満たされるより虚しく【3】
「つきあってるよ」
「……別れたら、俺も小冬さんのために彼女とは別れるかもしれないけど」
「そんなことしなくていいよ。彼女を大事にしたいんでしょ」
「でも、俺、」
「私と中葉くんがつきあうことはないと思うし」
中葉くんは泣きそうな瞳で私を見つめた。それからうつむき、「小冬さんってむごい」とつぶやいた。
私はくすりとして、「中葉くんが大人になったらつきあうなんて嘘のほうがむごいでしょ」と開いた参考書をつくえに置き、「ここからだよね」とペンを手にした。中葉くんは私の解説をぼんやり聞いて、「ここの問題を解いてみて」と設問をしめすとノートに向かいはじめた。
結局、中葉くんとは何もできなかったから、私はそのあとSNSを通して知り合いになっていた男に会った。愛のない行為が軆に染みついた毒を落としていく。事が終わって男がシャワーを浴びているあいだ、服を着てスマホを見ると、玲乃からメッセが届いていた。
『小冬の誕生日はどっか行こうか。
クリスマスは、俺の部屋でゆっくりケーキとチキンかなと思うし。
行きたいとこあれば教えて。
なければ俺が考えとく。』
行きたいところ。クリスマスをまったり過ごすなら、イルミネーションでも観ておけたらいいだろうか。どうせ泊まれないし、せめてロマンティックな光景を観たい。そんな返事を送信していると、「冬子ちゃん」と呼ばれて振り返る。結婚もして三十を過ぎたところだという彼は、これから家庭に帰宅するのか、きっちりスーツすがたに戻っている。私はスマホをバッグにしまうと、「出ましょうか」と笑みを作った。
私の返信を受けた玲乃は、ちょうど週末だった私の誕生日に電車で遠出をして、有名なクリスマスイルミネーションに連れていってくれた。夜の街並みにきらびやかに青い光が灯り、聖なる星が行列になっているみたいだった。通りにはけっこう人混みがあって、「近くのルミネでもよかったのに」と私が咲うと、「俺も観たかったからいいんだよ」と玲乃はスマホで写真を撮る。
帰りの混雑した電車で「週末なのに泊まれなくてごめんね」と謝ると、玲乃はちょっと複雑そうに微笑み、「クリスマスも帰るんだよな」と確認してきた。私がこくんとすると、「そっか」とつぶやいたのち、「まあ、花衣とケーキの残りでも食っとくか」と玲乃は苦笑いした。
「花衣……さんは、つきあってた人にはもう会ってない?」
「傷とか痣とかできてないし、ちゃんと会ってないと思う」
「そう。よかったね」
「ほんとだよ。次はまともな彼氏作ってほしいわ」
「きちんとした人なら応援する?」
「そりゃあな」
「寂しくない?」
「何でだよ」と玲乃は噴き出し、私は玲乃とつないでいる手の感触を意識する。玲乃と別れたら彼女と別れる、と中葉くんは言っていた。私とつきあう可能性に賭けるために。私はそれをばっさり斬って、むごいと言われたけれど、本当は中葉くんの気持ちが分かる。
彼氏と別れた花衣さん。玲乃は、その花衣さんのそばにいるために、私を捨てることはないだろうか。キス以上は結ばれようとしない恋人なんて、男には重荷だろう。ただでさえ、玲乃にとって花衣さんは「大切な人」に変わりなくて──
私は玲乃の肩に顔を伏せた。つないだ手にぎゅっと力もこめる。玲乃が好き。好きだから、できない。あんな気持ち悪いこと、どうして好きな人としなくてはならないの。そう思っていることを、そしてその理由を、せめて話したほうがいいのだろうか。事情さえ知ってもらえば、玲乃は私を捨てない気がする。
クリスマスイヴは、ちょうど終業式になっている中学校もあれば、もう冬休みになっている中学校もある。中葉くんの通うところは私立だからすでに冬休みだったけども、クリスマスイヴとクリスマス当日は親御さんがお休みを申請していたので、私も自由だった。父の仕事納めも二十九日で、昼間に書斎に束縛されることもない。夜に帰ればいいから、私は午前中から玲乃の部屋を訪ねた。
