ほんとは、毎日言いたかった。
ねえ、帰らないで。ずっと一緒にいて。
もし私が本当にそんなわがままを言っていたら、君はどうしていたのかな。この部屋からさらって、あのダブルベッドの中に隠してくれた? それともやっぱり、ちょっと困った笑みを見せて、「規則だから」と──
男の人には二度と期待しない。そう思っていた。高校生のとき、私はつきあっていた大好きな先輩に手ひどく裏切られた。
同じ高校で、二年生と三年生だった。先輩は春に高校を卒業しても、私と仲良くしてくれていた。しかし、季節がめぐって今度は私の大学受験が近づく頃、先輩は同じ大学の人と浮気を始めた。
「本気は優空だから」とか先輩は言い訳していたけど、だからって、ほかの人と先輩を共有する関係なんて耐えられない。私が勉強していて会えないときは、先輩は彼女と過ごしているなんて。
その情景を想像すると、嫉妬も屈辱もごっちゃになったものを覚えた。精神に隕石の連弾でも食らったみたいに、感情も思考もがたがたになった。
私じゃない女と幸せそうに咲う先輩。その情景を、この手でばらばらに引きちぎりたい。
深呼吸した。大丈夫。大丈夫だ。「浮気」だから。「本気」なのは私だから。私が同じ大学に現れたら、先輩はまた私だけを選んでくれる。そんな都合のいい女とは、さっさと別れてくれる。
必死に勉強した。絶対失敗しない。先輩を取り戻す。その期待にすがって、試験に挑んだ。けれど、合格通知を受け取ったという私の連絡に、先輩は会うことも提案せずに電話口で言った。
『受験終わったなら、情緒不安定もなくなるよな。俺、大学の彼女とマジでやっていくことにしたから。お前とはもう終わりな』
は?
一方的に通話が切れても、ぽかんとかたまっていた。
何、で? 待ってよ。何それ。私の気持ちは?
あなたのために、こんなに頑張ったんだよ。あなたと過ごしたくて、この大学に来たんだよ。
浮気の彼女を選んで、本気の私を捨てるの? 分からない。ぜんぜん分からない。どうしてそんなに簡単に、使用後のものみたいに、私を捨てることができるの?
長く伸ばしていた髪を切った。失恋したからというより、何でもいいから自分を切り落としたかった。
家族や友達の前では、無理に咲っていた。それでも親友の梨苗は見抜いてきたから、私は顛末を話して面倒なくらいに泣いた。
大学時代のことは、憶えていたくないからあんまり想い出にならなかった。先輩が大嫌いになったのに、どんな男の子も先輩と較べてしまい、新しく恋愛する気にもなれなかった。
大学を卒業して、そんなに大規模ではないけれど、チェーン展開している書店の社員になった。その新歓で真永に出逢った。私の次に、しどろもどろになりながら挨拶していた彼は、みんながそれぞれに盛り上がりはじめた隙に、シートを立ち上がって消えてしまった。
どこ行くのかな、と幻想的な夜桜の下で飲み会を楽しむ人に紛れていく彼を見送る。私もにぎやかな空気に圧されていたので、「あの人の様子見てきます」と言い置いて彼を探した。
街燈のそばのベンチでぼんやりしている彼を見つけると、「隣、いいですか」と声をかけてみた。
「あ……はい、どうぞ。というか、えと、同じ新入社員の……」
「はい、大村優空です。清城真永さんですよね」
彼はちょっと驚いてまばたきをしたのち、うつむいてしまう。いきなり名前を言い当てたのは悪かったかな。そう思い、「離れていっちゃったので」と私は言葉を続ける。
「気になって。見てきますって抜けてきちゃいました」
「え、……あ、すみません」
「いえ。私も飲み会とかちょっと苦手なので、ひと息つきたかったんです」
彼の隣に腰をおろした。私はレモンの缶チューハイだけど、彼は缶ビールを持っている。「わりと雰囲気よさそうな会社でよかったです」と私が微笑むと、「そう、ですね」と彼はややぎこちなく答えた。
「本に関われる仕事だし、頑張らなきゃ」
「本が、好きなんですか」
「清城さんは違うんですか?」
「読むのは、好きです。けど、仕事になるとは思ってなかったです」
「そうなんですか。私、音夜一紗とか好きなんですよね」
「あ、僕も読んだことあります。けっこう、内容ハードですけど」
「あー、そうかも。音夜さんの本を一冊読んだ姉が、『こんなの読むの!?』ってちょっと怒ってましたもん」
「はは、分かるかもしれない」
そう言って彼は初めて笑みを見せた。私はそれを覗きこむと「咲ったほうが素敵」とにっこりした。すると彼は、今度は照れたみたいに顔を伏せる。ビールを飲んで、何やら眉を顰めている。
「大丈夫ですか?」
