青氷の祠-7

そそぐのは憎悪

 翌朝の十五時過ぎ、先に目が覚めたのは僕だった。
 日陰の落ちる蒸した部屋で、ほてる肌が剥き出しに湿気を感じている。客と泊まったっけ、と一瞬憶えのない予定に焦って飛び起きたが、隣に夏乃を見つけて、息を吐いた。
 同じく全裸の彼女は、床にじかにうつぶせになって寝息を立てている。ばらついた巻き毛がこちらに届き、僕の腕に汗で絡みついている。僕は疎む手つきでそれをはらうと、ジーンズを穿いた。
 カーテンが午後の日射しをさえぎっている。眠気にほとびる頭がくらくらする蒸し暑さに、リモコンでクーラーをつけた。汗でべとべとだが、冷房が染み渡っていなくて軆は軽い。
 汗、僕や夏乃の香水、蒸した匂いが一緒くたになって、こういうときは石けんの匂いが欲しくなる。煙草に火をつけて、その煙たさを吸った。蝉の声がいくらか生き残っていて、ぼんやりした頭に遠く響く。
 しばらく、後方に手をついて脚を放り、喉を剥いて天井に煙を吹いていた。脳が統一して引き締まってくると、灰を落としたついでに、寝汗の染みたふとんを立ち上がる。エアコンの冷風に澄んでいく空気にあくびをする。
 シャワーを浴びてトーストを一枚食べ、毬音がいないことに気づいた。起きてんのかな、と空き部屋のドアの前に立つ。内側の鍵はないそこを開けると、カーテンのない窓で室内は明るかった。クローゼットがあるばかりの、ホコリが積もったがらんとした部屋だ。毬音はファーストフードのマークが入ったビニールぶくろを脇に置き、壁にもたれて眠っていた。
 むっとした空気が、なだめられかけていた神経を逆撫でる。僕はホコリを立てないように毬音に歩み寄り、「おい」とそのかたわらにしゃがみこんだ。
 肩に触れると、毬音は動物的に目を開き、僕だと認めるとさらに野性味を強めた。僕は彼女の敵意を無視して立ち上がると、ドアに顎をしゃくる。
「何?」
「こんなとこにいたってしょうがないだろ」
「ママもいるんでしょ」
「いるよ」
「昨日してたね」
「聞いてたのか」
「あんなの、何が楽しいの」
「ふん。あれで生まれたくせに清純ぶるなよ」
「あたしはここにいる」
「あっそ。じゃあ、一生こもって餓死してろ」
 吐き捨てて部屋を出ると、ドアの開閉を封じた。賃貸なので鍵は勝手につけられないが、ちょっとした細工で、中からドアを開けることを不可能にする。
 リビングに戻ると、夏乃が身を起こして額を抑えていた。僕に気づくと、「水持ってきて」と甘ったるい声を出す。僕は眇目をし、その頬に唾を吐いてやった。
 眉を上げた夏乃を鼻で嗤うと、壁の掛け時計で十六時前なのを確認した。カレンダーによると、今日は八月十二日だ。確か、十九時と二十三時と二時に予約があった。メモを取るのが面倒で、僕のそのへんの記憶力は本能的に鋭くなっている。
 全裸の夏乃は廊下に行き、冷蔵庫を開けると、僕の透明な酒をあおった。
「それ、水じゃないよ」
「分かってるわよ。あの子は」
「引きこもりたいんでほっといてくださいって」
「かわいくないわ」
「僕そっくりでね」
「あんたが生かすとは思わなかった」
「面倒だったんだよ。出生届も出てんだろ」
 毬音は戸籍上では私生児だ。僕は認知していない。生まれて一年以上、本当に出生を知らなかったときのままだ。いまさら役所も億劫だし、法律的には毬音の責任は夏乃にある。毬音に毬音と命名したのも夏乃だが、なぜそんな変な名前なのかは知らない。
「もう出かけるの」
「コインランドリーに行く」
「あたしのも持っていって」
「お前なんかに金使いたくない」
 僕は放っていたふとんに歩み寄り、寝汗の湿りが取れたのを確認すると、押し入れに片づけた。
 夏乃はうるさく冷蔵庫を引っかきまわしている。「何だよ」といらだち混じりに訊くと、夏乃は荒っぽく冷蔵庫を閉めて僕を睨んだ。
「ケチャップどこよ」
「知るかよ」
「使ったの」
「ないならそうだね」
