彼はかわいい

 小学四年生の夏休み、親の転勤でこの町に引っ越してきた。新しい学校には二学期から通い始め、別にイジメられるわけではないし、ちゃんと話しかけてくる子もいるのだけど、どうもあんまりなじめなくて、私はよく仮病で学校をサボった。
 そういうときは、放課後、近所のクラスメイトが今日配られたプリントなんかを持ってくるのだけど、私の家に一番近いのは村島むらしまくんという男の子だった。
 うちは共働きのひとりっこなので、チャイムが鳴ったら、私がプリントを受け取りに玄関に出る。庭を横切り、門扉を開けると、背負う黒いランドセルが大きく見える細身の男の子が、「あ、」と段差で私を見上げてくる。
「プリント、だけど。宿題とか」
「ありがとう」
「また、体調悪いの? 大丈夫?」
「うん。何とか」
 本当は、朝にあったような気がする胃の痛みももうない。また明日の朝になったら、吐き気がしたり、頭痛がしたり、あるのかもしれないけれど。
「でも、今日は休んでよかったかも」
「えっ」
「帰りの会、ずっと梅井うめいの説教だったし」
「誰か何かしたの?」
「掃除のとき、遊んでた奴が窓割ったんだ」
「……そりゃ怒られるね」
「そいつらだけ、居残りでしかればいいのに。クラスみんなのことだからって連帯責任」
「そういうとこあるよね、梅井先生」
「五年のクラス替えで、また梅井が担任になったらやだな」
 村島くんはいつもそんなふうに、今日教室であったことを一生懸命話してくれる。私が休んだことで翌日取り残されないように、と思ってくれているのかは分からなくても、実際連日サボれず教室におもむいても、私はそんなに話題で浮かない。
 必死にその日のことを伝えてくれる村島くんは、いい人だな、と思う。そして、何だかかわいい。
 冬休みが近づいてきた十二月、マフラーを巻いてダッフルコートを着こんだ私は、誰ともつるまずに校門をくぐり、すたすたと帰宅していた。
 学校が終わってもまた会って遊ぼうとか、誘われたらうまく断れないから、誘われる前に帰る。前の学校では、普通に放課後友達と遊んだりしていたけれど、今の学校でのクラスメイトをイコールで友達だと思えない。
 何かみんな押しが強いんだよなあ、と土地柄かもしれないことに息をつきながら、団地沿いの道を抜けていたときだった。
「あ、伊月いつきさんじゃん。伊月さーんっ」
 明らかに名前を呼ばれ、う、と思っても、さすがにこれを無視はできない。足を止めて声のした団地への道を見ると、見憶えのあるクラスの男子と女子がいた。
 彼らが囲んでいる人に、軽くまじろぐ。村島くんが男子に肩を組まれて、小さくなっている。
「ねえ、伊月さんさあ」
 話したことさえあんまりない女子が、なぜか嬉しそうな笑顔で、訝る私に声を張り上げる。
「こいつの好きな人、知ってる?」
「……はい?」
「だーかーらあ、村島の好きな人じゃん」
 村島くんを一瞥した。村島くんは頬を真っ赤にして泣きそうにしている。まあ、そうでなくても興味なんてないけれど。
「いえ、別に──」
 知らなくていいです、と言おうとしたら、そうは言わせまいと彼女はさらに大声で言った。
「伊月さんが好きなんだってよー?」
 そう、この町の人の、こういう感覚が嫌いなのだ。村島くんを囲む男子も女子も楽しそうに笑っていて、村島くんだけ顔を伏せて何かをこらえている。
 私は眉を寄せ、村島くんの好きな人、と心の中で繰り返した。好きな人が、私。そう──なのか、としか思わない。
