傷のち蜜【1】
晃音に初めて殴られたのは、クリスマスイヴのデートのときだった。
待ち合わせの駅前がひどく混雑していて、私たちはお互いをなかなか見つけられなかった。冷え切った夜空に吸いこまれる吐く息が白い。ダッフルコートの中に凍える身をすくめる。どこからともなくクリスマスソングが流れ、周りはカップルだらけだ。
その中から「花衣!」と不意に晃音の声がした。きょろきょろすると、ぐいっと手首をつかまれる。「あ、」と顔を上げると、そこには茶色の短髪とピアスが目立ち、体格もいい晃音がいた。
不機嫌──というより、不愉快そうな顔をしている。それでも私は、まだ何も知らなかったからへらっと咲ってしまった。
「ごめんね。でもよかった、会えて」
「………、」
「ここがこんなに混むとは思わなかったね」
「十五分待った」
「私も十九時前に着いてたんだけど──」
「嘘だ」
「え」
「遅刻したんだろ」
「し、してないよっ。ただ、晃音がいないと思って、ちょっと近くを歩きまわって、」
「何でじっとしてないんだよ。そうしてたらすぐ会えてたのに」
「え、だって私も早く会いたくて──」
「白々しいこと言うなっ。お前が余計なことするから、俺は十五分も無駄にしたんだぞっ」
晃音の怒号に、周りがいくらか振り返り、私もつい畏縮してしまう。
何。そこまで怒らなくても。そう思っても、何となく言うことができない。
晃音は手折りそうに私の手首を握りしめ、そのまま引っ張って歩きはじめた。私は前のめりながらついていく。
「晃音」と呼びかけても、返事はないし、振り返らない。つかまれた手首が痛くて、痣が残るんじゃないかという力だった。
そして連れていかれたのは、ラブホテル街だった。そういう場所に行く心構えはしてきたけど、せめて食事ぐらいしてから──晃音の大きな背中にそれも言えずにいると、ひとつのホテルに入って部屋に連れこまれ、晃音は荷物を投げるように私を床に投げた。
尻餅をついた私は、不安な表情のまま、晃音を見上げた。晃音はいつも、大柄な軆に似合う鷹揚な笑顔を浮かべている人で、私もその穏やかさに惹かれた。
なのに、今の晃音はぜんぜん違う人みたいだ。目が違う。瞳孔が開いている。息が切れて、鼻息も荒い。いらだった歯軋りの音が耳につく。
危ないかもしれない。私がやっとそう認識したとき、晃音は身をかがめて私の胸倉をつかむと、側頭部にがつっとこぶしを振り落としてきた。
ぐらりとゆがんだ視界に息が震えたのと同時に、今度はお腹をえぐるように殴られた。咳きこんで、吐きそうになる私を晃音は揺さぶり、床に押し倒すと馬乗りになる。そして、髪をつかんで頬を何度も引っぱたいた。
何も考えられないまま、ただ恐怖に涙があふれてくる。それに晃音はいっそういらついた様子で、首を絞めてくる。急に呼吸が不自由になり、吸えない、吐けない、喉がつぶれそうに圧迫される。息ができない吐き気にえずきそうになり、頭の中の血管が膨張したように感じる。何とか手を離してもらおうと喉をつかむ晃音の手に手をかけようとするけど、その力さえ出ない。
ああ、ダメだ。私、殺されるんだ。もう終わりだ──
引き攣ったまぶたをおろした瞬間、突然、喉に空気が雪崩れ込んできて、私は心臓から胸を大きく痙攣させた。
その胸に顔を伏せ、晃音は泣き出していた。私はそれをぱっくりした目で見つめる。
「ごめん、花衣、ごめん」
頑是ない口調で晃音は繰り返し、私の服を握りしめる。私は荒っぽい息が落ち着くのを待ち、それから、晃音の肩に手を置いた。晃音は私を抱きしめると、「不安だったんだ」と泣きそうな声で言った。
「俺、何にもいいところないから、いつ花衣に振られるか怖いんだ。だから、デートで先に着いて待つのは嫌だ。そのまま花衣が来なかったらどうしようって、そんなことばっかり考えるんだ」
「あき、ね……」
「頼むから、俺を不安にさせないでくれ。こんなことしたくないんだよ。花衣が好きなんだ。ほんとに好きなんだ。だから、ひどいことはもうしたくない」
「………、」
「俺を哀しくさせないでくれ。頼むよ。こんなこと、二度としないから。花衣を愛してる」
