君が溺れる深海-3

「はっ……?」
「中学のときに、壱奈は妊娠して子供を生んでる。その赤ん坊を殺して捨てたんだ」
 目を剥いてしまう。
 そんな。まさか。壱奈の残酷さは知っているつもりだけど、そこまでひどいのは──。
 とっさに信じられない私に、七羽くんは淡々と続ける。
「処理を一緒にやったのが紀恵だよ。死体遺棄になるから、一応やばいんじゃない? それをばらすって脅せば、壱奈はおとなしくなるよ」
 視線が狼狽えて、落ち着かない。そんな私に、七羽くんはにっこりとすると、「じゃあ、僕のことは内緒でね」とささやき、背筋を伸ばして校門へと歩いていった。私はその背中を見つめて、不穏な動悸が強くて胸のあたりをつかむ。
 壱奈は赤ちゃんを殺した。紀恵さんはそれを手伝った。そして、何で、それを七羽くんが知っているの?
 突っ立ちそうになったけど、ほかの生徒と肩がぶつかりかけて、慌てて足を動かす。
 壱奈は、誰の子供を妊娠したのだろう。紀恵さん? 彼氏の子供なのに殺したの? 中学生だったから? そんなこと、年齢では許されない。残酷だけど、生む前に堕ろすという選択もあったはずだ。
 靴箱で靴を履きかえると、私は教室に向かった。
 鼓動がきしむように痛い。脈がずきずきしている。震えそうな息遣いをこらえて、スクールバッグを席に置くと、壱奈の席を振り返った。
 壱奈も私を憎々しそうに見ている。私は小さく息をついて、久しぶりに自分から壱奈の席に近づいた。
「何だよ」
 丸いロリポップを舐めながら、壱奈は私を見据えた。美菜と志真子もいる。このふたりは、何となく、壱奈の過去は知らないと思う。わざわざ聞かせることもないだろう。
「話したいことが、あって」
「ここで話せば」
「ほかの人に聞かれるのは」
「お前にプライバシーなんかないんだよ」
「わ、私の話じゃないから。壱奈のこと、……古旗くんに聞いた」
 壱奈は少し目を開き、席で本を読んでいる七羽くんを一瞥して、「分かった」と腰かけていたつくえを降りた。ロリポップのいちごの香りがふわりと甘く舞う。
「壱奈あ」と美菜が言うと、「ついてくんな」と言い捨てて壱奈はつかつかと教室を出ていく。私は慌てて、それについていく。
「何を聞いたの」
 廊下を歩きながら、振り返りもせずに壱奈は訊いてくる。プラチナの髪がさらさら揺れる。私はしどろもどろに七羽くんの話を繰り返した。壱奈は忌ま忌ましそうに舌打ちすると、「あいつ、何で日南に話すんだよ」といらいらとつぶやく。
「人に……話すって言えば、イジメをやめるって」
「脅すの?」
「……やめてくれないなら、……話すかも……」
 壱奈は私をちらりとして、ため息をつくと、立ち止まった。非常階段の手前の、廊下の突き当たりだ。私と向かい合った壱奈は、がりっとロリポップを噛むと、「あんな子供、殺すしかないでしょ」と視線を窓のほうに投げた。
「兄貴にレイプされてできた子供なんだから」
「えっ?」
「紀恵は兄貴の仲間でね、一緒に赤ん坊の処理したけど、ほんとは彼氏でも何でもない。紀恵はそもそも、女じゃないし」
「女じゃないって──」
「男が好きなんだよ。てか、七羽にガキの頃から片想いしてんだよね。七羽に手を出すことしか考えてない」
「え……と、古旗くんと紀恵さんって、関係あるの?」
「幼なじみ」
「……そう、なんだ」
「紀恵はね、お前じゃ勃たないって七羽には振られつづけてんの。だから、あたしとカモフラでつきあってるんだ。あたしのことなんか、紀恵には都合のいい道具なんだよ」
 壱奈はまた、ロリポップを噛む。今度は球体が大きく壊れて、壱奈はそれをがりがりと噛む。そして、初めて見る自嘲気味な笑みをこぼした。
「兄貴は、あたしで性欲処理してただけ。親は見て見ぬふり。紀恵も七羽のことしか考えてない。あたしは、誰にも愛されてないんだよ」
「壱奈……」
「分かってるけどさ。そんなこと。分かってるんだけど」
 ロリポップが砕かれていく音が響く。私はしばし黙りこんでいたものの、「私は壱奈のこと、友達だと思ってたよ」とぼそっと言った。
 壱奈は私を一瞥する。ふざけんな。そう言われると思って身をすくめたけど、急に胸倉を引っ張られて、次の瞬間、壱奈の唇が唇をかすめてきた。
 ふわっと香った、いちごの甘い味に目を見開く。
「何かさ……」
 至近距離で壱奈と瞳が触れ合う。
「男なんかより、女のほうがいいよなってなっちゃうよね」
