中学時代みたいには、絶対に過ごしたくない。試験を落とさないことより、彼氏を作ることより、高校生になる私は、真っ先にそれを望んだ。
だから、セミロングは栗色にして、つけまとカラコンで瞳を盛って、爪はきらびやかに彩り、化粧も雑誌で勉強しまくった。親には眉をひそめられながらも、私は冴えない陰キャだった自分を脱ぎ捨て、ランクはちょっと低い高校に通いはじめた。
最初は、うまくいっていた。クラスの中心にいた、髪をプラチナのような色にした砂原壱奈という女の子と仲良くなれたのだ。
壱奈は、たいてい化粧がばっちりだったけど、たまに寝坊したとかですっぴんで教室に現れるときがあった。その顔は意外なほど愛らしい童顔で、「え、逆にかわいくね?」と男子たちがささやきあうくらいだった。
いつも私と教室移動してくれた。お弁当も必ず一緒に食べてくれた。放課後はよくつるんで、プリも撮ってくれた。
ああ、もう大丈夫だ。壱奈がこのまま仲良くしてくれたら大丈夫。
友達になれた、と安心してしまったのがいけないのだと思う。ある日、壱奈が「日南の同中がいきなり話しかけてきたわ」とやけに冷めた声で話しかけてきた。
「イジメられてたってマジ?」
ひやり、と脊髄に霜がついた。
私は壱奈を見上げた。壱奈はアイラインでくっきりした目元で私を見下ろす。
「え……と、」
「マジなの?」
「……イジメというか」
「『死ね』とか言われてたのを、イジメと思ってなかったの?」
「………、」
「あきれた。てか、そういうキャラだったわけ? あたしのこと騙してたの?」
「騙してなんかっ──」
「いや、イジメられてた奴とか、あたし友達でいるの無理だわ。気持ち悪いし」
すがりつくような私の目が、余計に壱奈の癇に障ったらしい。「うざ」とつぶやくと、「イジメられる奴は、一生イジメられておけよ」と壱奈は吐き捨てる。
「何様であたしの友達面してたわけ? 汚ったねえな」
あんまりな言葉に茫然としていると、壱奈は短いスカートをひるがえして、私の元を去った。
去って、くれたほうがよかった。壱奈はクラスメイトの女子を扇動して、私をイジメるようになった。
髪に墨汁を引っくり返される。掃除のあとの雑巾を洗った汚水を飲まされる。お弁当をトイレの使用済みナプキンに突っ込まれる。
殴るとか、蹴るとか、証拠の残ることはない。でも、みんなして私を仲間はずれにして、見下しながら嗤って、花壇の腐植土をつくえの引き出しに詰めこんで、「臭ーい」とくすくすとささめいた。
髪を黒に戻した。つけまもカラコンも化粧もやめた。爪も質素に短く切った。すっかり、中学時代と同じ陰キャに戻った。
それでも壱奈は執拗に私をイジメて、「ねえ、あたしとまた友達になりたい?」とつくえに腰かけながら言ってくる。ひさまずく私が躊躇いがちにうなずくと、「じゃあ、あたしの靴の裏舐めろよ」と壱奈は私の肩に足を引っかけた。
さすがにとまどって逡巡していたとき、「壱奈」と不意に割って入った声があった。
「お前は女王様でも何でもないんだから、そういうのはやめとけよ」
声の主は、クラスメイトの古旗七羽くんだった。クラス委員もしている、この高校に見合わない優等生の男の子だ。
壱奈は七羽くんを一瞥すると、露骨な舌打ちをして私の肩から足をおろし、そのまま教室を出ていってしまった。
「大丈夫?」
七羽くんは私に手をさしだして、私はそれをおそるおそる握り返して立ち上がる。
「真田さんも、ちゃんと拒否しないとダメだよ」
「……うん。ごめん」
「謝らなくていいけどね」
そう言って七羽くんは手を離すと、自分の席に戻って本を読みはじめた。私ものろのろと自分の席に戻る。
『死ね』『学校来るな』『臭い』『気持ち悪い』──
赤と黒のマジックで殴り書きされた、中傷でいっぱいのつくえだ。ため息をついて、七羽くんだけは優しいな、とぼんやり思った。
男子は、基本的に私に何もしてこない。傍観している。
その中で、七羽くんだけは私に声をかけてくれることがあった。中性的な綺麗な顔立ちをしていて、クラス内でのカーストも高い。みんな、崇めるように七羽くんに接するから、必然的にそうなるのだ。
七羽くんだけは、私が陰キャでも味方でいてくれる。それは、ほのかな恋心の予感にもなっていた。
「あ、紀恵からメッセ来てる」
梅雨が始まった六月、放課後の女子トイレには、つんとした微悪臭がただよっている。外では憂鬱になる重たい雨が降っていた。
私は、ふたりがかりで便器の中の水に顔面をつけられそうになっていた。壱奈は一歩下がって、それをスマホで撮影していたけれど、不意にそんなことを言った。
「待って、いったん動画止めるから」
壱奈の言葉に、私の首根っこをつかむほうが「はあ?」とおもしろくなさそうに声をあげる。がっしりした彼女は、柔道をやっていると聞いたことがある。
「そんなもん、あとで見ればいいじゃん」
