僕のことを話そう

 新聞部だと名乗った先輩が、私に「君のインタビュー記事を書きたい」と廊下で話しかけてきたときは、何の冗談かと思った。
 私はこの高校で、特別な生徒でも有名な生徒でもない。ただひとつ、みんなと違うとすれば、クラスメイトの一部に疎まれてイジメみたいなことをされている。すると先輩は、「そのことだよ」と私の隣から正面にまわった。
「つらいことを全部僕に話してみて、記事で告発しない?」
 告発。何を言い出すのか。
 私は困惑をあらわにし、「ええと」とどう断ろうかと思った。だって、告発なんて。そんなことをしたら、もっとひどいことをされる。
 先輩は眼鏡の奥から私を覗きこんで、「このままじゃ何も変わらないよ」と真剣な瞳で言った。
「君の『助けて』って気持ちを、僕がみんなに伝える。きっと君の状況を変えてみせる」
 先輩を見つめた。揶揄っている色はない。本気で私を救い出そうとしているの? 「何で」とかぼそく訊いてしまうと、「君のことを無視したくないんだ」と先輩は言った。
「将来、そういう記者にもなりたい。みんなが無視してる真実も伝える記者」
 私は睫毛を伏せた。そうなりたいのは、立派だけど。何も私をネタにしなくても。
 イジメられているのはこの学校で私たったひとりでもないはずだ。別の人に頼めばいい。断られると思うけど。
「ごめんなさい」とつぶやいて、すれちがおうとした。すると、「待って」と先輩は私に折りたたんだメモを渡してくる。
「じゃあ、これ。耐えられなくなったら、ここに来て。待ってるから」
 もう一度、先輩を見上げた。「ひとりで泣かなくてもいいからね」と私の瞳を優しく見つめた先輩は、その場を離れていった。
 ひとりで、泣かなくても。
 私はゆっくりメモを開いた。高校最寄りから少し下る駅の地図、そして喫茶店の名前が記してあった。先輩の連絡先も。久城くじょう龍海たつみ。私は息をついて、とりあえずそのメモは制服のスカートのポケットにしまった。
 予鈴が鳴り、急いで一年四組の教室に帰る。
 五時間目、窓の向こうの秋晴れを眺めながら、久城先輩のことを考えていた。
 耐えられなくなったら。もう、とっくに私は耐えられない。つくえに『死ね』『キモイ』と書かれて、教科書をカッターでずたずたにされて、上履きなんてすでに二回も新しく買い直して。
 私はそこまでされる何かをしたのだろうか。分からない。何で私なのか分からない。でも、私に決まってしまったから、この教室のゴミ箱は私なのだ。
 いまさら、それを覆すなんて。みんなに反抗するのが怖い。もっとひどいことをされるのが怖い。
 なのに私は、さんざん逡巡した挙句、例の喫茶店を訪ねてしまった。だって、私の心の傷みに目を留めてくれたのは、久城先輩が初めてだったから。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの中の男の人が、からんと響いたドアベルで振り返り、私に微笑む。
 テーブル席はみっつしかない、かなり小さな喫茶店だった。十月、店内にはもうクーラーがきいているということはない。コーヒーの匂いと煙草の匂いが混ざって、アコースティックな洋楽がかかって、何となく常連向けの大人っぽい雰囲気だ。
 きょろきょろしなくても、久城先輩のすがたがないのはすぐ分かった。
「待ち合わせですか?」
 カウンターの男の人が、私の所作を見取ってすぐにそう気遣ってくれる。待ち合わせ、になるのだろうか。別に、いつもここにいると言われたわけではない。「え……と」と困ってしまったけれど、入口に突っ立って悩むのも邪魔かと気づき、私はカウンターに近づいた。
 男の人は、いわゆるマスターなのだろうか。ほかの店員は見当たらない。まだ二十代後半くらいだけど、高校生の私にはずっと大人に見えた。
 男の人は少し首をかたむけ、「その制服」とつぶやいた。
「えっ、あ──すみません、高校生は、ダメですか」
「いえ、大歓迎ですよ。すみません、従弟がその高校に通ってるんです」
「いとこ……」
「よくここにも来るんですけどね」
 私は少し考えてから、「もしかして、久城先輩ですか」と尋ねてみた。男の人の目に驚きが走り、「知ってるんですか」と訊き返してくる。知り合い、というほどでもないけれど、一応こくんとして「ここで待ってる……みたいに言われて」とぎこちなく説明する。
「もしかして、龍海の彼女ですか?」
 ぱちぱちまばたきながら男の人が言って、私はびっくりして今度はかぶりを振る。
「えと、何か……新聞部のお手伝いがあるというか」
「ああ、なるほど。じゃあ、まずは席にどうぞ」
