ミチカケループ-16

闇にうつろう【1】

 年が明けて、三度目の大学受験が迫っていた。さすがに四度目の受験を受ける資金の余裕もないので、今年こそ受からなくてはならない。
 予備校に通いつめつつ、それでも家庭教師のバイトも続けている。学校に行けない、行きたくない子たちも、俺には懐いてくれて勉強を頑張ってくれるのが嬉しい。
「先生、大学受かっちゃったら、もううちに来なくなるの?」
 そんな心配をする子には、「生活費のために来るから大丈夫だよ」なんて言って、安堵してもらっている。実際、受かったら受かったで生活費も学費もあるから、バイトは辞められない。家庭教師のバイトは割もいいし、どんな春を迎えても続けるつもりだった。
 その日も夕方まで生徒に勉強を教えていて、それから二十二時過ぎまで予備校で自分の勉強に励んだ。
 帰宅するのは、いつも二十三時をまわる。食事を用意して待ってくれている家族はいない。昔から。だから何も食わないか、コンビニのできあいで済まして、シャワーを浴びてリビングにふとんを敷いて倒れこむ。
 充電につないでいたスマホを手繰り寄せると、彼女の小冬に『おやすみ』のメッセを送る。小冬は返事をくれるときもあれば、既読をつけるだけのときもある。既読さえつかないことはあんまりない。俺はあくびをして、ふとんにもぐりながら今年になってからまだデートしてないなあと思う。クリスマスイヴに、この部屋で過ごしたのが最後か。
 あのときは、幼なじみの花衣を部屋にかくまってしまって、悪かったと思っている。しかし、小冬が二十一時くらいに帰っていって、その後やっぱりDV元彼が花衣の家を訪ねてきて、ドアをたたきつづけていた。「クリスマスくらい一緒に過ごそう」とか「俺はまだ花衣が好きなんだよ」とか、言いたいこともそのまま怒鳴っていた。
 花衣にはヘッドホンを貸して音楽を聴かせていたものの、それでも彼女は硬直して瞳の色を途切れさせていた。俺はその肩を抱いて「大丈夫だから」とささやいていた。彼氏は零時ぐらいにやっと帰っていって、ほっとした花衣は泣き出していた。やっぱりあいつのことは警察に相談しておいたほうがいいんじゃないかと言うと、怨まれるのが怖いと花衣は言っていたっけ。
 それでも、小冬には謝らないといけないのだろう。クリスマスイヴの時間に、異性の幼なじみを引きこむなんて無神経だったと思う。でも──どうせ、ふたりきりじゃないといけないなんてこともなかったんだろ、ともちらりと思ってしまう。
 俺と小冬は、つきあいはじめて春で一年になる。基準とかはよく分からないが、それでもまだ軆を重ねたことがないのは遅すぎる気がする。
 小冬のことは好きだ。告られたときはめちゃくちゃ嬉しかった。絶対に片想いだと思っていたし。それでも、ここまでキス以上のことは拒まれていると、不安にもなってくる。やっぱり俺だけの一方通行なのかなと思う。
 何より、小冬が俺以外の男とは寝ているのを知っている。どういう知り合いとしているのかは分からないが、相手はひとりではない。俺のことは拒否するのに、不特定多数の男なら受け入れるのが理解できない。なぜ、よりよって彼氏の俺だけは拒むのだ。
 そんなに、セックスに固執したいわけではないけれど。ただ、小冬が受け入れてくれないのも、打ち明けてくれないのも、俺を焦れさせている。
 朝は暖房をケチっている寒さのせいで、ふとんを出るのがつらい。頭がぼんやりしているうちは、無意識にふとんに包まって縮まってしまう。それでも、目が覚めてくるとスマホで時刻を確かめ、やば、とはっとして起き出す。
 冷水で顔を洗ってひげを剃って、いろいろ朝の支度をしてから家を出る。持っていくものはスマホと財布ぐらいだから、バッグやリュックでなくポケットで済ます。
 あくびをしながら、駅前の家庭教師の派遣事務所に向かう。空はよく晴れているのに、空気も風もきんと冷たく、息が淡く色づいた。日向を選んで歩いても、あんまり温もりは感じない。
 周りはアパートの群衆の中、前方に見憶えのある背中を見つけた。「花衣」と声をかけてみると、その背中は立ち止まって振り返ってくる。
「玲乃」