「何で補充しないのよ」
「お前の都合なんか知るか。どうせほとんどいないくせに」
「ケチャップがいるのよ」
「突っこまれすぎて、ほんとに血い出しときゃいいさ」
 これは別に、卑猥な暴言ではない。夏乃はなびかせたい男と寝るとき、髪を黒に戻し、化粧で柔らかな印象に化け、ケチャップで男に処女をやった気分を与える。
 次に転がりこむとこの目はつけてんだな、と思いつつ、僕は大きいトートバッグを押し入れから取り出した。それに洗面所のかごに積まれた洗濯物を投げこむと、近所のコインランドリーに出かける。
 生温い外は、日中の明るさを保っている。肌を壊死させる日光に、視線がゾンビのごとくふらつく。大量の洗濯物を乾燥まで任せたら、コインランドリーは四時間はまわるみたいだった。取りに来るのは明日でいいや、とルールも何もなく決めると、コンビニで煙草を買い、コンドームを万引きして帰った。
 部屋では、服を来た夏乃が、ホコリを落とした鏡台で化粧をしている。きつい化粧なので、ケチャップが手に入るまで、男の天使になるのは先送りにしたらしい。
 癇に障ることは続くのか、その日の午前二時の予約は嫌いな客だった。嫌いだといって突っぱねるほど僕は素人ではないが、正直、そのプライドだけで相手をしている。甘ったれたその若い男は、大会社の社長の息子であるらしい。とにかく愚痴が長い。前戯なしで突っ込む客が男らしいほど、年寄りの小便みたいに話を垂れ流す。
 真っ当な売春が、お話に始まるのは事実だ。外で女子高生とかがやっている売春は、僕たちの売春とは違う。あれは客に注文させるのだから、誰でもできる。下等の街娼と同じだ。本物の売春は、望みを客に言わせるなんてしない。客がみずから言うことはあるが、「何がしたい?」なんてこちらが訊くことは絶対にない。恋愛と同じく、最初は取り留めもない会話で相手の情報をつかむ。
 漫然と話しているようで、相手を全神経かけて観察している。奇妙な趣味ほど語ってもらえない。ただ寝るにしても、いろんなかたちがある。深く愛しあいたいのか、ちょっとやりたいだけなのか。犯したいのか、従いたいのか。恋人同士か、肉体関係か。娼婦のようにいやらしくなのか、あるいは処女のようにはにかみながらなのか──淫売は、それらをすべて破廉恥に身に備えておかなくてはならない。虐待されるような行為ひとつにしても、怯えるか、刃向かうか、それで効果は変わる。
 しかし、ぐだぐだと不毛な話が長引くと、やはり苦痛だ。ある程度なら、愚痴を聞くのもこの仕事のうちだ。それでも、いつまでも愛撫の手が来ないと、心療内科にでも行けと思う。しかし、それを言ったら商品ではないので、僕はおとなしく黙って、彼に温かな愛情のこもった微笑をこぼしつづける。
「それでパパは、たくさんお見合いの写真を持ってくる。綺麗な子ばっかだけどね、やっぱりダメなんだ。ホモなんてばれたらパパは僕をどうするだろう。隠すためには、どれかと結婚するしかないのかもしれない。でも結婚したら、子供作るために寝なきゃいけないよね。大学時代、女と寝たことはあるんだ。ぜんぜん分かんなかった。パパが正しいのは分かってる。みんなそう思ってるんだし、そっちのが正しいんだ。ホモは変態だって。何でこうなんだろう。恥ずかしいんだ。水鳥も、僕と今ここにいるのは人にばらさないでね。約束だよ」
 そんなわけで、僕は彼とは後ろめたい空気を作って愛しあう。性交はしない。彼はそういう明確な結合は好まない。そこまでやってしまったら、「ホモ」を肯定してしまうと思っている。僕は手と口だけで奉仕する。彼も僕の軆に、ねとねとした腰がない口づけをする。そして、僕の性器をしゃぶりながらオナニーし、いつも勝手に燃えあがって果てる。