背中をさすると、「ビールって飲み慣れてなくて」と彼は口元をぬぐう。
「そうなんですか。これ、ひと口飲みます?」
「えっ……と、それは、苦くないですか」
「はい。あ、でもレモンだから少し酸っぱいかも」
「大丈夫です。……ちょっとだけ」
「どうぞ」
ビールをかたわらに置いて、彼は私から受け取ったレモンのチューハイをひと口飲んだ。そして、「選ぶとき、これにすればよかった」と彼は苦笑しながらつぶやき、「来年からはそうしましょう」と私はにこっとした。
真永は、何だかかわいい男の人だった。少し頼りないところも、かまってかばってあげたくなる。でも、そうするほどに、真永にとっては私が「姉」みたいな存在になるのが苦しかった。
私は真永が気になるから、そばにいたいから、好きだから、こうして世話を焼いているのに。そして、自然とそう思える自分にびっくりした。先輩に振られて男にはもう期待しないと誓っていた。なのに、私は今、真永の心に期待している。
入社して二年目の夏、私は思い切って真永を海デートに誘った。子供の頃、家族とよく行った海だった。水着にはならずに、砂浜に並んで座り、波の打ち寄せる音を聴きながらのんびりした。
「今日はよく晴れてるから、マジックアワーが見れるかな」
「マジックアワー?」
「日が沈む前の、薄明かりの時間帯だよ。空が黄金色になって、すごく綺麗なの」
「へえ……」
ひと気がなくなってくると、私たちはさくさくと足痕を残して渚を歩いた。そのとき、オレンジとゴールドが組み合わさった色が頬に当たり、私は足を止めた。
空が黄金色が透ける橙々色に輝いている。マジックアワーだ。
真永も隣で立ち止まり、私は彼を見上げると、夏風の中で言っていた。
「真永くん」
「うん?」
「私、真永くんのことが好き」
彼は目を開いて、私を見た。やっぱり自信がなくて、私は睫毛が震えた。真永はしばらく何も答えなくて、私は自虐的に無理やり笑みを作った。
「やっぱり、ダメだよね。私なんか、真永くんにはお節介な友達だよね。分かってる──」
さえぎるように、真永は「あ、いや」とたどたどしく声を挟む。
「そ、そんな……僕、……で、いいの?」
そう言った真永は、ひらりと涙までこぼした。今度は私が驚くと、彼は慌てて涙をぬぐう。私はじわりとしたぬくもりを感じながら、「好きじゃなかったら、こんなにいつもそばにいないよ」と真永の手を取った。真永は深呼吸して、「僕も、優空さんが、好きだよ」と応えてくれた。
そんなやりとりあいだに、あたりはあっという間に暗くなっていた。でも、魔法の時間が終わっても、私はきちんと真永と手をつないでいる。
それから毎年、私と真永は夏にはこの海を訪ねて、マジックアワーを眺めた。美しい光彩を眺めながら、このときが永遠に続けばいいのにと思った。でも、いつもすぐ終わっちゃう。うまく写真に切り取れないかなと思っても、素人の技術しかなくていまいちだ。「うまく撮れた?」と真永が覗きこんできて、「今年も失敗した」と私は苦笑いする。「じゃあまた来年も撮ろう」と真永は言ってくれて、そうだよね、と私は彼に寄り添った。
真永は来年もそばにいてくれる。
私たちなら、ずっと一緒にいられる。
──今年のクリスマスイヴの夜も、真永と私の家族とにぎやかに過ごした。しかし、面会時間の二十時が近づくと、みんな帰らなくてはならない。
真永は私を優しく見つめ、「また明日も来るよ」と言った。私はうなずいて、やっぱりわがままな言葉は飲みこむ。
真永を困らせたくない。困らせて嫌われて終わりたくない。真永に愛されるまま死にたい。
ひとりになった私は、白いベッドにあおむけになり、白い天井を見つめた。嘘だよね、と思った。もう私は死んじゃうなんて、そんなの嘘だよね。
もっと生きて、真永と結婚して、子供も作って、老夫婦になっても仲良しで──
目を閉じた。今日は楽しかった。真永との時間が、どんどんマジッアワーになっている。ほんの一瞬だけ華やぐ時間。明日もきっと、真永との時間はあっという間だけど、そのひとときがあるから私は生きていられる。
消燈すると、すぐ頭が朦朧としてきた。意識がこぼれていく。
真永、と思った。ねえ、真永。魔法が解けかかってるのは知ってるの。私、きっと、もうすぐ死んでしまう。
それでも君は最期まで生きてね。終わることのないマジックアワーが広がっているような、美しい場所で、私はあなたを待っているから。
ずっとずっと、待ってるから──
そのまま眠りに取りこまれた私は、クリスマスの朝、もう目覚めることのない深い眠りに落ちていた。
FIN
