LOVESICK

 深雪みゆきとつきあいはじめたときから、俺ってこいつのこと好きなのかな、という自問があった。
 もちろん嫌いではない。昔からずっと仲のいい幼なじみだ。けれど、この「好き」が「恋」なのかと思うと、俺の内心はどうしてももやもやしてしまうものがある。
「お前なー、いい加減、百地ももちとつきあえよ」
 友達にはよくそう言われた。最初は「深雪はそんなんじゃねえよ」とか返していたけれど、誰がお節介を焼いたのか、俺がそう発言していることが深雪に伝わってしまった。
 そして、事は起きたのだ。
瞬介しゅんすけはあたしのこと、どう想ってるの?」
 中三の冬、受験でバカみたいに大変な時期だというのに、深雪は泣きそうになりながら俺の部屋を訪ねてきて、そう言った。
 何か、どんな問題より厄介な質問来た。
 つくえに向かっていた俺は、わざとらしいため息をついて、「今、そういうこと気にしてるときじゃねえだろ」とまず正論を述べてみる。
「今だから答えてほしいの! あたし、このままじゃ受験失敗するかもしれない」
「あのなあ……」
「あたし、ずっと瞬介のこと好きだったんだよ。瞬介もそうだと思って、ずっと告白待ってたし……」
「俺は──」
「みんな、お似合いって言ってくれるじゃん。早くつきあえって、瞬介も言われるでしょ? あたしも友達に言われるよ」
「周りが言ってるだけだろ」
「じゃあ、瞬介はあたしのこと好きじゃないの?」
「好きじゃないってことはないけど、」
「だったら、彼氏になってよ! 高校になったら、瞬介かっこいいから誰かに取られちゃうよお」
 俺は、回転椅子ごと深雪を振り返った。
 天然パーマをポニーテールにまとめて、ノルディック模様が入った白のニットワンピース、軆つきはすらりとしているけれどちょっと量感がない。顔は、まあかわいいと思う。
 でも俺は、深雪を誰かに取られたらなんて焦燥感はない。果たしてそれは、深雪が離れていかない安心感なのか、深雪が離れてもいい無関心なのか──
「深雪、俺、マジで勉強しなきゃいけないんだけど」
「勉強なんてどうでもいいじゃん」
「よくねえわ。何だよ、つきあったら落ち着いてくれるわけ?」
 深雪は俺を見つめて、こくんとした。
 分からん。その恋愛脳、まったく分からん。
 俺はもう一度ため息をつくと、何も分かっていないくせに、「分かったから」としぶしぶ降参することにした。
「どうせ、俺のことかっこいいとか言う女は、深雪くらいだろうしな。つきあえばいいんだろ」
「何でそんな投げやりみたいに言うの?」
 投げやりにもなるわ。
 ──と言いたいのをぐっとこらえ、俺は回転椅子を立ち上がると、深雪の前に立った。
「深雪、俺とつきあって」
 深雪は俺を見上げ、瞳をゆらりと潤ませると、抱きついてきた。
 華奢だけど、やっぱり、胸ないなあ。と思っても、無論黙っている。
「もっと早く言ってほしかった」とまだ文句を言いつつ、「でも」と俺の胸から顔を上げた深雪は、ようやく笑顔を見せる。
「やっと言ってくれたから、許す」
「……はいはい」
「友達にもつきあうこと言っていいよね?」
「いいんじゃね」
「やった! じゃあ、グループでみんなに報告してくるねっ」
「勉強もしろよ」
「うんっ。瞬介と同じ高校行く!」
 現金な前向きで深雪は軆を離すと、照れ咲いも覗かせたあと、俺の部屋を出ていった。取り残された俺は、深雪が彼女になったのか、と改めて事態を反芻した。
 何だろう、この平常心。彼女ができたら、何かこう、湧き起こってくる幸福感とかないのか。むしろ、これでよかったのかという不安感しかない。だって、俺は深雪に恋をしているのか分からない。
 翌日から、深雪とつきあいはじめたことをさんざん揶揄われつつ、友達に祝福された。「やっと告ったかー」とか、「幼なじみの彼女とか王道じゃん」とか、「幸せにしてやれよ」とか。ひがまれることがないのが、むしろ不気味なくらいだった。それほど、俺と深雪ははたから見ると焦れったかったのだろうか。
 親もそうだった。幼なじみであるくらいだから、俺は深雪の両親と顔見知りだし、深雪も俺の両親と仲がいい。
 後日、報告を受けたかあさんは、「深雪ちゃんがお嫁さんなら、意地悪しないわー」とうきうきした様子で、嫁は気が早いだろと思いつつ、俺は夕食の味噌汁をすする。普段は寡黙なとうさんまで「深雪ちゃんを傷つけることはするんじゃないぞ」と釘を刺すから、「分かってるよ」と俺は箸を取って、焼き魚の解体に取りかかった。
