心をめくれば

 清冽な青い空、葉擦れとその匂い、今日もここは優しい。あいつに教えてもらった秘密の場所。昔、あいつの居場所だったここは、今は僕の居場所で、微睡むように記憶をまぶたの裏に流しこんでくれる。
 ──昨日テレビで、イジメで自殺した小学生の女の子のニュースが流れていた。
 僕もイジメられて学校に行けなくなり、児童相談所で仮通学をしているけれど、その報道されたニュースには正直ヒイた。トイレの床を舐めさせる、クラスのペットである金魚を飼う水槽の水を飲ませる、教師や保護者を見事に味方につけておいて居場所を失くさせ、最終的には自殺させる。
 僕がされていたことなんて、せいぜい無視や陰口で、ぜんぜんイジメられてたことにならないかも、と思った。でもやっぱり学校怖い、とその日も相談所に行ったら、知らない顔が増えていた。
 小学五年生の僕と同い年くらいの男だった。つくえに頬杖をついて、やたらため息を繰り返し、頬や腕、あちこちをガーゼで手当てされている。
 この児童相談所はイジメられた子供だけ集まるわけではない。勉強に追いつけなくて、クラスを足を引っ張るからと押しつけられた児童もいる。
 でも、彼はガーゼから見るに、その類ではなさそうだ。イジメかな、と例のニュースがまだ忘れられない僕は、リュックをおろして窓に近い席に座った。
 この児童相談所に来るのは、小学生高学年あたりから中学生ぐらいまでの生徒で、男が多い。たまに女の子が来ても、男ばかりでなじめず、すぐ来なくなる。
 勉強ができずに流れてきた奴らは、けっこう仲良くやっていて、狭い校庭でバスケをやったりと楽しそうだ。僕はどちらかというとそういうのには混じらず、勉強か読書をしている。
 勉強は先生よりも、近くの大学で児童福祉の勉強をしていて、ボランティアでやってくる神谷かみやさんという女の人に教えてもらうことが多い。神谷さんには僕も心を開いていて、いろいろ話もできた。神谷さんも僕を気にかけて、休んだりすると心配してくれる。正直、神谷さんがいなかったら、僕もこの相談所に通っていられたか危うい。
 初夏の風がさわやかなその日も、神谷さんまだかな、と教科書をめくっていた。教室のドアが開いて、ぱっと顔を上げると、Tシャツにジーンズ、長い黒髪を後ろでひとつに縛った神谷さんが教室に入ってきた。
じゅんくん、おはよう」と神谷さんは微笑んできて、僕はぺこりと頭を下げる。けれど、今日は神谷さんは僕の席に直行せず、廊下をかえりみた。すると、僕はあんまり接したことのない、年配の男の先生が続いてきて、「彼なんですが」と神谷さんに例のガーゼ少年をしめした。
 神谷さんはわずかに表情を緊張させつつも、「初めまして」と柔らかく少年に話しかけた。少年はちらりと神谷さんに目をくれたあと、「どうも」と小さな声で答えた。
 答えがあったことにほっとしたのか、神谷さんは緊張をやわらげ、まず、といった感じで彼に自己紹介を始めた。それをぽかんと眺めていると、いつのまにか男の先生が僕のかたわらにいた。
「君と同い年の子だよ」
「……はあ」
「名前は速水はやみあきらくん」
「イジメ、ですか」
「ん、いや──」
 言葉を濁した先生を見上げたとき、バスケばっかりやっている中学生連中がやってきた。それで十人にも満たない生徒が揃い、ホームルームが始まる。
 中学生連中も、速水という新顔をちらちらと盗み見ている。速水は気にせず、ぼんやりしていた。神谷さんが音を殺して僕の隣にやってきて、「ごめんね」と抑えた声で椅子に座った。僕はかぶりを振る。
「先生に、あの子の相談にも乗ってやってほしいって頼まれちゃって。私にできるかな」
「先生は、イジメじゃないって」
「うん、まあ──複雑は複雑みたいだね」
「………、神谷さん、昨日のニュース観た?」
「ニュース? うん、まあ……」
「またアニメ観てたの?」
「はいはい、アニメ観てました」
 ホームルーム中ということも忘れて、笑いそうになる。
 神谷さんはけっこうヲタクで、アニメや声優に詳しかったりする。一度部屋を写真で見せてもらったけど、グッズやポスター、漫画がすごかった。
