまで煙草を吸っていた。夏乃は帰ってこない。あと一週間待って帰ってこなかったら、鏡台のイヤリングを売ってしまおう。偽物だったらぶっ殺してやる、と煙草を灰皿につぶすと、ふとんにもぐりこんで僕も意識を失った。
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