 私はうなずいて、テーブル席はどのみち空いていないので、カウンターのスツールに腰かけた。
「ご注文は? 龍海につけておきますよ」
「えっ、いえ。大丈夫です、けど……」
 コーヒーは苦くて飲めないんだよなあ、と思いながらラミネートされたメニューを手に取ると、カフェオレがあったのでそれにしておいた。すると、男の人──久城先輩の従兄のおにいさんは、コーヒーを作るところから用意しはじめた。
 私は先輩にもらったメモをまた広げて、連絡先を登録してから、ここに来ているというメッセを送ってみた。思ったよりすぐ既読がついて、しばらく間があってから、『今から行く!』というメッセが返ってきた。
 これですれちがいにならずにすむことにほっとしていると、まもなくおにいさんがカウンターから出てきて、私の手元に香りのよい湯気を立てるカップを置いてくれた。
「ありがとう、ございます」
「いえいえ。ゆっくりしていってください」
 おにいさんはテーブルのお客さんのお冷やを見てまわってから、カウンターの中に戻った。私はカフェオレに口をつけて、思ったよりまろやかで飲みやすい味にほっとした。
 そういえば、おかあさんにも遅くなるって伝えておかないと。ふと気づいて、スマホをまたかばんから取り出したりしていると、からからっ、とちょっと騒々しいドアベルと共に入口の扉が開いた。
 そちらを見ると、そこには息を切らして、どうやら走ってきた久城先輩がいて──目が合った私に、先輩は柔らかく微笑んでくれた。
 それから、私はときどき、久城先輩と放課後にその喫茶店で過ごすようになった。先輩は私を取材したいと話しかけてきたけれど、詮索するような質問攻めにはしなかった。ただ、私が誰にも言えなかった吐き出したいことを、そのまま聞いてくれた。
 私が泣きそうになるほどみんな笑うこと。先生は取り合ってくれないこと。家族には黙っていること。図書室の百科事典のコーナーは人がめったに来ないから、いつもそこで泣いていること──は言おうかどうか迷ったら、「言いたくないことはいいんだよ」と先輩は制してくれた。
 でも、初めて逢った日に先輩に言われた「ひとりで泣かなくてもいい」が気になって、口にしてみた。すると先輩はうなずき、「それは知ってる」とやはりそう答えた。
「記事を書くために辞典を探しに行ったとき、君がそこで泣いてたから」
「それで、私に取材しようって思ったんですか」
「うん。ごめんね、いろいろ話させるのはつらいって分かってたけど」
「いえ。先輩は、嫌な聞き方じゃないので」
「そっか。よかった、そう言ってもらえるとほっとする」
「私のことを記事にするとか、ほかの部員さんとか顧問の先生はいいって言ってるんですか?」
「新聞部員は、最低でも一回は自分でやりたい取材をして、記事にするのが決まりなんだ。内容は校則違反じゃなきゃ自由で、よほどじゃなければ僕が決めたことなら大丈夫」
「よほど……じゃ、ないでしょうか」
「載せられないって言われたら、辞めるつもりだから」
「えっ。そ、それは──だって、記者になるのも夢なんですよね」
「うん。だから、僕がひとりでペーパーにする。揉み消しなんてさせない」
 先輩の眼鏡越しのまっすぐなまなざしに、「強いですね」と私はぽつりと言った。先輩は小さく笑って、「負けたくないだけだよ」と言った。
 負けたくない。私も──負けたくない。勝ちたいわけでもないけど。ただ、ひとりで泣くのはもう嫌だった。
 やがて、学校でも先輩と話をするようになった。冬が空気に染みこんできて、先輩はいよいよ記事を書きはじめた。先輩と校門をくぐった放課後、突然、前方を同じ制服の数人が塞いできた。
 その人たちを認めて、私はびくんとすくんでしまう。私をいつもイジメてくるクラスメイトのグループだった。最近は先輩のところに逃げこんで、何かされることは減っていたけど──先輩もすぐに、彼らが何なのか分かったみたいだった。
 乱暴に私の腕をつかもうとした男の子の手を、先輩が鋭くはらいのけた。そして私を見て、「いつものとこ」とだけ言った。とまどってしまうと、「いいから」と先輩は続けた。
 逃げろということ? 先輩ひとりを置いて? こんな、何をするか分からない人たちのところに?
 何とか小さく首を横に振ると、「すぐ追いつく」と先輩は私の肩を押した。構えていなかった私は前のめって、胸の中に濃霧が発生するのを感じながらも、そのまま歩き出して駆け出した。
 何度か、振り返った。私を追いかけようとした人を先輩が引き止めている。
 不安が心を冒して呼吸を濁らせる。どうしよう。ほんとにいいの? 先輩がひどいことをされてもいいの? でも、私に……何ができるの?
 下校ラッシュが始まった電車に乗ると、膝が震えてきた。涙を何とかこらえて、喫茶店の駅で降りるとおにいさんのところに駆けこんだ。
 飛びこんできた私がいきなり泣き出したので、おにいさんは驚きながらも空いていたテーブル席に案内してくれた。私は先輩のことを話した。私が受けるイジメのことは、たぶんおにいさんも聞きかじって知っていると思った。
 おにいさんはすぐ学校に電話を入れてくれて、何やら非常事態だと察した常連のお客さんは、気を利かせて店をあとにした。おかげで営業を閉じることができたおにいさんは、私にカフェオレを淹れてから自分もお店を出ていった。私は息を引き攣らせながら、ただそこで待っていた。
 ずいぶん、ひとりぼっちだった。小さな喫茶店なのに、やけに広く感じられていた。喉を通らないカフェオレは、すっかり冷めてしまった。
 不意にからんとドアベルが鳴って振り返ると、おにいさんと、おにいさんに肩を抱かれて支えられている先輩だった。
「先輩──」
 がたんと立ち上がって、私は先輩に駆け寄る。先輩は私を見ると、弱くだったけれど、微笑んだ。私はまた涙をぽろぽろ落として、先輩に頭を下げて謝った。
 情けなかった。私を助けようとしてくれた先輩を、私は助けなかった。逃げてしまった。何度も何度も、すりきれそうに「ごめんなさい」と言っていると、先輩は私の頭に手を置いた。
「僕も謝らなきゃいけない」
「えっ」
「あの子たち、僕の記事のことを、自分たちを悪者にしたでたらめを書いてるって先生たちに言っちゃって」
「………、」
「だから、僕の嫌がらせを止めたくて話しかけただけだったって」
「そんな……」
「ごめん。今からじゃ何を書いても、僕があの子たちをイジメてることにしかならない」
 私は先輩を見つめた。私より、先輩のほうがずっとつらそうだった。
 そんな先輩に何も言えずにいると、「この子をそんなに助けたいって思うのは、睦海むつみのためでもあるんだろ」とふとおにいさんが言った。私はおにいさんに目を移した。
「睦海……さん?」
 おにいさんは静かにうなずき、「龍海の姉だよ」と急に表情をこわばらせていた先輩を見た。
「四年前、自殺したんだ」
「えっ──」
「原因はイジメだった」
 先輩の顔がゆがみ、泣きそうになる。
 イジメ。おねえさん。自殺。
「学校が揉み消して、ニュースにもならなかったけどね」
 おにいさんのその言葉で、やっと先輩が私を救おうとしてくれた理由がはっきり分かった。
 代わりだった、なんてもちろん思わない。ただ、先輩は繰り返したくなかったのだ。正しいと思うことをしたかったのだ。捻じ曲げられる前に、声を上げたかったのだ。なのに──
「無責任に聞こえるかもしれないけど、今の学校に行くの、辞めたらどうかな」
 私はおにいさんを再び見上げた。
「あの高校に、龍海がそんなことするわけがないって俺が言っても、聞いてくれる先生はいなかったよ。恋人の君が気に入らないって言うから、嫌がらせする気だったんだろうなんて言う先生もいた。このまま通っても、つらいだけじゃないかな?」
「……でも、高卒、とか」
「別の高校に行けばいい。君には、せっかく進んだ高校かもしれないけど」
「………、」
「すぐ別の高校を決められないなら、ここに来るといい。これでも教職取ってるから、勉強は教えてあげられるよ」
 私はうつむいた。しばらく考えていた。けれど、心はゆらゆらかたむいていき、最後には小さくうなずいていた。
 それから先輩を見て、「先輩も一緒に逃げませんか」と言った。先輩は思い設けなかったのか目をみはったけれど、おにいさんに肩をぽんとたたかれ、決意したようにこくりとした。その答えに私が思わず咲ってしまうと、「初めて咲った」と先輩もやっと咲って、私の頭をくしゃくしゃに撫でてくれた。
 それから、私はようやく家族に事情を話して、いったん高校を辞めることを許してもらえた。先輩の両親も、おねえさんのこともあるだけにすぐに理解してくれたそうだ。私は喫茶店に通って、おにいさんに勉強を教えてもらったり、全日制だけでなく通信制の高校もあることを教えてもらったりした。先輩も勉強しつつ、何やらタブレットを持ちこんで何かを書いていた。「何書いてるんですか?」と訊いてみると、「ほんとのこと」とだけ先輩は答えた。
『僕のことを話そう』。先輩が開設した、そんなブログに綴ったすべては、その後、一気に拡散されていわゆるバズを引き起こす。
 喫茶店には、取材やインタビューの申し込みだけでなく、私と同じようにイジメを受ける子が訪ねてくるようになった。大学生になった先輩は、その子たちのことも丁寧なブログ記事にして、ついに記者としてハンティングされた。
 その隣で精神科の勉強をしていた私は、つらい告白をしたあとの子たちの心をケアをするようになり、今、お腹に温かな幸せを宿して、大好きな先輩と共に生きている。

 FIN

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