満たされるより虚しく【1】
玲乃とは、大学生になって登録した、家庭教師を紹介する派遣元で知り合った。
玲乃は私と同じく中学生に教えているけれど、中でも不登校や引きこもりの子を担当している。「大変じゃない?」と訊くと、「俺は普通に登校できる子のほうが分かんねえからな」と玲乃は苦笑した。実際、玲乃はそういう生徒の心をうまくつかむみたいで、現在は三人ぐらいの生徒をいそがしく見てあげている。私が今見ているのはひとり、もともと勉強のできる子だ。
初めて逢ったときから、玲乃には不思議と心を惹きつけられていた。大きな瞳の童顔や細身の軆つきも、男の獣性をあまり感じさせなくてほっとする。
週一回のミーティングのときは、いつも玲乃の隣に座っていた。それで顔を憶えてもらった頃、いつになく緊張しながら食事をしていかないかと誘ったら、「俺、おごれないから」と玲乃は笑った。それでもいいと言うと、玲乃は首をかたむけて、「じゃあ安いとこね」とやっとうなずいてくれた。安いとこってファミレスとかかな、と思っていたら、駅前の高架下の定食屋に連れていかれた。
「ファミレスは安いぶん量がないじゃん」
華奢な軆のわりに、がっつりと豚カツ定食を食べながら、玲乃は言った。私は食べきれるか分からなかったので、きつねうどんにしておいた。
周りは、仕事帰りらしいスーツのサラリーマンが多い。
「俺は、食べれるときに食べとかなきゃいけないからさ」
「食べれるとき」
「んー、うち、親がまともに家にいないから。帰っても飯ないんだよな」
「いないって、仕事とか」
「さあ。何してんだろうね」
玲乃は明るく笑ったものの、ネグレクトかな、と秘かに感じ取った。
「玲乃くんって、大学どこだっけ」
「俺、浪人生だよ。このあとは予備校」
「え、そうなの。ごめん、誘ったりして」
「飯は食うつもりだったから平気。小冬さんは、やっぱり教職取るの?」
「一応、専攻はそっち。玲乃くんは違うの?」
「俺は獣医になりたいんだよね」
「獣医」
「子供の頃、拾ってきてもうまく育てられなくてさ。花衣といつも泣いてたからなー」
「花衣……って」
「ああ、幼なじみ」
私は出汁のきいたうどんをすすった。幼なじみ。玲乃にそんな特別な存在がいるとは思わなかった。
女の子、だろうか。胃のあたりがもやもやする。かなりボリュームがあったのに、玲乃はあっという間に定食を食べてしまった。私も急いでうどんを食べると、玲乃は駅まで私を送ってくれた。
「次会うのは来週のミーティングか。じゃあな」
そう言って玲乃はにっこりしてから、初夏の夜の雑踏に紛れこみそうになった。
「あ、あのっ」
でも、私がそう声をかけると振り返ってきた。
「私、今度ごはん作りにいっていい?」
「え」
「食材とかは私が自分で持ってく。玲乃くん、その、もっとちゃんと食べたほうがいいし」
「……でも」
「玲乃くん……に、何かしたいの。好きだから」
玲乃はびっくりしたように目を開いた。私自身も、自然とこぼれた自分の言葉に驚いた。
好き。そうなのか。私は、玲乃が好きなのか。
「小冬さん、なら……俺じゃなくてもよくない?」
「そんなことない。私は玲乃くんがいい」
「……そっか」
玲乃はつぶやいたあと、照れたように私に微笑んだ。
「絶対、俺の片想いだと思ってた」
「えっ?」
「小冬さん、いつもミーティングで俺の隣に座るし。そりゃ意識してくるだろ」
私はまばたきをして、ささやかなアピールが玲乃に通じていたことに泣きそうになった。
玲乃は私の前に来ると、「じゃあ、俺たち、つきあおうか」と私の髪を撫でた。私はこくこくとうなずいた。玲乃は優しく咲って、「じゃあ、とりあえず連絡先交換しとこう」とスマホを取り出した。私も慌ててスマホを取り出し、連絡先をつないだ。
「じゃあ、今度デートでもしような」
玲乃は言い残し、今度こそ人混みに紛れていった。
デート。私はスマホを握りしめて、玲乃の「彼女」になれたことをほてった空気の中で突っ立ってじわりと実感した。
それから、私と玲乃のつきあいが始まった。約束通り、玲乃の部屋におもむいて料理を作ったりもした。荒れた部屋ではなかったものの、代わりに生活感が希薄な部屋だった。「手料理とか初めてかもしれねえ」と玲乃はおいしそうに食べてくれる。そしてお腹いっぱいになると、床に転がってうとうとする。
