ミチカケループ-10

囚人の嘘【1】

 問題を解くシャーペンの動きを止め、考えるふりで、隣にいる小冬こふゆさんを盗み見る。
 小冬さんは参考書をめくって、次に俺に解説して出題する問題を選んでいる。長いすべすべの黒髪、感情が淡彩な瞳、なめらかな白皙の肌にふっくら厚い唇。軆つきはそんなに量感はなくても、すらりとして特に脚が長い。
 美人だなあ、と相変わらずうっとりしそうになりながら、小冬さんが視線に気づく前に問題に向き直る。そして、またシャーペンを動かしはじめる。
 小冬さんは大学生で、俺は中学生で、家庭教師とその生徒で、相手になんかされない。分かっていても、俺は春から勉強を教えてくれているこの女の人に、恋をしている。
 塾も行っているのに、塾のない日は家庭教師なんてやめてくれと思ったけど、小冬さんにほとんどひと目惚れしたから、俺はおとなしく勉強を教わっている。何かないかなあ、スマホで観たAVみたいなことないかなあ、なんてどこかで期待しつつ。
「解けた?」
 わりとハスキーな声も艶っぽい。「うん」とノートをさしだすと、小冬さんは目を通して、うなずいて「全問正解」と言ってくれる。
 じゃあ何かご褒美ちょうだい、とかふざけても言えたらいいけど、小冬さんといると緊張してしまって言えない。一度だけ甘えられたのは、誕生日、小冬さんの写真が欲しいと言って、スマホで一枚だけ撮らせてもらったときだ。
「私の写真なんかどうするの?」
 そのとき、小冬さんは不思議そうに訊いてきたが、「俺のカテキョがこんな美人だって友達に自慢すんのっ」とか必死に考えておいた言い訳を俺は早口に言った。言ってしまったあと、本人に「美人」とか言ってしまったのがすごく恥ずかしくなったけど、小冬さんは苦笑して「ありがとう」と言ってくれた。
「じゃあ、次は──」
 綺麗な指で次の問題をしめす小冬さんの手元を覗きこみ、俺は優等生みたいに、その解説に耳をかたむける。相手にされない。分かっていても、こうして部屋でふたりきりで過ごしているとき、小冬さんが俺のものになったらいいのに、と胸を掻きむしられるように思ってしまう。
 しかし俺は、小冬さんに彼氏がいるのかどうかすら知らない。まあ、普通に考えたらいるのだろうなと覚悟はしている。いるとしたら、どんな男なのだろう。やはり、かっこいい大人なのだろうか。その男は小冬さんといろいろやっているのか。くそ、いいなあ。小冬さんに想われているだけでもうらやましい。いや、彼氏がいたとしたらなのだが。もし、いないなら──
 それでも、俺なんて考えてくれるわけがないのが悔しい。
 その日も十八時から二十一時まで、小冬さんはきっちり俺に勉強を教えて、帰っていった。でも、まだ学校の宿題が残っている。俺は教科書とノートをかばんにつめこむと、両親がゆいいついつでも自由に行かせてくれる、隣の家に向かった。
 チャイムを鳴らして顔を出したのは、姉貴分の朋里だった。けしてブスではないのだが、素朴な感じのせいか、小冬さんを見つめたあとだと印象がぼんやりしている。
「何?」と言われて「宿題やらせろ」と俺は返し、朋里の返事も聞かずに家に踏みこんだ。おじさんとおばさんは、こころよく俺を迎えてくれる。正直、自分の親よりこのふたりのほうが好きだ。玄関を閉めてきた朋里は、「あたしお風呂入ってくる」と言って奥に行ってしまった。
 怒ったかなー、と気になっても、俺はずいぶん朋里に捻くれるようになってしまった。ちゃんと慕っているのだけど、素直になれない。高校くらいからあいつ変わったしなあ、とそこが分岐だったのかなと思う。
 昔は朋里はおとなしくて、中学時代にはイジメも受けていた。俺は放課後そばにいることしかできなかったけど、それでも朋里は俺の手を握って泣いていた。でも、高校で友達ができてから明るくなって──
 それはいいことなのだろうけど、何だか俺はつまらなかった。朋里の一番は、たぶん俺だったのに。もうその友達のほうが大事なのだろうと思って、何だか俺は朋里に対して捻くれてしまった。
 リビングで宿題を始めると、おじさんが勉強を見てくれて、おばさんがカフェオレを淹れてくれた。子供の頃は、よくこの家の子供になりたいと泣いたっけ。