 まあ、いいんだけど。ほかに好きな女の子がいるわけでもない。深雪がいい奴なのも知っている。たぶん、周りが期待する通り、俺と深雪はお似合いなのだろう。俺もそのうち、深雪のことが愛おしく思えてくるのかもしれない。
 受験も卒業式も無事終わった春、駅前の仕立屋から、高校での制服ができあがった報告が来た。深雪の制服も仕上がった連絡が来ているそうで、俺たちはふたりで一緒に引き取りにいった。深雪は宣言通り、俺と同じ高校に合格したのだった。
「執念だよなー」と俺があきれると、「愛だから!」と深雪は頬をふくらませる。肩をすくめていると、にぎやかな駅前にあるモール内の仕立屋に到着した。
山宮やまみやと百地ですけど」
 高校の制服を取りにきた件を店員に告げると、「お持ちしますので少しお待ちくださいね」と言われ、俺たちは勧められた椅子に並んで腰かけた。「あの子、あたしたちと同じ高校だ」とふと深雪がささやいて、見ると、ストレートの黒髪の女の子が、俺たちが待っているのと同じ紺のブレザーを試着していた。
「どう? 苦しくない?」
 母親らしき人にそう訊かれ、「胸がちょっときつい」とか彼女は真顔で返して、笑いそうになった。そんな俺が貧乳としてはおもしろくなかったのか、「あたしだって、これから分かんないんだから」と深雪は謎に張り合う。
「山宮瞬介様と、百地深雪様ですね」
 店員が俺たちの制服を持ってきて、直しがないか確認するため、試着していくことになる。高校生になるんだなあとビニールのかかったブレザーを眺めつつ、並んだ試着室のほうに行くと、例の黒髪の女の子が、鏡の前で自分のすがたを確認していた。
 胸がきつい。なるほど、ボリュームがある。
 そんなことを思っていると、「あれっ」とその彼女が声を出して、「みゆちゃんじゃない?」と試着室のカーテンを開けようとしていた深雪に声をかけた。
「えっ」
 びっくりした様子で深雪は彼女を見て、じろじろと見て、それから「あっ」と声を上げるとなぜだか俺の服を引っ張った。
「もしかして、しーちゃん?」
「そう! わあ、久しぶりだねえ」
 しーちゃん。俺はその女の子を見つめて、「志帆子しほこ?」と確認してみた。彼女は俺を見上げて、「そうだよー!」と笑顔になる。
「わあ、おかあさん、みゆちゃんと瞬ちゃんだよ。憶えてる?」
 志帆子がそう言うと、「あら、懐かしいわねえ」と見憶えのあるおばさんも嬉しそうに目を細める。
「引っ越すまで、よく三人で遊んでたものね」
 高森たかもり志帆子しほこ。そう、俺と深雪は、もともと志帆子を含めて三人組の幼なじみだったのだ。
 だが、小学六年生のとき、志帆子はおじさんの転勤で引っ越してしまった。別れ際、「絶対帰ってくるから」と志帆子は泣いていて、深雪も志帆子がいなくなったあとはしばらくはよく泣いていた。それを「帰ってくるって言ってただろ」となぐさめていたのが俺だった。
 中学生になって、何かといそがしく過ごすうちに、志帆子の不在に引きずられることもなくなっていたが──。
「しーちゃん、こっちに帰ってきてたの?」
「うん。でも、前のマンションじゃなくて一軒家だから、たぶん中学も校区違ったかな」
「えー、それでも連絡してよ!」
「手紙も途絶えちゃったし、忘れられてるかなあって」
「そんなことないよ! ね、瞬介」
「俺は忘れてたな……」
「ふふ、瞬ちゃん変わってないねえ」
 志帆子は気に障った様子もなくにこにこと言い、かえって悪い気になって、「ほんとに忘れてたら、名前出ないだろ」とつい自分で発言をフォローしてしまう。
「というか、みゆちゃん同じ制服だね?」
「あたしも思った! 春から同高だね。瞬介もだよ」
「そうなんだ。ふたりは今も仲いいんだね」
「うん! 今、あたしと瞬介、つきあってるんだよ」
 言うのかよ。俺としては、若干気まずいのだが。
「そうなの? おめでとう!」
 志帆子は特に気にした様子もなく、笑顔で言った。
 ……まあ、志帆子も綺麗だし。もしかしたら、彼氏もいるのかもしれないな。そう思うと、どんな奴かなと少しだけ気になった。
「ね、どうせだから、三人で記念撮影しようよっ。あたしも瞬介も、すぐ制服着るから」
「そうだね。待ってる」
「やったっ。ほら瞬介、早く制服着て」
 深雪は俺を試着室に押しこみ、浮かれてんなあと思いつつ、俺はビニールからブレザーを取り出した。
 着ていたものを脱いで、制服は身につけられたけど、ネクタイが結べなくて軽く絶望した。何だよこれ。店の人に訊くしかない、と試着室を出ると、「瞬ちゃん」とおばさんと話していた志帆子がこちらを振り向く。
