ミチカケループ-18

闇にうつろう【3】

「あー、うん。小冬に会ってた」
「そうなんだ。デート?」
「一応。初詣も兼ねて」
「もう一月下旬だよ」
「まだ行ってなかったからいいんだよ」
「イヴのこと謝った?」
「え、いや。話題に出なかった」
「絶対怒ってるじゃん」
「電話ではそんなことないみたいに言ってたけど」
「電話は顔見えないでしょ」
 俺は沈黙し、いったんスプーンを置いてお茶を飲む。甘みのある緑茶だ。
「怒ってるから、ダメだったのかな」
「え」
「何か……これ、初めて誰かに相談するんだけどさ。お前ならいいかと思うし」
「うん」
「俺、小冬と寝たことないんだ」
「えっ。つきあって長いよね?」
「うん……。小冬が、いつも俺のこと拒否するんだよな」
「玲乃はしたいの?」
「そりゃしたいだろ。ついでに言うと、俺はまだ童貞だぞ」
「そ、そうなんだ」
「でもさ、小冬は違う……っぽい」
「それは、あんなに美人なら彼氏いたこともあるでしょ」
「というか、俺以外とはしてる……気配が、する」
「玲乃以外って、浮気されてるの?」
「浮気なのかも分からないけど、俺以外の奴とはしてるみたいなんだよな。俺だけ拒まれてる感じ」
「何で?」
「知らねえわ。でも、もし心当たりがあるとしたら」
 俺はクリスマスイヴの小冬のことを語った。花衣が来る前、ケーキを飾る生クリームを用意しながら、小冬は何か言おうとしていた。言おうとして緊張するあまり、過呼吸を起こしていた。言いかけていた言葉は、「あんな人は親じゃない」──だった。
 花衣はお茶をこくりと飲んで、「小冬さん、何か事情がある人なのかな」とつぶやく。
「何かあるんだろうな。ぜんぜん分かんねえけど」
「訊いてみないの?」
「あんなに錯乱してたんだぞ。訊けるかよ」
「そっか……」
「打ち明けてくれたら、できる限り受け止めたいんだけどさ。それが理由で俺を受け入れないなら、まあ納得するし。でも、あれは話してくれないだろうな」
「じゃあ、どうするの?」
「やっぱ……別れるとか考えるだろ」
「別れる」
「俺が求めるのが小冬には苦痛なら、離れてやるしかねえし」
「だけど」
「分かってるよ、させないから別れるとか、一方的だよな。でも……俺だけなのかなって思うじゃん。小冬は俺のことそんなに好きじゃないから、できないだけだったら? だとしたら、つきあってるのきついよ」
 花衣は高菜ピラフを口にふくみ、むずかしそうな顔でもぐもぐする。俺もスプーンを口に運ぶ。
 また沈黙して食事が続き、俺も花衣も食べ終わってしまうと、「今日ここ泊まっていい?」と俺は花衣に訊いた。花衣は皿を重ねながら、「構わないけど」と俺を見つめる。「別に何もしないし」と言い添えると、「何もさせないし」と花衣は言い返し、俺は少しだけ咲った。
 そのあと俺が食器を洗って、風呂は自分の部屋で入ってきてから、スマホの充電器とかを持って花衣の部屋に戻った。花衣は課題を再開し、俺も予備校での授業を復習した。
 ふたりとも勉強に没頭して、そんなに口はきかなかったけど、不思議と空気は心地いい。ふとん以外で暖を取らない俺の部屋と違い、ストーブがあるのもだいぶ指先や軆をほぐしてくれた。
 気づくと、零時が近くなっていた。小冬に「おやすみ」のメッセをしようか迷い、今日はやめておくことにする。課題にキリをつけた花衣もスマホを見て、「あれから元彼は何にもないか」と気にかけると、「うん、大丈夫」と花衣は何やら送信する文章を入力していた。
 勉強道具を片づけると、花衣はいったん浴室に入っていった。さすがに同じふとんでは寝ないので、普段押し入れに入っている毛布を貸してもらった。ちょっとカビ臭いそれをかぶって床に転がり、スマホには小冬からも何も来ていないのを確認する。
 小冬と別れる。それは、じわじわと意識しはじめていたことだった。小冬にとっても、俺という存在は何でもないどころか、重荷なのではないか。軆を受け入れられない。心を打ち明けられない。
 そんな俺は本当に小冬にとって彼氏なのか? なまじ小冬から告ったから、それにほだされて別れを切り出せないだけではないか? ほかの男のほうは小冬を開かせるなら、俺など身を引くべきではないのか?
 小冬のことは好きだけど、好きだからこそ、自分が彼女を閉塞させているのなら自由にしてやりたいと思う。
 そのうち花衣が戻ってきて、「ほんとに床で眠るの?」と乾かしてふわりとした髪に手櫛を通しながら言ってくる。「それしかないだろ」と俺があくびを噛むと、「仕方ないなあ」と花衣は敷きぶとんを半分に寄せる。「何」と眉を寄せると、「スペース半分貸す」と花衣は空いた場所をぱんぱんとはたいた。
「え……えー」
「私に手出しはしないでしょ」
「しないけど。いいのかよ」
「昔は一緒に寝てたじゃない」
「そうだけど」
「どうせ、寂しくて家にも帰らないんでしょ。じゃあ、そばにいるよ」
 俺は花衣を見つめてから、何だか妙にもじもじとしてしまったものの、彼女の言葉に納得せざるを得なかったので敷きぶとんのスペースへと這った。晴れた日には干しているふとんなのか、けっこうふかふかしている。「さすがに掛けぶとんには入れないから」と花衣は言い、「分かってるよ」と俺は毛布も引きずり入れる。花衣は寝支度を済ますと、赤く灯るストーブをふとんから少し離し、明かりを消してふとんにもぐりこんだ。