 俺の名前を呼んでまばたきした花衣の隣に、「はよ」と言いながら並ぶ。「おはよう」と答える花衣に、もう痛々しい暴力の痕はない。髪もいつのまにかセミロングぐらいになった。
「大学?」
「うん。玲乃はバイト?」
「少し事務所で予習して、生徒の家行く」
 花衣は軽く笑って、「先生が予習するの?」と言ってくる。
「するよ。中学の勉強なんて、ぼやけてきてるじゃん」
「そうかなあ」
「何だよ、三平方の定理とか説明できんのかよ」
「あー、無理だ」
「教えてるの今三人だけど、ひとり受験生だからなー。その子が高校で周りに追いつけるように俺も必死だわ」
「学校の先生になっちゃえばいいのに」と花衣はバッグを肩にかけなおし、「嫌だよ」と俺は眉を顰める。
「怖いじゃん、今の学生」
「じゃあ、今年も獣医学部目指すんだ」
「何かひとつ、しっかりした資格取っておきたいしな」
「受かるといいね」
「受かったら、そこから六年だよなあ。遠方に受かったら、引っ越さないといけないんだよな」
「遠くの大学、受けるの?」
「獣医学科は併願が基本だしな。いいなと思ったとこは受けといたほうがいい」
「……そうなんだ」
「家庭教師の生徒には大学受かってもバイト辞めないとか言っちまってんだよな。だから近場で受かりたいのが正直なとこだけど」
 俺が苦笑いすると、「私も」と花衣は視線を下げたまま言う。
「玲乃がいなくなったら、ひとりだなあ」
 俺は花衣を向き、「大学の友達は」と訊いてみる。
「ん、まあ。朋里は病院に付き添ってくれるし、聖緒も元気になってきたけど。ずっとそばにいたのは玲乃だし、いなくなったら、何かあったときに逃げこむとこもなくなる」
「俺は花衣のそばにいたほうがいい?」
 花衣は俺を見た。俺も花衣を見る。「そういう変な意味じゃないけど」と花衣は言って、「分かってるわ」と俺はふんと鼻で笑う。
「ま、何とか頑張るよ。けど、どのみちあの部屋は出ていきたいんだよな」
「それは私も思う」
「シェアして暮らす?」
「そこは玲乃は、小冬さんと同棲でしょ」
「あー、まあ。そうなのかな……」
「別れたの?」
「いや。……微妙だけどな」
 花衣は首をかたむけて俺を見つめる。次第に人通りが出て、朝のざわめきが聞こえてくる。アパートの群れを抜けると、もう少しで駅だ。
「玲乃にはもったいない美人だったね、小冬さん」
「よく分かってるよ」
「でもあの人、ちゃんと玲乃が好きだと思う」
「そうかー?」
「イヴのとき、静かに怒ってたから」
「え、さらっとしてなかった?」
「けっこう真顔になってたよ」
「マジか……やっぱ、怒ってるから会ってくれないのかなあ」
「え、会ってないの」
「お互い都合つかなくて。あのイヴが最後なんだよ」
「ダメじゃない、それ。ちゃんと連絡して、強引にでも会わないと」
「強引ってうざくない……?」
「多少強引にされないと、小冬さんも不安でしょ」
「そんなもんかなあ」
 俺は頭を掻いて、イヴのことで怒らせてるなら、俺が歩み寄るべきだなと感じる。夜、通話をかけてみるか。それを言うと、「頑張って」と花衣は俺の背中をたたき、それから彼女は駅の改札の方へ、俺は事務所のあるビル街へと別れた。
 花衣は俺には忌憚なく意見を言ったり、正直な物言いをしてくれる。ずうっと、花衣も俺と同じく話相手の大人がいなくて想いを言葉にいるのが苦手なのに、一生懸命励ましてくれる。それはすごくありがたかった。
 彼氏と別れる、と花衣がようやく決断したときはほっとした。大学の友達がいろいろ世話をしてくれたらしい。俺は何もできなかったぶん、もうあの男が花衣に手を出せないようにしたいとは思っている。
 花衣は今も心療内科にかかっているが、そこの先生に認められたことで、元彼に依存していた理由も確信したそうだ。稀に帰宅した親がゆいいつ自分にしてくれたことが、殴ることだった。だから、暴力を振るわれることが「存在する自分」の証明だった。
 俺の親は帰ってきても俺のことは無視だったし、暴力はなかったから「そんなもんなのか」と言ったら、花衣はうなずいて「構ってくれるだけでも嬉しかったんだと思う」とつぶやいた。

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