君が溺れる深海-4

 アイスを食べ終えた壱奈は、「よし、紀恵呼び出すか」とスマホを取り出した。見守っていると、片手操作で壱奈はメッセを作成して、すぐに送信した。そして、「いつものホテル行こ」と短いスカートをひらりとさせて立ち上がる。私はこくりとすると、ガードレールを降りた。
 アイスで体温をなだめたものの、すぐまた熱気にくらくらしはじめる。ホテル街をすいすいと歩く壱奈についていけば、私も変にキャッチにつかまることはない。
 いつも行くホテルは、ちょっと古びていても防音がしっかりしているので、壱奈のお気にいりの休憩所だ。ホテル代はいつも壱奈が出す。親の財布からくすねるそうだけど、明らかにばれていても放置なのだそうだ。
 今日は三階の一室を取って、部屋に入るなり、壱奈は慣れた手つきでクーラーを全開にした。ほてった肌や汗ばんだ軆が、ようやく落ち着いていく。ピンクの照明は白に切り替え、邦楽ロックの有線を流した。部屋の芳香剤なのか、ほのかにフローラルの香りがしている。
 壱奈はまたスマホを取り出して、着信を確認すると、何やらメッセを送信した。
「紀恵さん?」
「うん、そう」
 壱奈は伸びをしてダブルベッドにうつぶせで飛びこみ、私もベッドサイドに腰かける。
「あたしら、どのくらい学校行ってなかったっけ」
「たぶん、今週まだ行ってない」
「明日ぐらい行っとく?」
「どうしようかなあ」
 私はミルクティー色の絨毯に脚を伸ばす。もう私は、授業にも試験にも追いつけないと思う。壱奈も同様だろう。それでも、ぜんぜん行かずに出席日数すら稼がないのはまずいかと、気が向けば私たちはたまに登校している。
 やがて部屋に訪れた紀恵さんは、こちらをにらんだあと、「何だよ」と壱奈さんに向かってこまねいた。壱奈は仰向けになってから、ゆっくり身を起こすと、「話があって」と紀恵さんをまっすぐ見た。
「あたしたち、そろそろ別れない?」
「は?」
「てか、つきあってないのは分かってるけど、そろそろほかの女でやったら?」
「やるって……」
「あたし、じゅうぶんカモフラ役こなしたと思うけど」
 紀恵さんは素早く私を見た。私が思わず視線をそらすと、紀恵さんは不愉快そうに舌打ちする。
「ほかの女をカモフラにしたくないなら、七羽とつきあえばいいじゃん」
「あいつは、」
「ずっと七羽だけに惚れてるくせに」
「……あいつは、ダメだ」
「男だから? 兄貴が怖い?」
「そうじゃねえよ。七羽は頭がおかしい。俺じゃ無理だ」
「勃ってもらえないからって、その言い草はないでしょ」
 紀恵さんはいらいらと頭を押さえたあと、「七羽の家のことは知ってるだろ」と壱奈に目を向ける。
「えー、虐待だっけ?」
 当たり前のように壱奈は言ったけど、私はどきんとしてふたりを見る。
 虐待、って──七羽くんが?
「そうだ。子供の頃から、あいつの面倒を見て、いろいろ金を出してきたのは、どこの誰かも分からないおっさんたちだった」
「らしいね」
「親は……殴ったり蹴ったりするだけなのに、おっさんたちは七羽に優しい。『愛してるよ』って言いながら、気持ちよくもしてくれる」
 ふと、七羽くん自身の言葉がよみがえった。
 そういうおじさんは、僕を優しく愛してくれるからね。
 紀恵さんは苦々しく続けた。
「分かんねえよ。だからって、もう汚いおっさんにしか反応しなくなったとか。禿げて太って、やらしく触ってくるおっさんじゃないと、勃たないって」
 壱奈はけらけら笑い、「それはありえねえわ」とお腹まで抱えた。私は七羽くんの綺麗な顔を思い出して、何だか息が苦しくなった。
「俺も……いろいろやって、手を汚してるつもりだけど。ダメなんだ。七羽には、それは違うんだよ」
「紀恵は陰気なだけで、ハゲデブ親父ではないもんねえ。そっかあ。でも、だからって何で、あたしがいつまでもあんたのカモフラでなきゃいけないの?」
壱哉いちやは──」
「兄貴もそろそろ、自分があてがった女じゃなくて、あんたが自発的に女とつきあうのを待ってると思うよ」
「………、」
「あんたもあんたで、女に勃たないんだろうけど、だからやらずに済むあたしが便利なんだろうけど、そろそろもう知らねえよ。あたし、今は日南といるほうが楽しいし」
「日南って……」
 紀恵さんが私に視線を向ける。長い前髪の隙間で、虚ろな目をしている。
「とにかく、あたしとは別れて。そのあと、七羽を口説き落とすか、ほかの女でカモフラするかは、あんたの自由だけど。あたしは疲れた」
 紀恵さんは、いらついたように煙草を取り出して吸いはじめる。でも、ひと息吸うと火をつけたそれをすぐ灰皿につぶし、「分かった」と吐き捨てて部屋を出ていった。
 私は閉まったドアを見届けたあと、「七羽くんのこと、びっくりした」とつぶやく。
「何が? 売りのことは知ってるでしょ」
「虐待とか……」
「ああ。あたしも似たようなもんだから、何にも感じないけどね。紀恵んとこもネグレクトって言ってた」
「……そうなんだ」
「七羽の家庭環境は、逆にトラウマになるはずだよねえ。そうするしか生きられなかったって、普通しんどいもん」
「うん──」
「おっさんしか愛してくれなかったより、おっさんだけは愛してくれたって感覚なのかな」
「七羽くんは、いろんな人に愛されてるように見えるけど」
「もうゆがんでるんでしょ。子供の頃に、性指向まで刷り込まれたんだろうね」
「……助けられないのかな」と私がぽつりと言うと、「助けるって」と壱奈は首をかたむけた。
「紀恵さんとつきあうようにする……とか」
「………、日南は、七羽のこと好きだもんなあ」
「えっ。そ、そんなことは、ない……よ」
「ばれてるから、ごまかさなくていいよ。趣味悪いなとは思うけど」
「今は、壱奈のほうが大事だよ」
 私の言葉に壱奈はまばたきをして、「ほんとにー?」とくっついてくる。何だか照れながらも私がうなずくと、壱奈は私の頬に軽くキスをした。それから、「七羽は一応、友達なのかもしれないし」と壱奈は私の肩に頭を載せる。
「明日、学校行ってちょっと話してみようか」
 私は壱奈を見て、こくんとした。
 壱奈の長い睫毛が、微睡みかけていた。「眠い?」と訊くと「少し」と返ってくる。「少し寝ていこっか」と提案すると、壱奈はうなずいて、溶けるみたいにベッドに横たわった。
 私はその隣に軆を横たえ、プラチナの髪を撫でた。壱奈は手探りで私の手をつかむと、握りしめて眠ってしまった。
 翌日の朝に帰宅した私は、うるさい両親の説教には耳を貸さず、制服だけ身に着けて、すぐに家を出た。
 いつのまにか、突き抜ける青空に、蝉の声が反響するようになっている。
 あくびを噛み殺し、電車に揺られて高校にたどりつく。教室に向かえば、たいてい七羽くんはすでに教室にいて本を読んでいるのに、その日はすがたがなかった。壱奈はいたから席に近づくと、「いないね」と言われて私はうなずく。
 そのまま、ホームルームになっても、一時間目が始まっても、七羽くんはすがたを現さなかった。
 クラスメイトに訊いてみると、七羽くんも今週は登校していないらしい。「あいつは皆勤賞でも狙ってると思ってた」と壱奈が言う通り、これまで七羽くんが休むことはなかったはずだ。
 どうしたんだろ、と放課後になって空席を見つめていると、隣にいた壱奈のスマホの着信音が鳴った。スマホを取り出した壱奈は舌打ちして、「ブロックしようかな」とひとりごちる。
「誰?」
「紀恵」
 言いながら、壱奈は画面に指をすべらせ、突然「は?」と声を出した。「どうしたの」と私がまじろぐと、壱奈は画面を私に見せてくる。
『七羽が薬打たれて、もう何日もまわされてるらしい』
 私もぎょっとして、目を見開いてしまった。
 薬? まわす? それって──
 そう言いかけると、「めんどいなあ」と壱奈はぼやいて、私を見る。
「どうする?」
「えっ」
「助けに行く?」
「行ったほうがいい、よね」
「どうかな。どっちみち、紀恵が行くだろうし」
「………、連絡くれたってことは、紀恵さんは私たちを呼びたいのかも」
「七羽が死んでも、あたしはどうでもいいけどね。ま、日南がそう言うなら、合流するって送るね」
「ごめん」
「いいよ。とりま学校出よ」
 壱奈は素早くフリック入力しながら教室を出る。私はそれを追いかけて、七羽くんはいつも私を助けてくれたから、と思った。できれば、私も彼を助けたい。恋心がほのかにあるというより、七羽くんの役に立ちたい。
 ざわざわと生徒たちが下校する波を縫って校門を抜けると、制服のまま、電車でいつもの界隈に出た。
 時刻は十七時頃で、日が暮れる前だけど人混みは相変わらずだった。紀恵さんは改札で私たちを待っていて、「遅せえよ」と毒づく。「今日は学校行ってたんだよ」と壱奈はそっけなく返し、「場所は分かってるの?」と話を進める。
「客のアパート」
「ここから遠いの?」
「いや、飲み屋に混じってるとこっぽい」
「治安悪そうだなあ。日南、あたしから離れないようにね」
「う、うん」
 私がうなずいていると、紀恵さんは胡散臭そうにこちらを一瞥する。
「何で……その、日南ってのも来るんだよ?」
「日南が行こうって言ったんだよ。あたしはほっとけばいいと思ったけど」
「あ、えと……いつも、古旗くんは私のこと助けてくれてたから……私にも、何かできるなら」
「助ける、ねえ。そうなればいいけどな」
 紀恵さんは何やらつぶやいたものの、「行くぞ」と壱奈と私を連れて歩き出した。
 ホテル街とは違う通りに入り、そこはまだ開店していないものの、焼き鳥屋や居酒屋が入り混じっていた。さらに脇道に入ると、同じくまだ閉まっていても、バーやスナックがある。夜は栄えるのだろうけど、今の時間帯に人通りは少ない。
 そういうお店の合間に、古ぼけたアパートがたまに混じっていた。「売れない水商売の女が、何とか生活しのいでるアパートだと思う」と壱奈が説明する。そんなアパートのひとつの前で、紀恵さんは立ち止まると、「ここだな」と躊躇うことなくアパートの中に踏みこんだ。

第五話へ

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