ミチカケループ-2

傷のち蜜【2】

 電車ではそれほどでもなかったけれど、大学ではちらちらと頬のガーゼに視線が来た。「まただよ」とすれ違いざまにささやく人もいた。
 そんなに目立つかなあ、とガーゼに触れると、びりっと痛みが走る。皮膚が擦り切れていて、化粧でなかなかごまかせなかったから、晒すよりはとガーゼを貼ってきたのだけど。あんまり気にしないほうがよかったかな、と思いつつ、その日は一日ひとりで黙々と講義を受けた。
「花衣、ここいい?」
 お昼になると、大学構内のテラスでサンドイッチを食べた。スマホを手元に置いて、口の中の切り傷を気にしつつたまごサンドを飲みこむ。
 不意にそんな声がして顔を上げると、この大学でできた友達の朋里ともり聖緒せおが、それぞれランチのトレイ持って立っていた。「うん」と言った私をふたりは見つめて、何やら同時にため息をつく。
「何?」
 私が眉を寄せて首をかたむけると、「それ、また彼氏?」とセミロングの髪を両脇で結う朋里が、くっきりした二重の黒目がちの瞳に憂慮を浮かべる。「ん、まあそうだけど」と私が答えると、凛とした眉やさらさらの黒髪が綺麗系男子の聖緒も「やっぱ彼氏やばいだろ」と私の正面の席に腰を下ろす。
「何でみんなで、晃音のことやばいって言うかなあ」
「花衣に自覚がないのも怖い」
 そう言って、朋里は私の隣の席に座る。
「自覚って」
「絶対、その彼氏とは別れたほうがいいよ」
「またその話」
「彼女に暴力振るうとか、普通じゃないからね?」
「愛情は優しいだけでもないでしょ」
 朋里はあきれたようにオムライスにスプーンをさしこむ。カレーライスを食べはじめていた聖緒は、「花衣だって、彼氏には優しくしてほしいだろ」とスプーンを休める。
「優しいときもあるよ、ちゃんと」
「暴力振るわれたいわけ?」
「そういうわけではないけど」
「じゃあ──」
「大丈夫だからっ。ほんとに、心配しなくても、私と晃音はうまくいってるの」
 朋里と聖緒は目を交わし、それ以上、私を説得しなかった。それでも、後日になったらまた心配を訴えてくるのだろうけど。
 それは、私だって初めはとまどった。恋人同士は甘やかなものだと思っていた。けれど、さんざん殴ったあと私にすがる晃音を見ていると、こういう愛もあるのかもしれないと思うようになった。
 少なくとも、晃音は私が憎いのではない。優しくしたいとじゅうぶんに思っている。でもそれができないほど、不安定で不器用なのだ。そのつたなさを否定して別れるなんて、私にはできない。
 大学から帰宅すると、鏡と薬箱を用意して、ガーゼを剥いでみた。まだ青黒くて、表面はやっぱり擦り傷になっている。化粧を落とすと、念のため、擦り傷に消毒液を染みこませたコットンをあてた。
 ……沁みる。痛い。
 どうして、だろう。殴られたときには泣いたりしないのに。誰もいない家で、その手当てをしていると、胸が苦しくなるほど不安になって、息を震わせて泣いてしまう。誰かの腕に取りつきたいほど心細いのに、今、ひとりであることに死にたくなる。
 昔のまま、家に居着かない親からのお金は心許ないので、週三回、私は夜の仕事に出ている。この仕事を勧めたのは晃音なので、仕事中のことならば、私が男の人にどこを触られようが彼は無関心だ。スカートの中に手がもぐりこんできて、その感触が気持ち悪かったと話しても、「仕事だろ」とそっけない。
 殴られるより、そんなふうに晃音の気を引けないときのほうが、私は怖かった。
『明日会うときは、金持ってきて』
 梅雨が近づく五月下旬、デートの前日に晃音からそんなメッセがひと言入っていた。金額は書いていないけれど、たいてい三万持っていけば納得してくれる。今の仕事だって、晃音の勧めがなければ踏みこまなかった世界だし、それくらいはらうのは普通なのかなと思う。
 翌日は日曜日で、小雨が降っていた。私は約束の十二時の十分前に待ち合わせ場所に到着して、傘をさして晃音のことをじっと待つ。場所は晃音の暮らす部屋の最寄り駅だ。ロータリーの景色は霞み、雨音が雑音をかき消して何だか静けさを覚える。
 少し前まで雨の日は肌寒かったのに、夏が近いせいか空気は蒸している。濡れたアスファルトの匂いをぼんやり感じていると、「花衣」とふと名前を呼ばれて傘がかたむいた。はたと顔を上げると、晃音が傘の中の私を覗きこんでいる。
 茶髪。ピアス。……目は優しい。
「晃音」
「雨降っちまったな。もう俺の部屋行こうか」
「うん」
「昼飯作ってくれる?」
「あるもので作れそうなら」
「何かは作れるだろ。行こう」
 私がこくんとすると、その肩を抱いた晃音は、同じ傘に入って歩いてくれる。晃音もここに来るまでに使った傘を持っているけれど、それを使わないのかと訊いたら、相合い傘でくっつくのが嫌なのかと言われるから黙っておく。
 晃音の柔らかい体温や筋肉の弾力が、同じ傘に入っているだけで伝わってくる。雨の匂いに紛れつつ、晃音の匂いも感じる。その匂いがやっぱり落ち着いて、晃音が好きだなあと思った。
 晃音は二十四歳の社会人二年目で、会社勤めをしている。ひとり暮らしを始めたのも、大学を卒業してからだそうだ。
 ちなみに私と晃音が出逢ったのは、去年の夏、友達を通して一緒に海に出かけたときだった。私も一応周りのノリに合わせて水着は着たけど、パーカーを羽織って荷物番をしていたら、晃音が隣に座ってきて話相手になってくれた。「みんなと遊ばなくていいの?」と私が訊くと、「海はひとりでサーフィンとかに来るほうが好きだからなー」と晃音は答えていた。
 帰り道の電車で、思い切って連絡先を訊いたら交換してくれた。それから毎日何かしら連絡を取って、ふたりで会うようになって、つきあいはじめたのは紅葉が始まる秋だった。初めはみんな、私に彼氏ができたのを「おめでとう」って喜んでくれたのにな、と最近の友達の懸念の目を思い返す。
 晃音の部屋に着くと、「お邪魔します」と部屋に上がって、キッチンの冷蔵庫や引き出しを見た。「ポテトグラタンとか作れそうだけど」と言うと、先に廊下の奥のリビングに行った晃音の「食べたい」という返事が聞こえて、続いてテレビの音が流れはじめる。私はじゃがいもやマカロニ、レトルトのホワイトソースを並べて、料理に取りかかった。
 一緒に熱いグラタンを食べて、あんまりおもしろくないテレビを観て、今日は普通だな、とそわそわしてきた。もちろん、私たちはこういうふうにまったりするときもある。それは平和でいいことなのだろう。だけど、何もないと靄のようなものが心に絡みついて、ざわついてくる。
 殴られて、泣きつかれて、必死に愛を訴えられて、私もまた、晃音の心をひりひりと感じるようになったから。もしかして、私のことどうでもよくなったのかもしれない。そんな考えさえちらついて、でも優しく髪を撫でられているのに、「私のことどうでもいいの?」なんて訊くのもおかしい。私は晃音にぎゅっとくっついて、すると晃音は私を見て、自然と口づけてきた。
 ああ、そういう気分だったんだ。やっと察して、私は晃音に応える。
 舌が舌をすくいとって、むさぼる水音が響く。晃音の腕が私を胸の中に抱き寄せ、指で背中をたどられて弱く震えてしまう。その私の反応に、晃音はカットソーの中に手を潜りこませてじかに背骨をなぞる。伝わる晃音の指の温度と感触に、軆の芯がぞくりと灯る。晃音はブラのホックを片手ではずし、カットソーと一緒にまくりあげた。あふれた乳房を手のひらに包みながら、耳から首筋にかけてキスをして、再び口の中に舌を絡みつける。
 腰に晃音の硬くなったものが当たって、それだけで私の核も疼いた気がした。それを知ってか知らずか、晃音はそれを私の内腿に押しつけて、「分かる?」と訊いてくる。私はこくりとして、でも、欲しいと言っていいのか分からない。
 晃音は身を起こし、ベルトを緩めてジーンズのジッパーをおろした。私も上体を起こすと、ボクサー越しに晃音に触れて唇を寄せた。「してくれる?」と訊かれてうなずいた私は、丁重に晃音を取り出して口にふくんだ。吐きそうになるまで喉の奥に飲みこんで、こみあげたもので締めつけるのが晃音は好きだから、私は少し苦しくてもそうしながら唾液と胃液でぬめらせていく。晃音は私の髪を梳いて、たまに「こっち見て」と言うから、上目遣いで視線を重ねる。
 やがて、それが血管が脈打つほどになってくると、晃音は私をフローリングに押し倒して、スカートの中の下着をおろして入口の湿り気を確かめた。押し広げる指が内壁に食いこみ、私は甘くもろい声をこぼす。上に来た晃音は、中を混ぜながら「いい?」と問いかけ、私がうなずいてみせると、指でなく先端が先走るものでつらぬいた。
 私は自分の指を噛んで声を抑え、抱え上げられた腰に大きく脚を開いて晃音を受け入れる。中を動く晃音が奥を突くたび、爪先が引き攣る。息がお互い荒くなって、激しい動きが核にも響いて切なく締まる。私は晃音のたくましい首にしがみつき、彼の名前を何度も呼んだ。晃音も私の名前をもらしながら、腰を強くぶつけてくる。そして、「やばい、」とつぶやいていっそう乱暴に動くと、ぐっと深くまで突き上げて達したのが分かった。

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