 いや、多少どぎまぎするけれど、特に嬉しくないし、かといってそんなに迷惑でもない。私も、村島くんのことは嫌いではないけど、どう反応したらいいのだろう。
「ねえ、どう思うー? 嬉しいー?」
 村島くんの想いが、嫌だったわけではない。そんなことを大声で厚かましく聞いてくるその子が嫌だったのだけど、それを表わした私の顰め面にみんなげらげら笑った。
「すっげえ嫌な顔してるぞ」
「村島かわいそー」
「えー、伊月さんひどいなー」
 やってられない。私はみんなを無視することにして、家への道を歩き出した。「伊月さーん」とまだ彼らは呼び止めてくるけど、知ったことか。つかつか歩いていると、背後でひときわ大きな笑い声がして、「泣くなよー」とか聞こえた。
 団地沿いの道を抜けて、車道を横切ると一軒家の家並みが続く道に出る。その道に出てやっと歩調を緩め、改めて、さっきのことを考えた。
 村島くんは私が好き、なのか。知らなかった。知られたくなかったみたいだし。あれってイジメなのかなあ、と首をかしげる。
 あの人たちが村島くんを囲んで、無理やり聞き出したのは分かる。でも、無理やり言わされたのなら、「そんなのいない」が通用しなかった出任せかもしれない。あんなのに、本当に好きな人を言うとも思えない。
 じゃあ適当に言っただけか、と息をつき、そのため息で無意識に心臓がどきどきしてしまっていたことに気づく。何だかそれのほうがよっぽど恥ずかしくて、あんまり気にするな、と自分に言い聞かせた。私なんかを好きになる人がいるとも思えない。この町に来てから、学校ではすごく無愛想だし、なおさらだ。
 でも、と歩いてきた道を少しだけ振り返る。
 泣くなよ、ってことは、村島くん、泣いたんだな。それって、もしかすると、もしかして──いやいやいや、と慌てて頭を振り、思い上がるな、と前を向いた。
 翌日、学校に行っても、昨日のことを蒸し返して揶揄ってくる人はいなかった。けれど、私は何となく、村島くんのほうを見れなかった。
 話しかけられるわけではなくも、意識して村島くんの席のほうは見ない。視界に入りそうになると、さりげなく目をそらしてしまう。
 これじゃ逆に気になってるみたいだよ、と焦っても、好きな人、という単語がよぎって頬が熱くなってしまう。
 それから数日過ぎた朝、例によって学校嫌だなあと思って、その日はお腹が痛くなってきた。出勤時刻が近づいたおかあさんに、「じゃあ今日は休みなさい」とあきらめられて学校をサボることになると、お腹の痛みはさっそく引いていった。
 パジャマは着替えるか、と思っても、冬の朝なのでふとんから出るのが面倒だ。でも、また村島くんがプリント持ってくるだろうし、そのときパジャマのままなのは──そこまで思って、はっとした。
 村島くんが、プリントを持ってくる? そう、それを受け取るのはもちろん私だ。村島くんに会わなくてはならない。ふたりきりで。
 え。えーっ。嘘。ずっと避けてたのに。何でそこを考えなかったのだろう。のんきに学校をサボっている場合じゃない。
 さーっと蒼ざめる背筋に、どうしよう、と頭にふとんをかぶり、今度は本当に風邪でも引いたみたいに熱が出てくる。
 居留守。居留守を使うか。それで村島くんがポストにプリントを入れてくれたらいいのだけど。もし、再び訪ねてきて、仮におかあさんが受け取ったら、何でさっき出なかったのとか言われて。寝てた、と言おうか。仮にもお腹が痛いと言って休んだのだ。軆を休めていても辻褄は合う。
 でも、これからは? 私は今日を境に、安心して学校を休めなくなるの? あのずうずうしい人たちの教室に毎日のように通うの?