「あれ、ネクタイは?」
「自分で結べねえわ、こんなん」
「やってあげるよ」
「なぜ志帆子ができる」
「おとうさんのをやってあげると、何と百円のお小遣いが」
「何だそれ」
 噴き出していると、志帆子は俺の手からネクタイをするりと奪い、「ほら、じっとして」とネクタイを俺の襟元にまわした。近づいた拍子に、シトラスっぽい香りがして、少しどきっとする。
 志帆子は器用に俺のネクタイを結びながら、小さな声でつぶやいた。
「みゆちゃんと、つきあってるんだね」
「ん? ああ、まあな」
「そっかあ──」
 何か言葉が続くのかと思ったけど、志帆子は何も言わなかった。ただ一瞬だけ、屈託ない笑顔が抑えられて、瞳に苦い切なさがこもった気がした。
 俺は志帆子の名前を呼ぼうとしたものの、その前に志帆子はネクタイを仕上げてしまい、「うまいもんでしょ」と笑顔を取り戻す。
「お、おう」
「やり方、みゆちゃんに教えてあげないとね」
「いや、俺に教えろよ」
 そんなやりとりをしていると、「瞬介見てー! かわいいかな?」と深雪が試着室から出てきた。紺のブレザーとタータンチェックのスカートをまとった深雪に、「おー、女子高生みたいじゃん」と俺が言うと、「『みたい』が余計だし」と深雪は駆け寄ってくる。
 そして、俺の胸元を見て、「ネクタイうまいじゃん」と首をかしげる。
「ああ、これは──」
「お店の人にやってもらってたよ」
 すかさず志帆子が言い、「やっぱりね!」と深雪は納得した面持ちでうなずいた。俺は志帆子を見たけど、志帆子はにこにこと深雪と話している。
 まあ、俺の初ネクタイが志帆子だと知ったら、深雪は複雑になるのか。よく分からないけれど。
 そのあと、志帆子のおばさんに、三人で写った写真をスマホで撮ってもらった。それをあとで送ってもらうために、俺も深雪も志帆子と連絡先を交換した。
「また高校でよろしくね!」と志帆子は先に帰っていき、「しーちゃん、戻ってきたのかあ」と深雪はほくほくした様子でつぶやいた。「嬉しそう」と俺が言うと、「親友だもん!」と深雪は断言する。
 親友。だったら、俺にとっても志帆子は親友になるのだろうか。微妙な違和感があったものの、その感情の名前が、俺にはうまくつかめなかった。
 夜、志帆子からメッセが届いた。三人とも着慣れない制服を着て笑顔をこらえきれない写真も、何枚か送信されてきた。『サンキュ』と短く返信しておくと、ほとんど間を置かずにスマホが震える。
『瞬ちゃんとみゆちゃんとつきあってるの、びっくりしちゃった』
『冬くらいにけっこう押された』
『お似合いって言われる?』
『けっこう言われるけど、自分では分からん』
『離れてたの、三年だもんね。何があるか分かんないよね』
『志帆子は俺たちがつきあうとは思ってなかった?』
 そこでラリーが止まった。あれ、俺、変なこと言ったかな。何だか焦りつつ、しかし追撃するのも躊躇っていると、手の中でスマホが震えた。
『せめて、戦いたかったなあ』
 ……え。
 え?
『もう眠いかも。おやすみー』
 志帆子のメッセがぽんと表示され、ついでにおやすみのスタンプも来た。俺は慌てて、同じくおやすみスタンプだけは返しておく。既読はついた。でも、もう志帆子からの言葉はなかった。
 戦いたかった。どういう意味だ? 俺と戦いたかった……んじゃない、よな。たぶん。深雪と? 何をかけて戦いたかったのだろう。まさか──
 胸がざわついて、いやいやいや、とその考えを打ち消す。こんなうぬぼれ、くだらなすぎる。俺をかっこいいなんて言う女は、深雪だけだと思うし。志帆子には志帆子で、きっと彼氏がいるか、今いなくてもすぐに……。
 そう思うと、胸騒ぎがいっそう暗い森のように不穏になるのは、なぜなのだろうか。
 いまいち心がぱっとしないまま、高校生になった。深雪と志帆子は同じクラスになったようで、一気に友情を復活させていた。邪魔しないでおくか、と俺は一歩引こうとしたが、「瞬介が遠慮することないでしょ」と深雪は三人で過ごしたがる。
 本日も三人でカラオケに来て、深雪が歌っているときに、「何かごめんね」と志帆子はこそっと俺に謝り、「俺はいいんだけどさ」とタッチペンで歌える曲を探す。
「志帆子はいいのか?」
「私?」
「その……彼氏、とか、いるんじゃね?」
「いないよ。誰かそんなこと言ってた?」
「そうじゃないけど、志帆子ならいるかなって」
「はは。いたらとっくに自慢してますー」