私は洗い物をして、ゴミを出すだけにまとめておく。玲乃のまくらもとに座ると、その柔らかな髪を梳く。玲乃はしばらくそのまま私に頭を愛撫されているけれど、ふと身を起こして、「キスとかしていいの?」と訊いてきた。私は一瞬とまどったものの、こくりとした。すると玲乃は私の長い髪を撫でながら抱き寄せてきて、そっと唇を重ねた。
その感触に、頭の中にあの光景が瞬いた。吐き気がせりあげ、思わず顔を伏せてしまう。「小冬」と心配そうに呼ばれて、「ごめん」と私は無理やり咲った。
でも、玲乃はそういう笑顔をすぐに見抜く。「嫌だったかな」と視線を下げる玲乃に、「違うの」と私はその胸にしがみついた。
「ただ、その──あんまり、慣れてなくて」
嘘つき。嘘ばっかり。私はキスなんてもう数えきれないほど経験している。幼い頃から教わってきた。キスだけじゃない。その先だって。最後まで知っている。
それ以降も、玲乃とはかろうじてキスはできるようになっても、それ以上は進めなかった。どうしても嫌悪感がぬぐえない。
セックスは嫌いだ。あんなの、好きな人とすることじゃない。玲乃が好きだからできない。私にはセックスは愛情表現じゃない。あんなこと、ただの陵辱だ。
玲乃と別れて、電車を乗り継いで帰宅する。玄関に父の靴があるのを確認して、気分がどっと滅入る。でも、書斎に「ただいま」と言いにいかないと、あとで部屋に忍びこまれるだけだ。私はいったん部屋に荷物を置くと、父の書斎のドアをノックした。「小冬です」と言い添えると、「入りなさい」と聞こえたのでドアを開ける。
書斎には、本とCDとDVDが壁一面に並んでいる。ここで創作された世界に没頭するのが父の憩いの時間だ。
PCに向かっていた父は、私を振り返って「脱ぎなさい」と言った。「はい」と私は父と目を合わせないようにしながら、黒いブラウスのボタンをはずして、黒と白のタータンチェックのスカートもウエストを緩めて床にぱさりと落とす。
紫の下着だけになると、父のかたわらに歩み寄る。父は私を膝に座らせ、軆をまさぐってくる。うなじに歯を立て、胸を痛いぐらいに揉んでから、ウエストから内腿をたどり、ショーツの上から入口に触れる。嫌悪感がどんなに芽吹いても、唇を噛んで耐える。父の勃起がお尻に当たって、私は立ち上がってつくえに手をつかされた。父は後ろから私を犯す。
私はふと玲乃を思い出して、知られたくない、と強く思った。こんな私、知られたくない。こんなに汚れた私、彼だけには──
母は私と父の関係を知っている。父とセックスレスの母は、父の欲望が私に向かってくれて楽だと思っているようだ。だから、私が中学生のとき妊娠しても、淡々と堕胎手続きをした。そして、子供を堕ろして以降は、父の命令で私が学生のあいだは代わりにピルを購入してきて、私に飲ませていた。
今は私は自分で購入して飲んでいる。父のことは嫌悪している。でも、エコーで見たお腹の赤ちゃんを殺すことには、なぜか涙が出た。確かに息づいているその子は、すでに命を抱いていたから。再びあのひとつの命を絶つ経験はしたくなくて、ピルで父の子供を妊娠することは何としても防いでいる。
玲乃には何も打ち明けないまま、セックスまでは進まない関係が続いた。初夏につきあいはじめて、もうじきクリスマスだ。クリスマスはやっぱり、さすがに、したほうがいいのだろうか。でも、途中で錯乱したり、泣いたりして、まるで玲乃を嫌悪しているような反応を起こしてしまうかもしれない。
夏が終わる頃から、私はSNSで知り合った男と寝て「練習」を始めた。そう、初めは玲乃を受け入れるための「練習」だった。でも、どうでもいい、興味のない男とのセックスは気持ちよかった。
ちゃんと、最後までできる。軆の中に射精されると、蓄積した父の毒素が薄められるような気さえした。このまま、もっともっと男と寝たら、私は綺麗になって玲乃とできるかもしれない。そう思い、私はいっそう見知らぬ男と軆を重ねた。
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