 ああ、死にたくなってきた。せめて転校にならなければよかった。おとうさんひとりでこっちに来たらよかったじゃん、と次々と飛び火していく責任転嫁にまくらに顔を埋め、昼までじわじわ殺されているような気分で泣きそうになっていた。
 昼を過ぎた頃、お腹空いた、とようやくベッドを出た私は、一階に降りて、おかあさんが用意していた朝食を電子レンジで温めて食べた。バタートースト。ベーコンエッグ。コンソメスープ。お腹を満たすと、普通がいいんだ、と思った。
 そう、何だか私、めちゃくちゃ気にしているけれど。普通にすればいい。村島くんが来ても、今まで通りありがとうとプリントを受け取って、適当に相槌を打って、何事もなく別れる。それでいいし、村島くんだってそれを望んでいる。そうだよね、と食器をシンクで水に浸すと、大丈夫、と深呼吸し、服は着替えておいて、放課後まで部屋で本を読んでいた。
 文字を目でたどり、ページをめくっていると、不意にチャイムが鳴った。どきっと顔を上げ、時計を見ると十五時半をまわっている。学校は終わっている時刻だし、きっと村島くんだ。それでも私は、上着を羽織って一階に降りると、念のためインターホンに出る。
「はい。伊月ですけど」
『あ、……村島です。プリント』
 そうだよね──……とちょっとだけ宅急便とかも期待したのをあきらめ、私は玄関から外に出た。青空からびゅうっと吹いた冷たい風を首をすくめ、寒い、と思いながら門扉まで出る。
 そこには村島くんがいて、目が合うと、何とも言えないぎこちなさが流れた。普通、と強く思いながら門扉を開けると、「これ」と村島くんはプリントがはさまったクリアファイルをさしだしてきた。「どうも」と私は声がうわずらないようにそれを受け取りつつ、冷気で指があっという間に凍えていくのを感じる。
「……あの」
「は、はい」
「寒い、な」
「そう──だね。うん」
「風邪?」
「ん、まあ、いつもの」
「……そっか」
 息苦しい。何の会話なのか分からない。いつもの、って何だろう私。いや確かに「いつもの」サボりだけど。心臓が腫れあがってきて、頭の中がかきまわされる。
「伊月──」
「あ、あのっ」
「え」
「……えと、軆冷やすと、また体調悪くなるから。ごめんね。今日は家戻るね」
「あ、うん。そうだな」
「あのね、もしまた私が学校休んで、プリントあったら、ポストに入れててもいいよ。冬でしょ。つらいときに外出ると、こじれたりとかあるんだ。だから、これからはそうして」
 混乱する頭のまま舌を転がし、一気にそう言った私は、がしゃんと門扉を閉めて「じゃっ」とさっさと家の中に逃げこんでしまった。振り返らなかったし、振り返れなかった。鼓動がせりあげていて止まらない。
 恥ずかしい。最悪。これはやってしまった。めちゃくちゃ不自然だった。でも、やっぱり、普通なんて無理だ。そんなの、むずかしすぎる。あの人が、もしかしたら私のこと「好き」なんて思うと、何か──頭が真っ白になる。
 けれど、次の日学校に行って村島くんが様子が変だったと問いつめてくることはなかったし、また学校を休んだときはクリアファイルはポストに入っていた。そのまま冬休みが始まり、三学期は私と村島くんは会話する機会もなかった。
 五年生に進級するときにはクラス替えがある。私は三組、村島くんは一組だった。クラス別れた、と思ったとき、胸の中にあの最後に村島くんと話した日のような風が抜けた気がした。その冷たさに、私もしかして村島くんが好きだったのかな、とようやく思った。遅すぎたけど、そう思った。
 五年生になって、私の登校日数は改善されていった。相変わらずクラスにはどぎつい人もいるけれど、中にはのんびりした人や変に群れない人もいて、そういう子たちと仲良くしているうちに、きちんと友達になっていった。
 私がいる三組は、わりと穏やかなクラスだったけれど、ぐるりと季節が巡ってクラス替えせずに進級した頃から、今年度の六年生は問題が多いという話をよく耳にした。それは主に一組のことで、イジメやら不登校やら非行やら、一組の教室は想像もつかないほどひどいらしかった。
