ルナティックアイズ【1】
僕が好きな女の子には、彼氏がいる。それだけだったら、もしかして、すでにこの恋はあきらめていたかもしれない。彼女をあきらめられないのは、同時に彼女が心配だからだ。
大学に入って親しくなった花衣という彼女は、彼氏に暴力を振るわれている。そして、彼女は当然のようにそれを受け入れている。理解できないその関係が、僕の花衣への恋心もこじらせている。
梅雨に入り、雨が何日もやまなかったり、かと思えば真夏日の快晴だったり、安定しない天気が続いていた。
高校からの女友達の朋里が、ここしばらく、何やら花衣の相談に乗っている様子だった。「何かあったの?」と僕も話ぐらい聞こうとしても、いつもなら一緒に花衣を彼氏と別れるよう説得する朋里が、「男はあっち行っとけ」と追いはらってくる。
何だよ、とむくれつつもずうずうしくなりきれず、先に教室を出て廊下でふたりを待った。そんなのがしばらく続き、むしむしした雨がまとわりつく六月下旬、「花衣が話していいって言ったから」と帰宅していた道のりで、朋里がようやく口を開いた。
「あの子、先月、彼氏に無理やりされて、中で出されたらしいの」
雨音が響く傘の下で、心臓が痛いぐらいに脈打った。隣を見ても、朋里の表情は傘の影になって見えなかった。ただ、両肩で結われたセミロングの髪に、湿気のせいか少しまとまりがない。
無理やり。中で。
生々しい話に、確かに聞かされないほうがよかったかもなんて思ってしまう。いや、そんな僕の勝手な気持ちなんかより、それはつまり──
「まさか、できたの?」
朋里が首を横に振ったのが、おさげの揺れた方向で分かり、ひとまずほっとする。
「ここんとこ、婦人科に行ったほうがいいかどうか相談されてたんだ。だから、聖緒にはあんまり聞かせられなかったの。ごめんね」
「いや、……いいよ。それは男には話しづらいよ」
「花衣、あたしが紹介して何とか婦人科行ってくれたんだけどさ。やっぱ、先生にDV指摘されたみたい」
「そう、なるよね」
「無理に中に出されるとか、あたしならぞっとする。でも花衣は、やっぱり別れる気はなさそう」
「彼氏、花衣の軆のこととかどう思ってるんだろう。できてたら堕ろす……というか、そういう方向だったんだよね、どうせ」
「たぶんね。花衣、大丈夫なのかな。さすがに、ちょっと異常に感じる」
「だいぶ異常だよ。何で別れようって方向に考えないのか分からない」
「殴られるのが愛情表現と思ってるのが危ないよね。目を覚まさせるというか、そういうのってできないのかな」
透き通った雨粒が絶え間なく傘の表面を跳ね返って、足元にぼたぼたと流れ落ちていく。水の世界の中で、街路樹の緑が生き生きしている。水気の中から、コンクリートが濡れた匂いが立ちのぼる。
目を覚まさせる。彼氏は愛しているから暴力を振るう、なんて妄想から。助けてあげたいのだ。
どうすれば、僕や朋里のその想いが花衣に届くのだろう。
「聖緒は?」
「僕」
「花衣のこと」
「心配だよ」
「いや、好きなんでしょ」
「ん、まあ……」
「伝えないの?」
「今の花衣に告っても通じないよ」
「聖緒とつきあってくれたら安心なのになあ」
「そんなの、僕だってそう思うけど」
「みんな花衣にはヒイちゃってるしさ。あたしには、聖緒だけが望みだよ」
望み。僕の気持ちを伝えたら、あるいは花衣を変えられるのだろうか。あんなに彼氏を妄信している花衣を? 僕の気持ちで彼女を救えるなら救いたいと思うけれど、それには花衣が彼氏に溺れすぎている気がする。
朋里と途中まで同じ電車に乗って、市街地の大きな駅で僕が路線を乗り換えた。僕も朋里も、実家から大学に通っている。朋里と知り合ったのは高校だから、地元は別々だ。
内気だった僕と朋里は、高校一年生の同じクラスでそれぞれ同性から外されているうちに、仲良くなっていた。周りはクラスのはずれ者同士がつきあいはじめたと揶揄ってきたけど、朋里とそういう雰囲気になったことはない。朋里には好きな人がいると、何となく分かっていたせいかもしれない。
