回想【1】
僕は誰にも助けられず、母親とふたりきりで、浴室のタイルに生まれた。そのとき彼女は十九歳で、男の金でモーテル暮らしをしていた。彼女は一度、生みたての僕を部屋のゴミ箱に捨てたが、やっぱり取り上げてクローゼットに隠した。
安ワインを片手に酔いつぶれた彼女が、相手が僕だとも把握せずにいつか話したことだ。
「あんなのがついてるなんてしれたら、あたしはお先真っ暗にならなきゃいけなかった」
ベッドスタンドの橙色の明かりのみの部屋で、彼女は革のぴったりした営業用の服のままだった。ワインは甘ったるい匂いを立てていて、床で膝をかかえるななつの僕は、その匂いに彼女の香水を連想していた。
「ずっと隠してたわ。あいつは自分で這い出せるようになるまで、クローゼットの中で育ったんだ。あたしは餌を投げこんでやるだけだった。あと、引っぱたいてもやったけど」
彼女の栗色の髪はすごく綺麗で、そのときも酒気した高笑いは醜くても、笑い声に合わせて揺らめいた髪はさらさらと優美だった。
「でも、あいつはいくらか育つとクローゼットから出てきた。今も、帰るといるの。目障りだわ。だから帰りたくないんだ」
酔うと、彼女の時空感覚はめちゃくちゃになる。場所は僕がいる部屋だったが、僕は何も言わなかった。
「甥なんて、我ながら怪しいよね。怖い。みんなあいつがあたしの、……だって気づいてないかしら。ほんとに。あいつがこっから出てきたなんてばれたら、あたしは死んでやる」
彼女はワインの瓶で自分の腹を殴り、吐きそうな声を出してシーツにうつぶせた。長い髪がシーツに広がり、星影を映す海のように、橙色の明かりで艶めく。血のようなワインがシーツにあふれ、どくどくと染みていった。不意に栗色の髪がささめいて、嗚咽がもれる。
「あんな奴、堕ろしておけばよかった。役立たず。あいつを生めば何か変わるかもと思ったけど、何にもなかった。いらつくだけで、何であんなのなんだよ。あいつの前に堕ろした子にすれば、何か違ったのかな。あたしは貧乏くじを生んじまった」
肩がもろく震えていた。彼女が欲しいのは、僕でなく、その肩を抱いてくれる男なのだろうと思った。
「死にたい」と彼女は言った。そのおなじみの台詞で、僕は生まれたときから死ぬことを知っていた気がする。
「何であたしはこうなの。子供の頃から、誰も助けてくれなかった。あいつはとうさんの弟で、働きもせずにずっと居候してた。とうさんが仕事で裏工作してる弱みを握ってたの。とうさんは、知ってたのよ。不正をばらされるのが怖くて、あいつがあたしの処女を奪っても黙ってたんだ。あたしは十歳だった。十六であの男を逃げた。でも、ちっともうまくいかない。このざまだよ。もう嫌。死にたい。死んだほうがマシだよ。全部なくなればいいのに」
こういった彼女の話が、どこまで本当で、どこから出任せかは分からないが、僕の記憶がクローゼットの暗闇に始まるのは事実だ。
初めは何も分からず、おとなしくそこにせくぐまっていた。ここにいるべきなのだろうと押し黙り、ときおり食べ物をよこされるのを待っていた。
クローゼットにいるあいだ、自分が人間であることも知らなかった。母親とかいう概念もなく、食べ物をよこす相手が何なのかも分からなかった。ひたすら身を縮め、カビの生えたパンや林檎の皮を食べ、ビニールぶくろに細々と排泄し、たまに引きずりだされて無抵抗に虐待を受けた。視界を生み出すものが流す、生温かい液体の意味も知らなかった。
クローゼットの外では、その人とは別の低い声がするときもあった。その声がすると、その人はかたちをなさない声を上げた。クローゼットのドアが半開きだったとき、僕はその人にがっちりした何かがのしかかっているのを見た。襲われているのだと思った。禁断を犯す覚悟で外に出た。夢中で毛むくじゃらの脚に取りついて──それが、僕が外界を知った日だった。
僕を床に蹴りやった男に、彼女はこれは姉に預かった甥だと言い訳した。僕はすでに二歳か三歳で、それまで赤ん坊の気配なんて感じなかった男は、それを信じた。男が帰ると、彼女は僕を手ひどく殴った。
「何であの人がいるときに出てくるんだよっ。あたしに怨みでもあるわけ、殺さず生かしてやったあたしに!? ふざけんじゃねえよ、このくそったれっ」
僕はクローゼットで従順にしていることをやめた。部屋に散らかるテレビや雑誌を見て、あの女が「母親」なのは何となく分かった。
冷蔵庫のハムや果物に、自分がクローゼットで食べていたものが信じられなくなる。いつも嗅いでいたのは、押しこまれる服にしみつく甘ったるい香水か、ろくに出ない自分の排泄物だった。しかし僕は、ベランダで空気を知り、できたての食べ物の匂いを知り、柔らかな石けんやシャンプーに包まれるのを知った。
手足を空中にぐっと伸ばせることに、文字通り自由を感じた。目に映るものが明るく照らされていることに、本当に光を感じた。聴覚だけだった外界が、ようやく五感でつながり、ひとつの世界になっていった。