出迎えてもらった玲乃の部屋に、やはり両親が帰宅する気配はなかった。「ゆっくりしていいから」と言いつつ、玲乃の表情はかすかに傷ついている。私はあんな両親は早く死んでほしいと思っていても、玲乃にとって両親は一番そばにいてほしい存在なのかもしれない。
ふたりで買い物に出て、昼下がりから一緒にじっくりと料理を作った。いちごと白いクリームで飾るケーキも、香ばしいローストチキンも、失敗せずに作ることができた。外では夕暮れも終わった頃、「小冬の家では毎年こうやって作るのか?」と玲乃に訊かれて、生クリームを用意する私はどきんとしながらも、「父が手作りを食べたいって言うから」と答える。「そっか」と洗い物をする玲乃は優しく微笑した。
「俺、小冬の親父さんには嫌われそうだなあ」
「えっ、何で」
「絶対に自慢の娘じゃん。俺なんか虫だろー」
「そんな、ことは……」
「でも、いつかは挨拶できたらいいな」
私は玲乃を見上げた。まばたきした拍子に、なぜか涙がこぼれてしまった。玲乃が驚いて目を見開き、「あっ」と慌てたように継ぎ足す。
「ごめん、その、プロポーズじゃない──って言うのもあれだけど、プロポーズのときはもっとちゃんと言うぞ? だから、」
「……玲乃」
「うん?」
「いい、の」
「え」
「挨拶なんて、しなくていい」
「えっ」
「あんな……人、親じゃないから」
玲乃が洗い物の手を止め、私を見つめる。ケーキスポンジが冷めてきたのを確認していた私は、喉につっかえるものを何とか吐き出そうとした。
そう、話せばいい。分かってくれる。玲乃なら一緒に受け止めてくれる。そして、私を助け出してくれる──
思い切って、言葉にしようとした瞬間だった。あのときの息遣いが聞こえた気がした。その生温かさまで思い出した。思わず総毛立って、ひどい冷や汗が浮かんで息が苦しくなってしまう。
がくんと床に膝をつき、ついで息が吸えなくなって小刻みに吐き出すばかりになる。どんどん脳内が酸欠して、白くなって、あの光景が脳裏に連射されて混乱してくる。
「小冬」と名前を呼ばれてびくんとすくんだ私は、肩に手を置かれると短い悲鳴を上げた。
「やめてっ、私──」
そう声が出た瞬間、酸素がどっと喉に流れこんで激しく咳きこんだ。いつのまにか涙があふれて、意識も霞みがかっていたけれど、「ごめん」という声にはっとして顔を上げた。そこにいたのは、父ではなく玲乃で、明らかに表情を蒼ざめさせている。
「その──無理に話すことねえからさ。大丈夫だよ。俺も、その……親の話は小冬にきちんとできてないしな」
一気に入ってきた酸素で、みぞおちが痛い。私はぱっくりした目でうなだれ、手の中でつぶれた生クリームを絞り出すふくろを見つめた。生クリームがはみだして、黒いスカートを汚している。
言えない、と思った。それを見て私は、まるで精液に穢されたようだなんて連想する卑しい女なのだ。
「これ、洗わないといけないな。俺の服貸すよ」
私の視線の先に触れ、玲乃もスカートに落ちた生クリームを見る。
「……拭けばいいよ」
「でも」
「いいの。それより、ごめんね。生クリームまた買ってこないと」
「別にクリームなくても──」
「ちゃんとしたの、食べてほしいから。待ってて、私買ってくる」
「だいぶ暗くなってきてるぞ。一緒に行こうか」
「平気。玲乃はリビングに料理用意してて」
「何かあればすぐスマホにかけろよ」
「うん。ありがとう」