「何、ニュースで気になることあったの?」
「小学生の女子が、イジメで自殺したって」
「あ、それなら私も知ってる。朝、テレビで観たよ。ひどいね」
「うん。僕……何か、恥ずかしくなった」
「恥ずかしい?」
「あんなにひどいイジメもあるのに、僕なんか……」
 神谷さんは僕を見つめたあと、優しく微笑んで頭を撫でてくれた。
「咲って過ごせない場所に、比較なんてないの」
 僕は神谷さんを見上げると、化粧っ気がなくても整っている神谷さんの瞳に、こくんとした。神谷さんは僕の頭をくしゃっとして手をおろす。
 そのとき、先生が「今日から一週間、ここの仲間です」と速水を教壇に招いた。
「一週間?」
 まばたきして神谷さんを向くと、神谷さんは黙ってうなずいて、うながされた位置に立った速水を見る。
「どうも……速水彰です。バカなのでここに来ました。一週間だけだけど、よろしくお願いします」
「おいおい、バカってことはないだろう」
「だって、俺、高いところが好きだから」
 中学生連中がそれで爆笑して、「よろしくなっ」と声をかけた。あんがい、僕より処世術があるみたいだ。神谷さんもなごんだ雰囲気にほっとしたようで、席に戻る速水を見守る。
 僕ばっかり浮いたらやだな、とうつむいていると、「潤くん」と神谷さんが僕を覗きこんできた。
「大丈夫?」
「……ちょっと、つらい」
「つらい」
「僕は、誰かをあんなふうに笑わせたりできない。何で僕は、人をいらいらさせることしかできないんだろう」
「そんなことない。私は潤くんといると楽しいよ。こないだ遠足来なかったでしょ? ほーんと、寂しかったんだから」
「ほんと?」
「うん。私も勉強中でまだまだだから、潤くんみたいな子をしっかり受け止めてあげられてないけど。潤くんがこうして話してくれるだけで、すごく嬉しいんだよ」
 神谷さんはまっすぐに咲って、僕は少しだけ心にかかった雲を晴らすことができた。
 いつのまにかホームルームは終わって、中学生連中は飽きもせずバスケをやるようだ。僕のことは絶対誘わないのに、ひとりが速水に声をかけた。でも、速水は首を振った。
 中学生連中がいなくなると、「ちょっと待っててね」と神谷さんは速水のほうに歩みよっていった。
「バスケ、やらないの?」
「ん、まあ。ルール知らないし」
「あの子たちなら教えてくれるよ」
「………、傷が、痛いから」
「あっ──」
 しまった、と神谷さんはばつを悪くして、「ごめんなさい」と速水に謝った。速水は首をかたむけたあと、「平気だよ」と言った。そして、なぜかこちらを振り向いてきて、ばちっと目が合ってしまって僕はびくんとする。
「あいつも、バスケしないの」
「本を読んだりしてるほうが好きなんだって」
「どんな本?」
「うーん。じゃあ、それは本人に訊こうか」
 速水は僕を見て、うなずいて立ち上がり、本気でこちらに近寄ってきた。え、とか思って硬直していると、速水は僕の目の前にやってきた。
「俺、速水彰」
「……秋津あきつじゅんです」
「あの、神谷って人が本読むって言ってたけど」
「小説だから、つまらないかも」
「どんな小説?」
「いろいろ……佐々木ささきしょう先生が一番好きで……あ、今持ってる。ちょっと待って」
 僕は落ち着かない所作でリュックを取り出し、佐々木先生の新刊を取り出した。受け取った速水は、なぜか驚いた表情をする。
「何?」
「いや、名前の字が一緒だから」
「え。えと──」
「俺はこの字でアキラっていうんだ。この人は、ショウって読むんだな」
「ああ、うん。めずらしいけど、本名らしいよ」
「そうなんだ。へえ」
 速水はぱらぱらと本をめくり、神谷さんも戻ってきてさっきと同じ、僕の隣の席に座る。
「ふふ、仲良くなれそう?」
 僕は一瞬どう答えるべきか迷ったけど、速水はすぐにうなずいて笑みを見せた。その笑顔に神谷さんは嬉しそうにして、僕はどうすればいいのか目を伏せてしまう。すると、「こら」と神谷さんにひたいを軽くはじかれ、顔を上げる。