しばらくモーテル内をうろうろしていたが、飽きると外も出歩くようになった。生まれたときから、この街の異常性の洗礼を受けていた僕は、危険とは無縁だった。僕は切断されていた世界に次第に追いつき、追い抜き、淫売も酒も殺人も吸収して、この街に慣れていった。
外に出かけたのがばれると、彼女は僕を殴った。彼女は僕を表に出したがらなかった。男と女は知っていたから、彼女の仕事も知っていた。僕は彼女を“蛍華さん”と呼んでいた。かあさんとかママとか呼ぶのは、堅く禁じられていた。呼べば鉄拳が飛んだ。
光樹に出逢ったのは、すっかり外界に身をおさめた五歳のときだ。蛍華さんの金をくすね、モーテルの売店で買ったハンバーガーをロビーで食べていた。寝泊まりだけのモーテルだったので、客や淫売はいなかった。
隣のソファに同い年ぐらいの少年が座っていた。もちろん、その頃は光樹の髪は黒く、僕の髪のほうが色が明るかった。繊細なまぶたやしなやかな印象は変わらなくても、瞳は今ほど豊かではなかった。彼はソファに身を沈め、深夜にもポルノにならないシネマチャンネルのテレビを観ていた。
大人ばかり見て、子供を見たのは初めてだった。のちの光樹が言うには、彼もそうだったらしい。僕は彼をまじまじとして、彼がこちらに気づくと盗視をひかえた。彼も僕を見つめた。意識しているのは互いに分かっていても、僕たちはその日は言葉は交わさなかった。
彼は、黒髪を波打たせた派手な女に引っぱっていかれた。取り残された僕は、蛍華さんが帰ってくる前に部屋に戻った。
気をつけてみると、彼のすがたは僕の視界によくちらつくようになった。彼にも僕のすがたはそうだった。ロビーでテレビを観ていたとき、「はい」と彼が僕にガムを一枚よこして隣に座ったときも、すでにつきあいがあったように自然だった。
「君って、蛍華さんの家族なんだね」
現在は、蛍華さんが母親なのは光樹には打ち明けている。そのときはただうなずき、はっきりした関係は明かさなかった。いずれにしろ、普段は蛍華さんが母親だなんて忘れていた。
「蛍華さんのこと、知ってるの?」
「知ってるよ。美人だし。稼ぐんだろうね」
「それなりに。君はあのきらきらな人と暮らしてるの」
「まあね。母親なんだ」
僕は彼をちらりとし、無頓着にガムの包装を開いた。彼の淡白な口調は、母親と教えるのが当たり前なのか、危険を冒して明かした秘密なのかを測らせなかった。
「ここに暮らしてるの?」
ぶどうが香るガムを噛もうとしていた僕はうなずき、「君は?」と問い返してみる。
「僕もここに住んでる。六歳だよ」
「僕は五歳」
「僕が一個上か。名前は」
「碧織」
「僕は光樹。よろしくね」
光樹は微笑み、僕は彼に微笑み返すことで、初めて咲った。
光樹の存在は、笑顔以外にも僕を広げた。僕は光樹に出逢って、真の意味で外界に溶けこんだ。光樹の瞳も、僕と知り合って豊かな色合いを帯びていった。
光樹といるのは楽しかった。波長も合って、雑談は尽きなかったし、不謹慎な遊びばかりやった。コンドームで風船を作ったり、自分たちの母親をモデルに淫売ごっこや虐待ごっこ、モーテルのドアに耳を押しあてて嬌声が聞こえると、終わる瞬間があと何秒かとお菓子を賭ける。悪さもした。ベランダから唾を吐いたり、ポケットいっぱいに集めた虫の死骸を、食品売り場や飲食店にこぼしたり行き倒れの人間の口や耳に盛ったり──。
蛍華さんは、僕が光樹とつきあうのにはどうこう言わなくても、外に出たと知ればすかさず引っぱたいた。それでも僕が外を駆けまわっているうち、次第に文句はつけなくなった。それぞれの世界を持ったわけだが、依然、蛍華さんとの生活は続いていた。僕と光樹が遊びまわれるのは、母親が出勤しているあいだだけだ。光樹には光樹の部屋があるし、蛍華さんが帰ってきてまた出かけるまでの一日の半分を、僕はどうせ部屋で過ごさなくてはならなかった。
七歳のとき、蛍華さんは僕を連れてアパートに移った。行動範囲は子供なりに広がっていたので、光樹との親交は続いた。
いちいち寝室に行くのが面倒だった蛍華さんは、リビングにベッドを置いた。男が来ると、僕は奥の部屋に押しこまれた。蛍華さんが男と絡みあうのを、口汚く喧嘩するのを、捨てられて自殺的になるのを、ドアの隙間で見ていた。観察されているのに気づくと、蛍華さんは僕を引きずりだして殴った。
「そんなふうに気紛れだから捨てられたんだよ」
大人であれば、僕はこんな女はあの男たちのように一発で打ちのめしている。幼い無力が悔しくてそう吐き捨てたら、蛍華さんは僕に渾身の一撃を与えて出ていき、一週間帰ってこなかった。
そんな妙な生活に、あいつが登場したのは、本当に突然だった。
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