「うっさいな。彼氏いない美菜には分かんないんだよ」
壱奈の言葉に、美菜は舌打ちしつつも、私の首をつかんでいた手を緩めた。もうひとりの、眼鏡をかけた背の高い痩せぎすの志真子も、私の髪を鷲づかみにしていた手を離す。
タイルに座りこむ私が小さく咳きこむ中、壱奈はしばらく無言でスマホをいじると、「今夜デートになったわ」と声をはずませた。
「こいつどうすんの。まだ、顔洗ってないよ」
「今日はもういい。美菜と志真子は帰って」
美菜も志真子も、消化不良で理不尽そうだったけど、壱奈には逆らえない。ふたりともおとなしく去っていったけど、壱奈のことを悪く言いながら帰るのだろう。
私なら壱奈の陰口は言ったりしないのに、と思いつつ、濡れた前髪からぽたぽたと雫を落としていると、「日南、今夜あたしにつきあえ」と壱奈が急にこちらを見て口を開いた。
「えっ。でも、デート──」
「そうだよ。あんたのこと、彼氏に会わせるから」
「な、何で」
「嫌なの?」
「そんなっ。でも、私、……友達でもないのに」
「当たり前だろうが。いったん帰って、シャワーと化粧ぐらいしてきて。で、また落ち合うから。あたしの連絡先、消してないだろうね?」
「残してる、けど……」
「じゃ、そこに待ち合わせ場所とか送っとく。絶対に来いよ」
壱奈は一方的に命じると、私を介抱はせずに、トイレを出ていった。
彼氏に会わせる、って、何でそんなこと。友達ではないことは、当たり前だと言った。何なんだろう、ともやもや思っても、どのみち、私に逆らうという選択肢はない。
のろのろ立ち上がると、せめて水道で顔を洗っておく。本当は髪もすすぎたいけど、ドライヤーなんて持っていないから、仕方なく絞るだけにしておいた。
鼻水をすすって、そういえば雨が降っていることを思い出した。せめて傘をささずに帰れば、臭いも落ちるだろうか。びっしょりしたすがたで電車に乗りこんだら、それはそれで嫌がられるだろうけど、トイレの臭いがすると思われるよりはいい。
傘立てから傘がなくなってたらちょうどいいのにな、と思ったけど、こんなときに限って、隠しも捨てもされていない。でも、おかあさんには「傘がなくなってた」と言っておこう。
靴を履きかえると、重苦しい空からの土砂降りに踏み出した。一瞬にして、髪も制服も冷たく濡れ、ぞくりと寒気がこみあげてくる。スマホとかも入ったスクールバッグは、濡れないように胸に抱きしめると、私はとぼとぼと雨の中をずぶ濡れで歩いた。
ざーっと雨音に鼓膜を圧迫されながら、無意識に肩を力を入れて首をすくめる。
風邪をひいて行ったら、壱奈に怒られるかな。いや、もしかしたら風邪と分かれば帰っていい、あるいはそもそも来なくていいと言ってもらえるかも。
そんなことを考えながら、夏服に染みこんだ雨が下着まで湿らせて、本当に風邪をこじらせそうになりながら私は帰宅した。
「傘はどうしたの」とびっくりしながら出迎えたおかあさんに、予定通りの台詞を言うと、「すぐお風呂に入りなさい」とお湯を沸かしてもらえた。私は素直に服を脱いで、熱いぐらいの湯船に浸かる。
「制服は、クリーニングに出すからね」
おかあさんが洗面所から声をかけてくる。今日は金曜日だから、即日クリーニングなら月曜日には返ってきているだろう。「うん」と答えながら、私は膝を抱えて、麻痺した軆が温まっていくのを感じた。
シャンプーもボディソープもたっぷり使って軆を洗うと、バスタオルだけ巻いて部屋に行き、クローゼットを開けた。化粧してこいということは、服も野暮ったいと文句を言われるのだろうか。学校で陽キャぶりたかっただけだから、おしゃれな私服はあんまり持っていない。
けれど、何とか白のカットソーとデニムのミニスカを発掘した。下着は──さすがにどうでもいいか、と吟味せずに身につけて、その上に服を着る。それから、まだ捨てていない化粧品でメイクをして、乾かしてといた髪もまとめておく。
着信音がして、慌ててスクールバッグからスマホを取り出した。壱奈だ。二十一時までに、市街地の駅に来いという内容だった。風邪ひいたかもしれないんだけど、と浅はかに言おうとしたものの、一蹴されるのが怖くて、「分かりました」としか返信できなかった。
二十時頃、親の目を盗んで家を抜け出すと、さいわい雨がやんで、濡れたアスファルトや道草の匂いが、ぬるい大気に立ちのぼっていた。
住宅街は静まり返り、すれちがう人もいない。痴漢でも出ないかとちょっと怖い。
少し頭の芯が痛むけど、風邪のきざしだろうか。あるいは、単に壱奈の企みが分からなくて不安なのか。
ぶあつい雨雲がゆっくり動いて、おぼろげに月が浮かんでいる。
駅はまだじゅうぶん明かりが明るいものの、ひと気はあまりなかった。ベッドタウンの駅だから、だいたい二十時にお店は閉まってしまう。空いているのはコンビニぐらいで、急ぎ足で帰宅する人と、ときおりすれちがう。
【第二話へ】