「そんなんじゃ、友達になれないぞ」
「友達……」
「潤くんもね、いろいろあった子なの。彰くん、分かってあげて」
「うん。じゃあ、まずは潤って呼んでいい?」
「あ、うん。僕は、彰?」
「おう」
「彰……」
 誰かの名前を呼び捨てにするなんて初めてだ。何だかそわついても、このくすぐったさが嬉しくなってくる。
 友達。イジメられた僕が、何より欲しかった存在だ。「嬉しい」と照れ咲いしながら素直に言うと、彰は笑った。
「俺も。友達って初めてだ」
「僕も」
「うー、そこに神谷も入れてほしいなー」
「ダメ。潤は俺のもんだもん」
「えーっ、そうなの? 私、寂しいじゃない」
「か、神谷さんも入れてあげようよ。神谷さん、すっごいヲタクで話おもしろいんだよ」
「潤くん、フォローになってない」
 そう言って首を垂れた神谷さんに慌てる僕に、彰は噴き出した。そんなやりとりをしているうちに、ぎくしゃくした感じはなくなっていた。
 やがて、彰は僕の前の席に椅子に座り、僕が着いている席のつくえに頬杖をついて、佐々木先生の本を読みはじめた。僕は勉強を始めて、神谷さんに手伝ってもらいながら算数の問題を解く。それを見た彰は、「潤は学校戻るのか?」と訊いてくる。
「ん、いや……予定はないけど」
「そっか。俺は来週には、学校に行かされるんだよな」
「ほんとに一週間しかいないの」
「うん。引っ越すんだ」
「そう、なんだ……」
 せっかく、仲良く話せたのに。たった一週間だけの友達なんて、寂しい。そんな僕の心を察したのか、神谷さんは僕の頭をぽんぽんとする。
「彰くん、引っ越したら、ちゃんと潤くんに手紙書いてあげるんだよ」
「ははっ。俺、字汚いけど、潤が読んでくれるなら書く」
「じゃ、じゃあ、僕も書くよ。僕も、字、下手だけど」
「中学生くらいになったら、きっとケータイ買ってもらえるから。そしたら、メールも電話もできるよ。だから大丈夫。ね」
 神谷さんは僕に微笑み、僕もこくんとした。彰もそれに咲うと、また本を読みはじめた。
 正直なところ、僕には児童相談所もそこまで楽しいと言える場所ではなかった。神谷さんが心配するから。そんなちっぽけな理由で、何とか通っていた。
 でも、翌日は相談所に行くのが楽しみだった。相談所は、バスを乗り継いで坂道をのぼっていく途中にある。最寄りのバス停で降りて、しばらく坂道をのぼり、相談所の教室に到着する。
 真っ先に彰のすがたを捜した。すると、彰も僕のすがたに笑顔になり、「潤!」と大きく手を振ってくれた。
 次の日も、その次の日も、彰は相談所で僕を待っていてくれた。それが当たり前になっていった。だから、一週間なんて僕たちには一瞬だった。明日には遠くに引っ越すという日、神谷さんが席を外した隙に、彰は僕にひそめた声をかけた。
「潤って、バスでここに来てるんだよな」
「うん」
「じゃあ、明日はここに来る前に、バス停で待っててくれないか」
「え、いいけど」
「見せたいもんがあるんだ」
 彰を見つめた。彰はにっとして、あのまま貸している佐々木先生の本を開いた。半分は過ぎていても、まだ読み終わりそうにない。
 神谷さんも戻ってきて、僕は漢字の書き取りに目を落とした。
 見せたいもの。何だろう。そう思ったけど、おとなしくその日は当たり障りなく過ごした。
 翌朝は、彰との約束通り、相談所に行くことなくバス停に突っ立っていた。雲のない五月の空は、ビー玉のように透明で青い。
 遅くなると神谷さんに心配かけちゃうな、ときょろきょろしていると、「潤!」と声がして振り返った。相談所があるほうから、彰が坂を駆け下りてきている。
「彰」
「ごめんごめん。時間訊くの忘れたから、いつも来る時間ぐらいかなと思って。待ったか」
「大丈夫。あの、えと」
「今日、相談所もサボるつもりないからさ。早く行こうぜ」
「え、行くって」
「ここ離れる前に、行っておきたい場所があるんだ。そこを潤には教えたい」