 志帆子はあっけらかんと笑って、「そっか」と言いつつ、彼氏いないのか、とほっとした。
 って、何で俺がほっとするんだよ。むしろここで、俺の友達紹介しようか、くらい言うべきなのかもしれない。でも、なぜだか志帆子にどこかの男を勧める気にはなれなかった。
 高校生活はとどこおりなく進み、やっと生活に慣れてきたと思ったら、夏休みになった。外では蝉がわめきちらし、太陽がアスファルトを焼いている。
 そんな中、めずらしく志帆子を連れてくることなく、深雪が俺の部屋に遊びに来た。
「瞬介って、デートとか誘ってくれないよねえ」
 しばらくクーラーの下にいたあと、深雪は俺のベッドサイドに座って、そんなことを言った。
「どうせ志帆子も一緒で、三人になるだろ」
 そう答える俺は、つくえで課題を片す手を止めない。「デートならしーちゃんは誘わないよ」と深雪はむくれて、「あと、あたしたち、つきあいはじめてもう半年以上なんだけど」と何やら抗議を始める。
「あー、そんなになるか」
「なるよ! なのに、デートもしたことないって何なの」
「そりゃ、受験だったし。あと、高校に慣れるまでは、お互い余裕もなかっただろ」
「もう慣れたもん」
「何、デートしたいの?」
「したい!」
「じゃ、明日、駅前のモール行くか」
「駅前とか! そうじゃなくて、もっとデートっぽいとこ行きたい」
「えー、めんどいな……」
 思わずそう言って、やば、とさすがに思ったときには、深雪は見るからにむすっとした仏頂面になっていた。
「めんどいってひどい」
「ごめん」
「めんどいって」
「今のは俺が悪かった」
「瞬介は、あたしとつきあってるのがめんどいの?」
「そうは言ってないだろ」
「だから、あたしに触ったりもしてくれないんだ」
「は?」
「デートしたことないから、手もつながないし。キスもしないし。何もしないし」
「いや、そういうのは……早くね?」
「半年つきあってるのに! 友達は一ヶ月で処女捨ててるよ」
 咳き込みそうになった。
 処女って、また生々しいこと言ってきたな、こいつ。
「えー……、何、俺とやりたいの?」
「したいよ!」
 俺はようやくシャーペンを置いて、回転椅子で深雪と向き合った。
「あのな、深雪。俺らって高校生じゃん」
「うん」
「万一子供ができたら、責任取れないわけ」
「友達にゴムもらったもん」
「そういうのを友達にもらうな。てか、ゴムのつけ方が分からん」
「解説してる動画あるんだって」
「それはそのときに世話になるとして、今はまだ早い」
「男子って、もっとしたがるんじゃないの?」
「そうだな、友達は口癖のように童貞捨てたいって言ってるわ」
「じゃあ、」
「でも俺は、深雪を傷つけるなってとうさんにも言われてるんだ」
「エッチは傷つけることじゃないよ」
「子供堕ろすことになったら、俺はもう深雪とつきあえない」
「みんなしてるのに。あたしだけしてもらえないのは、大事にされてるんじゃなくて、ないがしろだよ」
「じゃあ、俺に言われたことを志帆子にも言って、あいつに相談してこい」
「ええ? 何でしーちゃん?」
「志帆子も深雪を大事に想ってるから、俺の言うこと分かってくれるはずだ」
 深雪はふくれっ面だったけれど、「しーちゃんは女の子だから絶対あたしのこと分かってくれる!」と立ち上がり、ばたんっとドアの音を立てて俺の部屋を出ていった。
 俺は息をつき、そりゃやっちまうほうが簡単だけどな、とつくえに向き直る。正直、深雪とそういうことをするって、家族に迫られるくらいの抵抗があるのだ。だって元は幼なじみなんだぞ、と俺はシャーペンを持ち、課題に取りかかりなおす。
 野菜がごろごろ入ったカレーとコールスローの夕飯のあと、シャワーを浴びる前に着替えを取りに部屋に戻ると、スマホのLEDが光っていた。手に取ってみると、志帆子からの通話着信とメッセだ。
『みゆちゃんのことは、私からもしかっておきました。』
 志帆子のメッセのその一文に、俺はなぜか勝った気分でにやりとして、やっぱ志帆子なら分かってくれるんだよな、とひとりうなずいた。
 通話ボタンをタップして、志帆子に通話をかけた。少しコールは長かったものの、『瞬ちゃん?』と志帆子の声が聞こえてくる。
「あ、うん。着信あったから」
『ごめん、話せるならと思って』
「話せるよ、今」
『そう。みゆちゃん、うちに来て泣いちゃってたよ』
「泣いたのかよ。ごめんな」
『ううん。私は瞬ちゃんの意見に賛成だし。というか、高校生でそこまで考えて大事にしてくれるって、すごいと思う』
「はは、すごいかは分かんねえけど」
『みゆちゃんのこと、好きなんだね』
 どきりとして、俺はスマホを握りしめた。
 深雪のことが好き──か。俺は相変わらず、その疑問にきっぱり答えられずにいる。結局、だから深雪を抱きたいとも思えないのかもしれない。
『瞬ちゃん?』
「……あ、ごめん。てか、志帆子には本音話してもいいのかな」
『本音? あんまり人に言えないこと?』
「うん。それに、誰にでも言えることじゃなくて」
『そうなんだ。私でよければ、聞くくらいできるよ』
「ん……そっか。まあ、深雪のことなんだけどさ──」
 俺は初めて、誰かに深雪に対する自分の気持ちの曖昧さを話した。深雪とつきあうことを、周りに期待ばかりされてきたこと。受験のときに騒がれたくなくて、つきあいはじめたこと。幼なじみだった期間が長くて、触れ合いに踏みこめないこと。そもそも深雪が好きなのか、自分でもはっきり分からないこと。
 志帆子は相槌だけ打ちながら聞いてくれた。俺が心で澱んでいたものを吐き出し終わると、『瞬ちゃんは』とやっと志帆子は口を開いた。
『好きな女の子とか、できたことはないの?』
「ない、かな。いや、恋愛に興味ないわけじゃないぜ」
『そっか。けっこう、状況に流された感じだったんだね』
「それな。いつも俺の感情ってあんまなかった」
『うーん……みゆちゃんに素直に話しても、納得しそうにはないね』
「俺もそう思う。責められて逆につきあいを強要されそう」
『みゆちゃんは瞬ちゃんのこと好きなんだなって分かるけど、瞬ちゃんはどうなんだろうって感じることは私もあった』
「マジで? 分かるもんなのかな」
『みゆちゃんもうすうす感じてるから、関係を急ぐのかもしれないね』
「そっかー。頑張るしかないのかなー」
『瞬ちゃんに好きな女の子ができたときが、私は心配かな』
「俺に?」
『好きな人ができたら、さすがにみゆちゃんとはつきあえなくなるでしょ』
 俺に、好きな人ができたら。考えてみたこともなかった。確かに、そんな子が現れてもなお、何の気持ちも持てない深雪とつきあうのはつらいかもしれない。
『できれば、瞬ちゃんには好きな人とつきあってほしいかな。そうじゃないと……』
「じゃないと?」
『……複雑なので』
「何だよ、複雑って」
『瞬ちゃんがみゆちゃんを好きになったんならって、自分を納得させたから──』
「………」
『……はは、ごめん。何かくだらないこと言いそう』
 俺の脳裏に、あの夜のメッセが一瞬よぎった。
 せめて戦いたかった。
 志帆子が通話を切ると言い出す前に、俺は彼女の名前を呼ぶ。
『うん?』
「志帆子は好きな奴いないのか?」
『えっ』
「やっぱ、中学時代とかにはいた?」
『え、と……何で私の話になるの?』
「気になったから」
『………、ダメだよ』
「え」
『私の好きな人なんて、瞬ちゃんは困るだけだから』
「困るって──」
『私は瞬ちゃんが幸せだったらいいよ。……これ以上は言えない』
「志帆子」
『じゃあね、そろそろ切る。とりあえず、みゆちゃんに何か声はかけてあげて。落ち着いた頃だと思うし』
「待てよ、俺──」
 志帆子は俺の言葉を聞かず、そのまま一方的に通話を切ってしまった。
 俺は──ずっと深雪に応えなかった自分は鈍感なのか、と思ってきた。そんなことはないのかもしれない。だって、俺は今、確かに志帆子の気持ちに感づいている。
 そして、深雪には感じたことのない、少しこわばりながらも速く脈打つ自分の心臓の音も聴き取っている。
 その日、結局深雪には何も連絡しなかった。翌日の午前中、『怒ってる?』というメッセが深雪からぽつりと来て、初めて深雪に声をかけろと志帆子にも言われたことを思い出す。
 ベッドでごろごろしていた俺は、『怒ってないよ』と返したあと、『今日、映画とか行ってみる?』と送ってみた。しばし間があって、『行きたい』という返信が来たので、『迎えにいくから、観たいの決めとけ』と送信すると、俺はまだ昼食に余裕がある時刻を見る。昼飯も一緒に食ってから映画行くか、と簡単なプランを決めると、なるべく志帆子のことは考えないようにしようと、ベッドを起き上がった。
 夏休みのあいだ、意識して深雪と過ごすようにした。えらそうなことを言った手前、やっぱり行為には及ばなかったけど、キスまでは進んでしまった。嬉しそうな深雪を見つめて、やばいな、と内心焦った。俺、ぜんぜんどきどきしてねえし。深雪と唇を重ねたことに、どうにも違和感あるし。でも、もし、これが志帆子だったら──?
 夏休みが明けると、また三人で過ごす時間が増えた。「私、邪魔でしょー」と苦笑する志帆子に、「しーちゃんはいいのっ」と深雪は笑顔で答える。俺は志帆子を盗み見て、志帆子はそれに気づくと、あえて深雪にばかり話しかける。そういうのかえってかきむしってくるんだけど、なんて、もちろん言えない。
 俺が何かメッセを送っても、志帆子は淡白に応えて、すぐラリーを切り上げる。志帆子から連絡が来ることは、必要最低限以外、なくなっていった。そういう態度を取られているうちに、俺は重大な勘違いをしているのではと思うようになった。
 すべては、俺のうぬぼれだったのではないか? 志帆子はむしろ、俺のことが嫌いなのかも。
 冬になった。クリスマスは深雪とふたりか、それとも志帆子も含めて三人か、どちらを切り出そうかと迷っていると、「クリスマスはしーちゃんとケーキ作ってあげるねー」と普通に深雪が言ってきたので、「お、おう」と俺はそうなるのかと思いながらうなずいた。
 放課後、一応志帆子が「クリスマスはみゆちゃんとふたりじゃなくていいの?」と俺に訊いてきた。話しかけてくんの久々だ、なんて思ってしまいつつ、「俺は構わねえけど」と答えると、「三人のほうが、変に緊張しないからねー」と俺の腕にくっつく深雪もころころ咲った。
 かくして、冬休みも始まったクリスマスイヴ、俺の家に集まった深雪と志帆子は、俺のかあさんも巻きこんでケーキもディナーも用意してくれた。豪華な夕食のあと、「じゃあ、私は帰るね」と志帆子が言い出したので、「え、夜道だし泊まっていきなよー」と深雪は引き止める。
「でも」と言う志帆子に、俺の両親まで遠慮することはないとか言うので、「ほんとは志帆子にも、過ごしたい奴いたんじゃね?」と俺は言ってしまった。俺の言葉に深雪は初めてはたとした様子を見せ、「そうなの? しーちゃん」と慌てて謝り出す。
「いないよっ、そんな人。もう、瞬ちゃんがそういう変なこと言うと、帰りづらいじゃない」
「ほんと? しーちゃんに好きな人いたんなら、あたし──」
「大丈夫だよ、みゆちゃん。じゃあ、泊まらせてもらおうかな。おかあさんに連絡だけはしておくね」
 志帆子はスマホを手に取り、リビングを出ていった。「瞬介ー」と深雪はまだ気になる様子で俺の服を引っ張り、「大丈夫って言ってたじゃん」と俺はまだ残っているチョコレートケーキに手を出そうとする。しかし、その手をかあさんにはたかれ、「瞬介、一応志帆子ちゃんに確認してきなさい」と言われる。
「は? 何で? いや、何を?」
「ほんとは帰りたい用事があるなら、帰らせてあげなきゃいけないじゃない」
「そうだよ、瞬介。あたし、すごい引き止めちゃったし。ほんとに用事あったら、瞬介が言って帰らせてあげて」
 それなら最初から志帆子の都合を想定しろよと思いつつ、俺は立ち上がって、リビングを出た。後ろ手にドアを閉めると、暖房が遮断されて寒気に身震いしてしまう。
 志帆子の話し声がする。玄関のほうからだ。「さむ」と低くつぶやきながら、俺は玄関まで何となく忍び足で向かった。
「んー、だからごめん。幼なじみのとこ泊まってくから、今夜話せない。明日は大丈夫。うん、会えるよ」
 俺は眉を寄せて、相手おばさんじゃなくね、と思った。話せない、とか、明日は大丈夫、とか──まさか、本当に志帆子にはクリスマスを過ごしたかった彼氏がいるのか。
 動揺して立ちすくんでしまっていると、ふと「瞬ちゃん」と名前を呼ばれて我に返る。志帆子が少し驚いた表情で、俺が突っ立っていることに気づいていた。
「志帆子──」
「どうしたの? あ、おかあさん泊まっていいよって」
「お前、ほんとに彼氏いない?」
「えっ」
「マジな話で。彼氏でも、好きな奴でも、いるんじゃないのか?」
「何、まだ意地悪言うの?」
「だって、今の電話──」
 志帆子は少し首をかたむける。窓からの凛とした月明かりに、黒髪が艶めく。
「いたらどうするの?」
「えっ」
「私に彼氏がいても、好きな人がいても、瞬ちゃんには関係ないでしょ?」
「関係ないって、そんな言い方ないじゃないか」
「瞬ちゃんは、みゆちゃんのことだけ考えてて」
「そんなん……それがうまくできないことは、お前にはちゃんと相談しただろっ」
 志帆子は言葉に詰まって、うつむいた。その拍子に、俺は大股で志帆子に近づき、押し倒すみたいに壁に彼女を追いつめる。志帆子は俺を見上げた。その瞳の中の俺は、自分でもビビるくらいに真剣だ。
 シトラスの香りがする。