進級してクラスが変わっても朋里は友達でいてくれて、特に相談することもなく自然と同じ大学を目指した。どうしても学びたいこともなく、専攻も同じにした。そうして進学した大学で、よく講義が一緒になるのが花衣だった。
花衣が彼氏とつきあいはじめたと報告してきたのは、夏休み明けに大学で再会したときだった。それがけっこうショックで、咲うのが風邪をひいたときのだるさみたいにつらい感じで、自分が花衣を好きになっていたことに気づいた。
さいわい、花衣は彼氏に夢中で僕の気持ちに感づかなかったし、僕も心を閉じこめてゆいいつ朋里にだけ打ち明けた。最初は朋里は「もう花衣は幸せになったんだから」と僕の気持ちに否定的で、それが哀しかったりしたけれど、正しいのは分かっていた。
ところが、彼氏の花衣への暴力が次第に確信になり、やがて朋里は僕の気持ちを応援してくれるようになった。僕の気持ちが花衣を変えるとまで期待されると若干重かったけれど、それでも、僕が花衣を変えられるならそうしたいと僕自身願った。
しかし、DV彼氏に負けて振られるのを物怖じしているうちに、ずいぶん経ってしまった。来月夏休みに入って、それが明けたら、一年だ。
花衣が彼氏に怯えたり別れようとしたりしないことが、僕も朋里もよく分からない。正直、花衣がそういうことを言い出すと思っていたし、そのとき全力で助けて、それから告白、なんて考えたりしていた。だが、花衣は愛されているからこそ暴力を振るわれるなんて、謎の理論で絶対に折れない。あんなに華奢な軆をずたずたに殴打されているのに、花衣は彼氏を愛しているのだ。
週末は、雲のない青空が広がる快晴の猛暑だった。家にいるとエアコンを無制限に使ってしまうので、図書館で勉強でもしてきてくれと親に家を追い出されてしまった。
仕方なく僕は電車に乗り、市街地に出た。別に本当に勉強しなくてもいいだろうと、CDショップで勉強中のBGMでも物色しようと思った。好きなアーティストはデジタルでダウンロードするばかりだけど、知らない音楽との出逢いは店舗の視聴やお勧めにある。そこでも気に入ったものはCDで買わず、スマホでデジタルストアにアクセスして配信を購入するのだけど。CDってかさみそうだしなあ、と音楽好きな人にはしかられそうなことを思いつつ、モールへの混雑する道を汗をむしりとられながら歩いていた。
すごく暑くて何か飲みたくて、ちらりと前方のカフェを見たときだ。ちょうどそこから出てくるカップルがいて、びくっと足を止めてしまった。
花衣だったのだ。イエローのボーダーシャツと、紺のフレアスカートを合わせている。
急に立ち止まった僕を舌打ちしてよけていった人に、慌ててまた歩き出した。何となく花衣に気づかれないように、顔を伏せて──でも、目だけでふたりを観察して。
花衣は咲っていて、見たところ怪我はなかった。でもそれは顔だけで、こんなに暑いのにシャツは長袖だし、隠している痣がいっぱいあるのだろう。彼氏は、短い茶髪やしっかりした大柄な体格が、男らしい印象の人だった。
花衣と手をつないで大らかそうな笑顔も見せていて、彼氏だよな、と疑いそうになる。あんな人が暴力を? まさか花衣が、彼氏以外の人とデート? 分からないけども、花衣の笑顔がその男の人に恋をしている笑顔なのは感じ取れた。花衣が浮気をするとは思えない。やはり、あの男の人が花衣に──。
そんなことを思っているうちに、流れのまま歩いていた僕はふたりに気づかれないまますれちがってしまった。小さく振り返ると、花衣の背中は男の人に寄り添い、男の人もそんな花衣の肩を抱いていた。普通の、本当にいたって普通の恋人同士に見えた。
彼氏に暴力を振るわれている。それは、僕や朋里の邪推でなく、花衣自身の口からも聞いている。だから、花衣はあの人に殴られていることになるけれど、かなり優しそうな人に見えた。豹変して暴力を振るうのだろうか。花衣が「自分を殴る彼氏でも好き」なんていうわけの分からない嘘を僕たちにつくこともないだろう。それに、実際に僕はあの無残な青痣や痛々しい怪我を見ている。
あんな人が、暴力を振るうのか。何か、怖いな。僕は酷暑と騒がしい人いきれの中で、一滴ひやりとそう思い、影が短い足元にうつむいた。
【第五章へ】