私は立ち上がり、玲乃に断って湿らせた布巾で、スカートに飛んだ生クリームをぬぐいとった。甘い香りが思ったより残ったけれど、男の子の服を借りて着たまま帰ることができない。時刻は十八時になろうとしていて、生クリームなんて残ってるかなあと少し心配だったものの、「すぐ戻るから」と玲乃に言い置いて私はバックを持って部屋を出た。
近くにあったコンビニを一応覗いたけれど、生クリームは置いていなかった。クリスマスケーキさえ売れ残っていない。仕方なく駅前に出て、昼間に玲乃と来たスーパーを見にいった。するとさいわい何個か残っていて、私はそれを取って素早くレジを抜けると、急いで玲乃の部屋に戻った。
鍵は借りていなかったのでドアフォンを鳴らすと、中で話し声が聞こえた。え、ととまどっているとドアが開き、玲乃が顔を出す。とっさに沓脱を見ると、女物のショートブーツがあった。
「ごめん、ちょっと花衣が来て」
ばつの悪そうな玲乃の顔を見て、「何か、あったの?」と私はぎこちなく訊いてみる。
「例の彼氏──つか元彼が、番号変えて電話かけてきたらしいんだ。そいつが今から会いたいとか言ってて。部屋に来る前に、ここに逃げてきたって」
「そう、なんだ……」
「悪いけど、今夜は花衣も一緒でいいかな。悪い奴じゃないし」
「……でも」
「ほら、小冬も女の子いたほうが安心だろ? 俺、クリスマスに我慢できるか分かんなかったしさ」
そう言った玲乃の哀しそうな笑みが、私の中で緩やかに絶望に変わった。
ああ、何か、今、感じた。この人は、私に「女」を求めるのをやめた。
それは、私にとって気が楽になることのはずなのに、ぐさりと心が傷つく。だって、そんなの、もう「恋人」じゃない──
部屋に上がると、ケーキを仕上げる前に、リビングで小さく膝を抱えていた花衣さんに挨拶した。花衣さんは申し訳なさそうに私に謝ってくれたけど、何でこんな日に限って玲乃に頼るの、と秘かにいらいらしてしまった。
花衣さんは以前見かけたときと違い、手当てされている怪我もなくなっていた。なのに、やっぱりどこか被害者のような顔をしている。
玲乃は花衣さんのかたわらにしゃがみ、「ここにいていいから」とその肩をとんとんとする。
「あいつ、俺の家は知らないだろ。大丈夫だよ」
「でも、私の家の前でまたきっと怒鳴るよ」
「そのときは音楽でも聴いとけ。ヘッドホン貸してやるし」
「……うん。ありがとう」
「とりあえず、飯食おうぜ。クリスマスなんだし」
「私、もらっていいの?」
「小冬が帰ったら、お前と残り食う予定だったしな」
「残りって」
「残りでもさ、ケーキもチキンもあるクリスマスとか、お前も初じゃね?」
「……ん。初めて」
「よしっ。じゃあ、俺と小冬で用意するから、お前は友達とメッセでもしてろ」
玲乃は花衣さんの頭をぽんぽんとして、突っ立っている私の元に歩み寄ってきた。「生クリームあった?」と訊かれ、「うん」と答えながら、私は玲乃はキッチンに向かう。花衣さんを振り返ると、言われた通りにスマホを取り出している。
「……かわいい人」
「えっ?」
「ううん。何か、妹っぽい人だね」
「あいつのが小冬の一個上だぞ。俺とタメだし」
「そうなんだ。でも、玲乃には妹みたいなものじゃない?」
「うーん、そうかもな」
「ほっとけないね」
「ほんと、あいつとは一生腐れ縁かもなー」
でも、嬉しそうだよ、玲乃。花衣さんが頼ってくれて嬉しそう。花衣さんのことを話すときは、いつだって玲乃の表情には心がこもっている。
この人の心には、結局、初めからあの人がいたのかもしれない。私が玲乃を受け入れなかったんじゃない。受け入れてもらえていなかったのは私のほうだ。だから玲乃は、私を求めることも、知ることもしようとしなかった。
スカートにこびりついた生クリームの匂いが鼻につく。それはあの白濁の臭いじゃないのに、私の胸にひどい吐き気を催させた。
【第十六章へ】