 壱奈を見つめた。キス。なぜだか、そこまで嫌じゃなかった。どこかの見知らぬ人に、処女を売るよりはずっといい。
「日南、今日の放課後って空いてる?」
「……一応」
「じゃあ、あたしにつきあって」
「え……っと、でも、また売りみたいなことなら……」
「しねえよ。友達ならつきあえ」
 そのとき、予鈴が鳴った。「やば」と壱奈は教室へと駆け出し、私はそれを追いかける。
 いちごの味と柔らかい唇の感触が消えない。
 本当に、もう一度、壱奈と友達になれるの? 今日の放課後、つきあって一緒に過ごせば変わる? どうしても、壱奈にされた仕打ちがよぎって、そんな簡単になくなるわけがないと警戒していたけど──
 壱奈は、ぱったりとイジメをやめた。それどころか、以前のように、放課後をよく一緒に過ごしてくれるようになった。美菜と志真子も、壱奈に逆らってまで私をイジメようとは思わないみたいだ。
 壱奈は私をホテルに連れていって、ワンパターンな化粧を直してくれたり、髪をといていろいろと結ってくれたりした。そして、華やかに洋服がディスプレイされたお店や、きらびやかなアクセサリーのお店を連れまわして、おしゃれさせて、またプリを撮ってくれた。
 熱帯夜に揺らめくネオンで彩られた街並みの中、私は壱奈の隣で、この子はこういう普通のことがしたかったのかもしれないと思った。友達とつるんで、ショップを見てまわって、気づけば夜遅くなって。
 私もあんまり家は居心地が良くなかったから、壱奈と一緒にホテルや漫画喫茶で朝まで過ごした。
「あたし、紀恵とは別れようかな」
 七月に入って間もなく、あまりに暑いからアイスを買って、ガードレールに腰かけて食べていたら、チョコミントの壱奈は不意にそう言い出した。マカダミアの私は壱奈の横顔を見て、「そうしていいと思う」とうなずいた。
 薄暗いオレンジの夕暮れ時で、ネオンがちらほら灯りはじめている。
「日南がいるもんね」と壱奈は悪戯っぽく咲って、「私でいいなら」と私もだいぶ壱奈にまた笑みを向けられるようになった。壱奈は素早く私のマカダミアをひと口食べたあと、「ごめんね」とふと私を真剣な面持ちで見つめてきた。
「え」
「あんな──イジメっていうか、ひどいことして」
「………、仕方ないよ。私、ほんとに陰キャだもん」
「関係ないよ。あたし、昔からどっちかというと、イジメる奴だけどさ。日南は、そういうのとは違くて……怖かったの」
「怖い?」
 思いがけない言葉にしばたくと、壱奈はコーンへと溶けたチョコミントを舌ですくう。
「兄貴が、このへんのチームでリーダーなのは話したでしょ」
「紀恵さんは、そこの仲間だって」
「そう。七羽が売りをやれてるのも、紀恵が裏で手をまわして、やばい客はなるべくはじいてるからなんだよね。七羽はそれ知ってるか分からないけど」
「うん……」
「兄貴は紀恵を信頼してる。ただ、ゲイってことだけは拒絶してるんだ。だから、あたしをあてがってカモフラの女にしたんだけど」
「……言ってたね」
「兄貴は、だらしないくらい女好きなんだ。妹のあたしに手出しするくらい、節操がない。つきあってる女もいっぱいいるんだけど、その中に麻由子まゆこって女がいてさ。見た感じ、かなり陰キャなの」
 壱奈は息をついて、カラフルなスプレーチョコのかかったチョコミントを頬張る。
「でも、それは見かけ。学校では優等生やりながら、放課後は兄貴と一緒にさんざんやって。あたしが兄貴に犯されてるのを、笑いながらスマホで撮影したりもしてた」
 壱奈を見る。どんどん夜が降りてくるのと、プラチナの髪がかかっているので、その表情は分からない。
「麻由子のせいで、陰キャって内心では何考えてるか分かんないってあってさ。怖かったんだ。日南も、中学時代と較べたら二面性あったわけじゃない?」
「……ごめん」
「ううん。二面性じゃなくて、日南は中学時代につらい想いしたから、変わりたかったんだよね。それぐらい察してあげるべきだった」
 私はマカダミアのアイスをかじる。「ほんとにごめん」と壱奈が繰り返して、私は首を横に振った。
 今、そんなふうに私を理解してくれているなら、それでよかった。イジメられているときは、壱奈が脅威的に怖かったけれど、もう友達に戻ってくれたのは分かっている。

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