頭もお腹も、突き刺すようにずきずきしている。だけど、あまりにも憐れに晃音が泣いてすがるから、「大丈夫」とかすれた声で応じていた。
「私も、ごめんね。そんなに晃音を傷つけてしまって」
「花衣……」
「私も、悪かったの。晃音の言う通り。早く会いたくても、じっと待ってればよかったのにね」
晃音は私を抱いて、肩までのストレートの髪を撫でる。私も晃音のたくましい胸に顔を埋めた。
きっと、仕事か何かで不快なことがあったのだろう。だから、ちょっと虫の居所が悪かったのだ。大丈夫。晃音は優しい。今日のことは、ただの気紛れで──
けれど、晃音の暴力はその日に堰を切ってしまった。会っている最中に、私のスマホに着信がついたとき。連絡をもらって、すぐに対応できなかったり、まして通話中でつながらなかったとき。晃音の知らない友達の名前が、つい話題に出てしまったとき。
ほかにもいろいろ、何が起爆剤になるか分からなかった。晃音は血がのぼると夜中に私の家を訪ね、ドアを殴りつづけたりする。遠慮なく大声も出すから、近所迷惑のために仕方なく部屋に入れる。そしたら、めちゃくちゃに殴られる。
私は、ただ耐える。通り雨のようなものだから。痛くても、苦しくても、逆らったら逆効果だ。晃音が落ち着くのをじっと待つ。
一気に降りしきったあとは、晃音はいつも泣きながら私に懺悔する。優しく私を介抱して、自分もつらいのだと語る。私が好きで、好きすぎて、不安になる。そして、不安が破裂すると感情を止められなくなる。私を殴りながら、いつだってひどく哀しい。こんなことはしたくないと思っている。でも、怖くて暴れてしまう。
私はそんな晃音を抱いて、頭を撫でてあげながら「私も晃音が大好きだから、大丈夫だよ」とやっと声を出す。
嘘ではなかった。ひどいことをされているのは分かっている。それでも私は、晃音に対する好きだという気持ちを捨てきれなかった。捨てたりしたら、こんな晃音に対して、あまりにも残酷な気がした。
晃音には私が必要なのだ。だから、私は晃音のそばにいたい。晃音を見捨てたくない。晃音は悲痛なまでに私を想ってくれているだけで、けして憎くて暴力を振るうのではない。
だったら、私に晃音を拒絶する理由はない。
「花衣、おはよ」
大学二年生に進級して、しばらく過ぎた。初夏の朝、今日は早くも真夏日になるとニュースで見かけた。着信にすぐ気づくようスマホは手に持って、駅への道を歩いていると、後ろからそんな声がかかった。
振り返ると、浪人二年目の同い年の幼なじみ、玲乃だった。大きな瞳のせいかちょっと童顔で、軆つきも細身で、晃音とは正反対の男の子だ。「おはよう」と答えた私を、玲乃はそのころっとした瞳で見つめてきて、「何?」と私は首を傾げる。
「いや……またやられたのか」
私は青黒い頬をガーゼで手当てしていた。「まあね」と私はあえて明るくにっこりする。
「でも、いつもと同じだから」
「……やっぱ、やばいんじゃないのか」
「やばい」
「それってさ、DVじゃね?」
「えー、違うよ。何だろ、愛情表現みたいなものだよ」
「………、」
「私がどうでもよかったら、逆にここまでしないと思うの」
「……花衣、」
「私は平気だよ。心配しないで」
玲乃は顔を背けて舌打ちする。「玲乃も本気の彼女できたら分かるよ」と私が言うと、「分かりたくねえわ」と吐き捨てられる。
私がきょとんと玲乃を見つめると、「殺されたりしたら許さねえからな」と先に歩いて行ってしまう。大学に行くわけでもないし、というか手ぶらだし、どこに行くのだろう。昔は私の一番近くにいたのは玲乃だったのに、もう彼のことが何も分からない。
私と玲乃は同じアパートに住んでいて、お互い、あまり親が寄りつかない家庭だった。似たような環境で仲良くなって、ほんの少しのお菓子を分け合ったり、冬は一緒のふとんで眠ったりした。
けれど、中学生になって玲乃に初めて彼女ができたとき、私はその女の子にかなり嫌がらせをされた。玲乃には言わなかった。ただ、少しずつ彼と距離を置いていった。
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