 彼は僕の股間に頭を置き、性器に唇を当てて、なおもしゃべる。ムースがべたつく髪を撫でる僕は、事が済んでも終わらない彼の人生への不平に、さすがにいらつきはじめていた。彼の前では抑えたが、午前五時にホテル前で別れた途端、路地裏に駆けこんでコンクリートの壁を思いっきり蹴った。「パパにレイプでもされてろっ」と毒づき、唾を吐き、かかとに力をこめて何度も壁を蹴りつけ、曇り空に透ける蒼い朝陽に喧騒が鎮まっていく中を帰宅した。
 毬音のことは忘れていて、結局、二日半閉じこめていた。十五日の早朝、家に帰ると物音がしていた。たたいたり蹴ったりする音で、やっと毬音の存在を思い出した。スニーカーを脱いで部屋に上がると、蒸したリビングに明かりとクーラーをつけた。毬音は音を聞きつけたのか、急に静かになる。僕は空き部屋のドアの前に立つと、おもむろに腕組みをした。
「出してほしいのか」
「………」
「夏乃はまだ帰ってくるよ」
「………」
「いいのか」
「……こんなとこ、部屋自体出てってやるっ。あんたなんか大嫌いだ、死んじまえっ」
「じゃあ、僕のこと殺してみようか。出ておいで」
 ドアを引いた部屋の中では、のぼりきらない太陽に蒼い影がただよっていた。毬音は壁に肩を預け、隈に縁取られた目でこちらを睨む。僕は部屋に踏みこむと、毬音の柔らかな腕を乱暴につかんだ。
「放せよっ」
「振りはらえばいいじゃん」
 毬音は身をよじって暴れたが、痣が残りそうに肌に食いこむ僕の指は離れない。僕はその非力を露骨に嗤笑すると、唸り声を上げる毬音を引きずりだした。小娘がどんなに踏んばっても、首輪につながる犬の紐を引くような手荒な男の力には敵わない。前のめりに脚がもつれて均衡を崩した隙に、僕は毬音をリビングに連れ出し、厳しく腕をはらった。
「僕だって、夏乃にはいらついてるんだ」
「じゃあ別れろよ」
「お前さえいなければ別れてるよ」
「人のせいにすんなよ」
 毬音の髪を鷲掴みにして頬を引っぱたいた。強い破裂音に毬音は頬を抑えそうになったものの、肩を張って僕を睨めつける。
「お前のせいなんだよ。僕と夏乃の顔見たくないなら、お前が消えろ」
「あんたたちが、あたしを置いてどっか行け」
「ここは僕の家だ」
「男に金はらわせて、新しいとこに行けば」
「ガキが分かったような意見すんなよ。そういうのは男をたらしこめるようになって言うんだな。お前が男作って消えろ」
「消えてほしいなら殺せよ」
「そう思うなら自殺しな」
「殺せっ」
「嫌だね」
「あたしを殺して警察に行くのが怖いんだろ。意気地な──」
 今度はその側頭部に平手を飛ばした。毬音はぐらりと床に崩れて、僕はすかさず、そこにかかとを落とす。ついで足で仰向けにさせると、肩を踏みにじって眇目で見下ろした。乱れた髪の隙間で、毬音はまだ僕を睨んでいる。僕は床にしゃがんで小娘の胸倉をつかむと、その頬をしつこく殴った。打撃のたびに薄い肩や幼い手足は虚脱していく。そして瞳が光を失うと、僕は毬音を床にたたきつけて、みぞおちに爪先を置いた。
「とどめ、刺そうか」
 毬音は、血を垂らす口元で息遣いを荒げていた。頬は赤紫に腫れ、軆の端々が無感覚におののいている。恐怖ではないだろう。単なる痛みの反射だ。毬音は濁った目で僕を見て息を飲みこむと、震えそうな舌を制して、口を開いた。
「こんな家、とっとと出てってやる」
 僕は毬音の脇腹をしたたかに蹴りつけ、ガラス戸の元にうずくまらせた。そして、よみがえってきた眠気にあくびを噛み、カーテンを引く。効きはじめたクーラーに汗は引いても、所作にこぼれる香水は淡い。夕食よりシャワーを浴びることにした僕は、押し入れを開いて服を選んだ。
 毬音はすすり泣きもせず、押し黙って、背中で僕を威嚇している。幼かった僕が、蛍華さんに暴力をふるわれたあと、そうしていたように。やっぱ似てるよな、と仏頂面で爪を噛んだ僕は、蝉が目覚める直前のひとときの静けさに気づきつつ、着替えを抱えてバスルームに足を向けた。

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