 玄関の空気は冷たいのに、胸がほてって、どくどくと鼓動があふれてくる。
「……志帆子は、俺のことが嫌い?」
「えっ……」
「分かんないよ。もしかして俺のこと好きなのかなとか思ったけど、今はただ、嫌われてるだけかもしれねえって思ったりもする」
「瞬、ちゃん──」
「志帆子に……嫌われたくないよ」
「………っ、」
「それとも、やっぱり、俺のこと好き……?」
 志帆子の瞳が、じわりと濡れる。ついで、彼女は俺の首に腕をまわすと、頼りない声をさえぎるように唇をふさいできた。
 どきんと心臓が跳ね、一気に加速していく。そんな俺の心臓と同じくらい、志帆子の鼓動も高鳴っている。押し当てられた胸から伝わってくる。
 無意識のうちに、互いの舌を絡め取るような深いキスを交わしていた。俺の手は、志帆子の軆に触れ、曲線をたどってウエストに降りていく。
 あ、まずいかも。それを察知して、俺は反応が起きてしまう前に、そっと志帆子と唇をちぎった。
「私は」
 志帆子は、俺の瞳に瞳をそそぎこみながら言う。
「ずっと……昔から、瞬ちゃんのことが、好きだよ」
「志帆子──」
「なのに、何で、ふたりで勝手につきあうこと決めちゃうの?」
「……あ、」
「私のことなんて、忘れてたんだよね。戻ってこなければよかったんだ」
「それは、」
「好きな人がいるからって、いつも告白されても断ってたのがバカみたい」
「こ、告白されるのか?」
「されるよ。わりと。……今の電話も、最近仲良くしてて、デートしようかって言ってきてた男の子」
 俺がとまどってしまうと、志帆子は小さく咲って俺の頬に触れ、「かわいい顔」と言った。俺は志帆子を見つめて、「そんなの、全部これからも断って」とささやいてしまう。
「それじゃ、私は幸せになれないよ」
「俺が幸せにする」
「……みゆちゃんと別れるの?」
「どうせ、最初から好きじゃない」
「みゆちゃんが泣くのは嫌だよ」
「でも、俺──志帆子のこと離したくない。今、志帆子が壊れるぐらいに抱きたいって思ってる」
 俺たちは至近距離で見つめあい、「じゃあ、こっそりつきあう?」と志帆子が抑えた声で言った。
「え」
「私はそれでもいいよ。というか、みゆちゃんを泣かせずに私が幸せになるなら、それしかない」
「浮気しろって言ってんの?」
「そうは言ってない」
「じゃあ、」
「瞬ちゃんの本気は、私でしょ?」
 志帆子が、そんな妖艶な笑みを浮かべるなんて、初めて知った。俺はくらくらと蠱惑されながら、うなずいて志帆子を抱きしめる。「瞬ちゃん」と志帆子の声が耳元で響いた。
「ずっと、好きだったよ」
 ──そうして俺は、深雪と別れることなく、志帆子とつきあいはじめた。
 志帆子は思ったより俺を強引に求めることはなく、だからむしろ俺のほうが志帆子との時間を作るように努めた。でもやっぱり、三人で過ごすときが多かったかもしれない。だって深雪は、俺と過ごせないないなら志帆子と過ごすし、志帆子が無理なら俺のところに来るし。
 お互いの家は、なまじ親とも顔見知りだから、挨拶するはめになってしまう。なかなか志帆子とふたりきりになる機会は少なくて、それが俺は焦れったくて、やっとふたりになれると甘えるみたいに腕の中に引きこんでくっついた。
「瞬ちゃんって、ほんとにエッチに興味ないの?」
 三学期、学年末試験の結果がよろしくなかった深雪が居残りになって、俺は志帆子とカラオケに来たのに、特に歌いもせずにいちゃついていた。そのとき志帆子がそんなことを言ってきて、「ないわけがないだろ」と俺は笑ったあと、「でも」と続ける。
「今は責任取れないっていうのは、あるかなー」
「……堕ろさせる責任?」
「いや、志帆子には俺の子供は生んでほしいからさ」
「ふふ、そっか。私も瞬ちゃんの赤ちゃん、欲しいな」
 笑みを絡めると、俺たちは手をつないで口づけを交わした。たぶん、どこかに監視カメラがあるから、いずれにしろここでこれ以上はできないのだけど。志帆子の軆なら自然と欲しいと思うし、妊娠したら絶対に生んでほしいと思う。
 だから、俺は──やはりいつかは、深雪を切り捨てて、志帆子を選ばなくてはならないのだろう。
「そういえば、瞬ちゃんは大学のこととか考えてる?」
「んー、担任にそういう話されたけど、まだあんまり」
「私は高校卒業したら、進学の前に、この町をまた離れようと思うの」
「えっ」
「それで、瞬ちゃんが追いかけてくるか試すの」
「そんなん……追いかけるしかないじゃん」