 彰は軽快な足取りで坂をのぼりはじめ、「相談所の前はダッシュだぜ」と一度振り返ってにかっとした。僕はうなずきながらも、とまどいを隠せずに彰についていく。相談所の門の前は、誰かに見つかる前に走り抜け、それでもなお、坂は続いている。
 この坂を相談所までしか行ったことのなかった僕は、見知らぬ住宅街になってきた景色に、汗ばんでいく軆に比例して不安を覚えはじめる。彰の足取りが確かなことだけを頼りについていくと、ついには住宅街まで抜けて、高台に出た。
「ここだ」
 けっこう樹齢のありそうな樹が一本あり、生い茂った葉がゆらゆらと木漏れ日を波打たせている。彰はその樹に手をつくと、大きく息を吐いて、「よし」といきなり枝に飛びついて、器用にそのまま木登りを始めた。
「彰?」
 彰は僕を見下ろし、「潤も来いよ」と手をさしのべてくる。躊躇ったものの、何となく断れなくてその手をつかんだ。ぐいっと強く引っ張り上げられ、僕たちは葉っぱを縫ってその樹をのぼっていく。
 体育が苦手だった僕には、恐怖もあったけど、彰の真剣な顔を見ると、嫌だなんて言えなかった。だいぶ上までたどりつくと、彰は土から顔を出す発芽のように葉っぱのあいだから頭を伸ばし、僕もそうした。
 すると、そこでは風の中で澄んだ青空がめいっぱい広がっていて、ミニチュアの街並みがずうっと遠くまであった。
 朝の空気と、緑の匂いの中で、それはただ美しかった。表情も取り落としてその景色を見つめていると、「すごいだろ」と彰が言った。
「夜も綺麗なんだぜ。家の明かりとかが、星みたいで」
「そうなんだ……」
「ここはさ、俺の居場所だったんだ」
「え」
「母親に殴られるのが耐えられなくなったとき、ここに来て、ずっとこの景色を見てた」
 彰を見た。彰は遠い目を景色に放り投げている。
「かあさん、優しかったんだけどな。俺が五歳ぐらいで離婚して、新しい男ができたら変わっちまった」
「………」
「その男が『ガキは嫌いだ』って言うから、俺のせいで捨てられたらどうしようとか考えるようになって。その男と一緒に俺のこと殴る蹴るでさ。でも、春の身体測定で男子って上半身脱ぐだろ。傷とか痣で保健の先生に全部知られて、保護されたんだ」
 そういえばガーゼのなくなった彰の横顔を見つめる。頬がかすかに青黒いのに初めて気づいて、言葉を失くす。
「二週間くらい施設にいたら、ちょうど子供のいない親戚の夫婦に引き取られることになって。会ってみたら、優しそうだったから世話になることにした。で、学校の感じに慣れておくために、一週間だけあの相談所に行くことになったんだ」
 そこまで吐き出すと、彰はふうっと息をつき、うつむいたのち僕を向いた。
「ヒイた?」
「……ううん」
「そっか」
「僕……、僕には、理解なんて資格ないけど。つらい、のは分かる」
「うん」
「僕なんて、無視されて、ちょっと陰口たたかれたぐらいだけど。……イジメ、なのかな。それも分かんないくらいの、まあ、嫌がらせだったけど」
 何だか言うほど恥ずかしくなってうなだれると、彰はくすりと咲った。
「俺は、潤好きだよ」
「えっ」
「友達になれてよかった」
 さざなみのような葉擦れの中で、彰は優しく微笑んできた。その強さに、僕はなぜか泣きそうになった。だからいったん顔を伏せてしまったけど、誤解されたくなくて、すぐに彰を見つめ返した。
「僕も、彰に逢えてよかった」
 彰は咲った。僕も咲った。
 そんな僕たちを、かぐわしい緑と、心地よい風と、どこまでも透き通った青が包みこんでいる。それは、すごく、幸福なことだと思った。
「彰」
「ん」
「あの本、あげるよ」
「え」
「プレゼント思いつかなくて。そしたら、僕たちの一週間がつまってるあの本がいいかなって」
「いいのか」
「うん」
「昨日必死で読み終わったのに。いつでも読めるのか。いつでも……」
 彰は視線を青空に投げやって、僕もそうした。いつでも。そう、いつでも。僕たちは、そういう親友になろう。ページをめくればいつでも会える、本の中の登場人物のように。
 僕たちは、いつでも心にお互いを感じて、その青空みたいにまっさらな未来を、勇気で彩っていくんだ。

 FIN

error: