僕の遺書が届くまで

「死にたい」と「消えたい」は違う。本当に自殺してしまうのは消えたい奴だ。死にたいという奴は、むしろ最期まで生き残る。死にたい奴は消えることは怖いのだ。だから「死にたい」と発することでこの世に残ろうとする。
 僕が小学生で引きこもりになって数年経つけど、そのあいだに世の中は便利になった。携帯からPC、スマホ──そして、このWi-Fi。
 母親が、頼むから高校には入学してくれと言うから、僕は今、通信制の高校に在学している。ぜんぜん勉強なんかしていないし、スクーリングなんてとんでもないけれど、入学式には出たご褒美にノートPCを買ってもらった。
 でも部屋に人が入るのに嫌悪感のある僕は、二年くらいネットにつなぐことができなかった。それがついに、こんな小さな箱さえあればネットにつながるようになった。
 メールボックスを開き、“新着メールなし”にちょっと落ちこむ。まあ、粘着されるよりいいか。粘着は気持ち悪い。僕のサイトや書いたものが気に入らないなら閲覧しなければいいのに。
 次にサイトのアクセス数をチェックして、昨日より落ちたなと舌打ちする。ちょっと前までランキングに登録していたが、エロサイトばかりでうんざりして、僕のサイトはほとんど新規客の来ない常連客だけの無援サイトになった。
 更新してないもんなあ、とブラウザを閉じる。しかし、更新していないといっても三日くらいだ。三日更新しないだけでアクセスは簡単に落ちる。何か新作書くか、とWordを立ち上げ、今どうだろ、と自分の気分を目を伏せて感じ取る。
 病院で診断をもらったわけではないから、断言はしない。けれど、僕は鬱と呼ばれる感じの状態に襲われるときがある。あの感じは何だろう。ベッドに重たく軆が沈み、ふとんから頭を出すことも、寝返りを打つこともできなくなる。喉から胃、肺に黒い靄が垂れこめ、食欲も失せてトイレすら行けない。
 頭の中が腐って、浅い眠りについても悪夢を彷徨い、それが夢か現実かさえ判断がつかない。時間だけが過ぎて、何時間も何日も虚ろに横たわり、ただこの状態から逃げるために消えたいと思う。
 蒼白いPCの画面を見つめ、“しにたい”と打ちこんでみる。この気持ちは普段から持っていて、だからこそ僕は書く。
 僕は死んだら何も残らない。僕の存在には証拠がない。憶えていてくれる友達もいない。恋人もいない。親は先に死ぬだろう。
 死ねば僕は生まれてきたことを削除されるのだ。こうして、デリートキーで消せる打ちこんだ文字のように。
 唇を噛みしめ、耳を澄ましていた心が恐怖に腫れあがった拍子に、白かった画面をすごい勢いで文字で埋めはじめた。
 僕はこう思っている。僕はこう感じている。こんなことを考えているし、こんなことをしたいと望んでいる。僕は今、確かにここにいる──
 そんな、消えたくない絶叫をたたきつけ、急いで、いつ本当に死んでもいいように、自分が存在していることを文章として残していく。
 そうしたら、いつのまにかそれが小説っぽくなっている。テーマはイジメ、虐待、登校拒否や引きこもりとかで、「死にたい」という悲鳴がつまっている。恋愛モノや感動モノは書けない。大したオチはないし、文法や語彙だって我流だ。
 とてもじゃないけど売り物になる作品ではない。でも僕はこうして自分の気持ちを文章として吐き出すことによって、個人的なセラピーをしていると思っている。
 鬱になると、当然書けなくなる。物を書くことは僕には呼吸そのものだ。鬱は僕から消えたくないという衝動を奪い、精神も肉体も黒く蝕んで「消えたい」と思わせる。
 あの想いは本当に恐ろしいと思う。僕はこんなに消えたくないと思っている。だからいつも必死に書いている。なのに、どうして消えたいと思ってしまうのだろう。自分が嫌いで、生きていきたくなくて、現実が怖くて怖くて。このまま生きていたって、何だというのだろう。そんな光のない息苦しい絶望感は瞳をゆがませて、とても死を魅力的に見せる。
 さいわい、僕は今は鬱じゃないようだ。だって、書ける。書くことがある。一気に『了』まで打ちこむと、息をついて椅子の背凭れに体重をかけて、緩やかに感覚を取り戻した。
 すずめが鳴いている。朝か、と雨戸もカーテンも閉めた窓をちらりとして、クーラーに冷えきった部屋に気づいて温度を上げる。
 お腹すいたな、と思っても、朝なら両親が起きているので、共働きのふたりがいなくなるまで部屋は出られない。特に眠気はなく、これをUPしたら二日くらいはアクセスを保てるだろうと書いたものに目を通す。すぐにはUPしない。さすがに推敲くらいはする。一日くらい寝かせたらチェックしよう、と保存したときだった。
 開いたままにしていたメールボックスに、“受信中”と表示されていた。
 そう、僕には書きたいことがある。伝えたい声がある。届いてほしい心がある。それは、産声のように稚拙なものだけど、確かに僕の命の息づきなのだ。
 だから、こういうメールが来ると、こんな情けない生活の僕でも、泣けてくるほど生きていてよかった、そして生きていきたいと思える。
『初めまして。
 小説、読ませてもらいました。
 主人公の気持ちが、すごく伝わってきました──

 FIN

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