 おなじふとんに包まってはいなくても、それでも花衣の髪の匂いや軆の気配が近い。昔はこれに手までつないで寝てたっけなあ、とか思う。
 そこまで近くて、なぜ俺は花衣を好きになったりしなかったのだろう。花衣を好きになっていたら、そしてもしつきあっていたら、お互い、もっと幸せだったのではないだろうか。花衣がDV野郎とつきあうことだってなかったし、俺もとっくに童貞を捨てていたかも。
 花衣を好きになっていればよかった。たぶん、もう遅いけど。
「玲乃」
「んー?」
「私……ね」
「うん」
「……何というか、」
「何だよ」
「………」
「何?」
「……何でもない」
「っそ。いつか話せよ」
「うん……あのね」
「ん」
「玲乃には何があっても嫌われたくないな」
「何年幼なじみだよ。いまさら嫌いにならねえよ」
「私も、玲乃のことずっと、いつも好きだよ」
「おう」
「嫌いにならないでね」
 俺は手を伸ばして、ふとんから覗いている花衣の頭をくしゃくしゃと撫でた。「ありがとう」と花衣は軽く咲って、「おやすみ」とささやく。「おやすみ」と俺も答えた。
 敷きぶとんとストーブのおかげで、毛布でもずいぶん軆がぬくぬくしてきた。まくらはないので自分の腕に頭を乗せ、やがてうとうとしてきた。花衣の寝息をぼんやり聴きはじめたすぐあとに、俺も深い眠りに落ちていた。
 それからしばらく、入試関連でばたばたした。バレンタインにも小冬には会わなかった。短い二月はすぐに過ぎ去り、三月、俺は三浪せずについに隣県の大学の獣医学科に受かった。
 通学時間をかなりかければ、即座に転居しなくていい場所だったので、家庭教師のバイトも続けられそうだ。バイトである程度金が貯まったら、やはり引っ越しはしようと思うけれど。そう思ったとき、俺は自然と花衣を置いていけないなあと思い、同時に小冬と同棲というのは考えられないと心が決まった。
 入学手続きの合間に小冬にひと月以上久しぶりに会った。小冬の最寄り駅の近くの適当なカフェで向かい合った。やっぱり黒い服を着た彼女は、「いらないかもしれないけど」と俺にチョコレートを持ってきてくれていた。
 添えられたその言葉に苦笑いして、気づかれてるんだなと思った。「ごめん」と俺が言うと、「私も悪かったと思うから」と小冬はぽつりと言った。「その事情は俺には話せないんだよな」と問うと、小冬はしばらく考えて、やはりこくんとうなずいた。
「でも、玲乃が信頼できないとかじゃない。好きだから、……知られたくないの」
「………、俺のこと、好きではいてくれたんだな」
「好きよ。今だって、嫌いになったわけじゃない」
「俺も小冬のことすごく好きだったよ」
「玲乃は過去系?」
「……そうでもないけど。もうつきあえないとは思うから」
「そう」
「でも、俺が小冬を苦しめてたんじゃないならよかった」
「つきあえて幸せだった」
「そっか。ありがとう。俺も幸せだったと思う」
 俺はチョコレートの箱を手に取って、「最後にこれはもらうよ」と言った。小冬は少し泣きそうにしながらうなずき、「私もありがとう」と声を震わせた。
 俺は黙って熱いコーヒーを飲み、小冬もカフェラテをゆっくり飲んだ。そしてカップが空になると、「じゃあ」と一緒に席を立って、店の前で別れた。何の確認もしなかったけど、もう連絡は取り合わないまま、自然とお互いをアプリから削除するのだろうと思った。
 フリーになっちまったなあ、と背伸びをしながら歩き出して、とりあえず相談に乗ってくれていた花衣に報告しとかないとなと思った。今は春休みで家にいるはずだ。
 地元に戻るため駅に向かうと、桜がもうすぐほころびそうな蕾をたくさんつけていた。重かった空色も青くやわらいで、陽射しも暖かくなってきた。風はまだちょっとひんやりしているのが、逆に凛として心地よい。昼間でわずかに空いている電車で地元に戻ると、まっすぐアパートに帰った。
 自分の家で小冬がくれたチョコレートを味わって食べてから、花衣の家を訪ねることにした。また晩飯一緒食おうかな、とか思いつつ階段をのぼり、二階の廊下に出る。そして花衣の家のドアを見やって、はっと息を竦めた。
 見憶えのある男がいた。大柄な肩、耳たぶのピアス、茶色の短髪。そいつがただ部屋の前に立っているなら、すぐに花衣に連絡して、今は家を出るなと警告するところだけど。花衣の家のドアには隙間ができていて、花衣が顔を覗かせて男に応対している。その表情は、怯えるどころか、あのどうかしたみたいな陶酔を浮かべている。
 突然、花衣が俺に嫌いにならないでと言っていた夜がよみがえった。何があっても嫌われたくないと。何だろうとは感じても、深く考えなかったが、あのとき花衣は何か言いかけてもいた。
 何があっても嫌わない?
 もしあの男とまたつながったとしても?
 それでも俺は、花衣を──
「……大丈夫。また会ってることは、みんなには秘密にしておけばいいから」
 花衣のそんな言葉が、闇にうつろっていくような意識と感覚の中、やけに遠く聞こえた気がした。

 FIN

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