 俺の両親は過保護だし、厳しいし、俺をとにかく良い子に育てようとする。ガキの頃から、欲しいと思ったおもちゃも、食べたいと思ったお菓子も、買ってもらえない。漫画もゲームも禁止。一日の三分の一は勉強を強いる。
 友達を家に呼んだとき、その友達に俺に余計な遊びを教えるなと説教を始めたときは、死にたくなった。もちろん、その友達は翌日から口をきいてくれなくなった。
 中学生になってスマホを買ってもらったが、どうせフィルタリングかけられまくるんだろと思った。そしたら、両親が機械に弱いのがさいわいして、かなり無防備なインターネットが手に入った。だから、今はスマホと、朋里の家と、それから小冬さんとの時間が俺の癒やしだ。
 風呂を上がった朋里が顔を出し、「おやすみ」と残してすぐに二階に上がってしまった。そのときちょうど宿題が終わった俺は、おじさんとおばさんにお礼を言って、朋里の部屋を訪ねてから帰ると言ってみた。ふたりともそれを許してくれたので、俺は勉強道具のかばんは玄関に置いて、階段の明かりをつけて二階に上がった。
 外では虫の声が澄んでいる。先月は屋内はどこもむしむししていたけど、九月に入ってしばらく経ち、夜は涼しくなってきた。
 俺は朋里の部屋の前に立ち、ノックしようかと思ったけど、らしくないなと思ったので、そのまま「おい、朋里」と言いながらドアを開けた。
 朋里はベッドに腹這いになってスマホをいじっていた。何か恥ずかしいところだったらおもしろかったのに、と思いつつ部屋に入ると、「何か用?」と朋里はスマホを伏せて起き上がる。明るくなったくせに、俺にはそんなふうにどことなく無愛想なのも癪なのだ。「別にー」とか言いながら、俺は本棚の前に行って漫画を選び、床に座りこむと読みはじめる。
「もう漫画はスマホで読めるでしょ」
「あんまりスマホ代かけられねえから、だいたい試し読み一巻だけとかだけなんだよ」
「高校生になったら、バイトしてスマホ代自分ではらえば?」
「バイトなんかさせてもらえるか」
「社会勉強とか言えばいいでしょ」
「……高校かあ」
「行かないの?」
「行きたくないけど行くしかねえだろ」
 春、第一志望の高校に受かったら。そうしたら、小冬さんに勉強を教わることもなくなるのだろう。あるいは、高校の勉強も見てもらえるのだろうか。
「朋里」
「何」
「お前、彼氏とか作らねえの?」
「………、別に、いないし」
「好きな奴もいねえの?」
「好き……な人は、……いる」
「マジで? どんな奴?」
「さあね」
「朋里の彼氏にも、俺、かわいがってもらえるかなあ」
「……知らない」
 朋里はベッドに横たわって背中を向けた。そして、俺を無視してスマホいじりを再開する。
「お前、ほんとかわいくなくなったよな」
 その背中にむっとした俺は、また嫌味を投げつけてしまう。朋里は反応せず、スマホの画面に指を滑らせている。俺はため息をつくと、しばらく無言で漫画を読んでいた。
 でも、零時が近づいてくるとさすがに眠たくなってくる。
「……朋里」
「んー?」
「眠い」
「帰る?」
「……帰りたくない」
「じゃあ、泊まっていけば」
「この部屋で寝る」
「勝手にすれば」
「ん。おばさんにまくらだけ借りてくる」
 俺が本を閉じて立ち上がろうとすると、朋里が上体を起こし、自分のまくらを俺に投げつけてきた。「貸すから電気消して」と言った朋里に、俺は拾ったまくらを腕に抱くと、膝立ちで移動してドアのそばのスイッチで明かりを消した。
「おやすみ」
 スマホの画面を落とした朋里の声に、「おう」と返すと、俺は床に寝転がって朋里のまくらに顔を埋める。幼い頃から親しんだ匂いがした。匂いは朋里の匂いが落ち着くな、とぼんやり思いながら、すでに眠たかった俺はすぐに意識を失ってしまった。
 最近の公立校は治安が悪いから、という親の意見に流され、俺は電車で私立の中学に通っている。確かに公立中学に行っていた朋里はイジメられていたし、あながち余計な心配ではないのかもしれないが。朝のラッシュに、この歳からうんざりしながら通学しているのは、けっこうきつい。

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