 志帆子は咲って、「そしたら私たち、堂々と恋人になれるね」と俺の肩に寄り添う。俺は志帆子の長い髪を指で梳き、「それなら、俺も一緒にこの町を出るよ」と志帆子を腕の中に閉じこめる。
「駈け落ち?」
「うん。志帆子を俺のものにできるなら、どこにでも行く」
「……みゆちゃん泣くかなあ」
「泣くだろうな。ついでに俺は、親に縁切られるかもしれん」
「それでも私を選べる?」
「志帆子を選ばなかったら、俺は周りに流されて深雪と結婚でもするんだろ。そんなんやだ。俺が好きなのは志帆子だもん」
「瞬ちゃん──」
「志帆子といると、すごくどきどきするんだ」
「……私も、瞬ちゃんのこと考えてるだけでどきどきする」
 そう言った志帆子は、俺の手を取って、左胸に当てた。心音が指先に伝う。「俺のも聴こえる?」と志帆子を抱きしめると、胸板に額を当てた彼女は、「うん」と答えて俺の背中に腕をまわした。
 こういうのって深雪とはなかったな、と思う。ほんとになかった。深雪はデートしたいとか、キスやら何やらしたいと訴えてきて、俺はそれを、何を生々しいことを言ってんだこいつはと冷めて思っていた。
 でも今、俺は時間があれば志帆子と過ごしたいと思う。触れ合ってキスしたいと思う。叶うなら、その先だって今すぐ。いつも志帆子のことを考えてしまう。ああ、恋ってこういう感覚なんだな。そんなことを、志帆子といて実感している。
 分かっている。俺はすごくむごいことをしている。確かに気持ちはなかったけど、先につきあっていたのは深雪なのに。せめて、深雪を振ってから志帆子とこうなるべきだ。でも、俺も志帆子も、深雪の泣き顔を見たいわけではないのだ。
 その夜、深雪から通話着信がついて、風呂上がりだった俺は、スピーカーにして応答した。『今からもっと勉強しないと、大学受験が心配とか言われたあ』と深雪の泣き言がつくえに置いたスマホから流れてきて、「大学のことはみんなに言うんじゃね」と俺も大学うんぬんは言われたことを話す。
『瞬介は、大学どこ行くの?』
 少しどきっとしたものの、「教えたらお前、また俺と同じとこ来ようとするだろ」とはぐらかそうとしてみる。しかし、『いいじゃん、希望だけでも教えてよー』と食い下がられ、「まー、もしかしてまずは働くかも」と濁すと、何だか沈黙が来た。
「な、何だよ」
『……大学行かないの? 高卒で生きるの?』
「そうじゃないけど、学費とか……あるじゃん」
『おじさんが出してくれるでしょ』
「そこは……もう、頼りたくないというか……」
『ふうん。あ、しーちゃんも就職かもって言ってた』
「え。あー……そうなのか」
『ふたりともそうなら、あたしもバイトとかやってみようかなー』
 湿った髪をタオルで拭きながら、俺は無意識に緊張して、「深雪は安心して大学行ってていいだろ」と言った。
『えー、何で? どうせ受験心配とか言われたし──』
 俺は、深雪にいっぱい嘘をついてきた。つきあいはじめたときから、嘘ばっかりだった。周りがそれを期待するから、好きでもないのにつきあった。
 でも、最後だ。そう、これを深雪につく最後の嘘にしよう。
「深雪」
 こんな台詞、ただの現実逃避だけど、俺が志帆子を選ぶ日はやはり訪れると思うから。
「どうせお前は、俺の嫁になるんだから、大学行ってゆっくりしてろ」
 一瞬ぽかんと黙ったあと、『瞬介えええ』とか半泣きの声で深雪は俺の名前を呼んだ。そして、『やばい、めちゃくちゃ嬉しい』と感動の嵐に包まれている。
 ごめん、深雪。そのまま騙されていてくれ。俺はきっと、何も言わずにお前の前からいなくなる。
 俺の心が恋をしたのは君じゃなかった。
 最初から、君に恋なんてしていなかった。
 俺の鼓動をかきみだし、それに応える鼓動を伝えてくれて、心を結わえる相手は君じゃなかった。
 深雪はまだ何か言っている。適当に答えつつ、俺はベッドに倒れこむ。
 カラオケボックスで志帆子の黒髪を梳いた指を見て、もう触りたくなってる、と思った。あのなめらかな指通りやシトラスの香りを思い出すだけで、俺の心臓はやっぱりどくどくと響く。ほのかな発熱さえしながら、意識を奪いそうなほどの恋煩いに、絡め取られて引きずりこまれる。
 スマホからの声はどんどん遠くなる。俺は恋焦がれる想いに息苦しくまみれていく。それはまるで、妖しい沼に飲まれてしまうようだと感じた。

 FIN

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