 一組だったら不登校になってたかもな、とも思っていたある日、一組の生徒の男子数人が補導されたという話題がのぼってきた。
「補導って警察? 少年院?」
「逮捕はできねーだろ」
「小学生じゃなかったら逮捕だったの?」
 朝からそんな話が三組にも流れこんできて、「一組じゃなくてよかった」とうわさに興味のない私や友達もさすがに話していた。聞こえてくる話によると、夜にゲームセンターを徘徊し、それだけならまだしも、ポケットから他店で万引きしたものが見つかったらしい。「それってやっぱ、イジメやってる奴らなのかなあ」という声には、「一組ってイジメと不良、二種類いるから」と誰かが応じる。いろんな悪を突きつめてる一組怖い、と三組の面々がおののいていると、「はーい、おはようございまーす」と女の担任の先生が割りこんできて、同時にチャイムが鳴る。
「先生、一組って今どうしてるの?」
 そう訊いた男子を、先生は「そのことは六時間目に六年生だけで集会があるから、そのとき話しますー」とかわして出欠を取りはじめた。それでもまだ教室はざわついていて、「同じ六年でも、うちら関係ないのになあ」とか休み時間に私たちがため息をついていると、「伊月さん」とあんまり話さない違うグループの女子がかたまって突然声をかけてきた。
 以前よりは柔らかくなった私が「何?」と応えると、三人グループの彼女たちは「私たち、みんな四年のときも同じ四組だったんだけど」と目を交わしながら言う。
「伊月さんって、二組だったよね」
「うん。四年のとき引っ越してきた」
「じゃあ、村島って四年のときからそうだったの?」
「は……?」
「村島だよ。一組のボス」
「不良組のね」
「補導されたの、村島たちらしいよ」
「村島……くん?」
 え。何。不良? 補導された? 村島くんが? あの村島くん──
「待って、一組って村島がふたりいるの?」
「え、どうなんだろ」
「二組出身の村島って野中のなかたちは話してたよ」
「二組のこと分かんない」
「……いや、四年二組には村島はひとりだった。ごめん。村島くんが万引きとかやったの?」
「そうだよ。一組の不良はみんな村島が動かしてるらしいよ」
「髪とか茶髪だし、ピアスもしてるし」
「シンナーとかもやってそうだよね……」
 ひそひそと話す三人を見つめ、マジか、と私はとりあえず顔を伏せた。
 村島くんが不良になった? あの村島くんが? そういえば、クラスが変わってから、近所でも会うことがなくなった。私は学校に来るようになったし、もし本当に体調が悪くて休んでも、もっと家の近いクラスメイトがいるからその子がクリアファイルを持ってくる。
 茶髪。ピアス。知らない。ぜんぜん知らない。そんな村島くん、想像もつかない。
「分かん……ない。転校してきて、半年ぐらいでクラス替えだったから。話す機会もなかった。髪は黒かったと思うけど」
 何とかそう言うと、「そっかー」と言いながら彼女たちは去っていった。
 それでも、私はうつむいて村島くんのことを考えた。村島くんは、不良どころか、イジメられているほうではないかと思ったことはあったけど──「大丈夫?」と友達が心配そうに言ってきて、私は顔を上げて咲うとうなずいた。
 それからも、村島くんの良くないうわさはちらほらと耳に流れこんできた。中学生と喧嘩したとか。街でゆすりをやっていたとか。駐車場の車に落書きをしたとか。
 クラスが違うだけで、今どんなすがたをしているのかも確認できないけど、とにかく村島くんが荒れていることは伝わってきた。そして、小学校卒業が近づいてきた頃に、「村島の親、離婚したんだって」といううわさを最後に聞いた。
 春休み、受注していた紺のセーラー服が届いた。それを着たすがたを友達と見せあったりしているうち、桜がいっぱいに咲いて入学式の日が来た。
 配られたパンフレットでクラスを確かめると、私は七組だった。住宅地のこの町は小学校が多く、その小学校の卒業生が私立進学以外ならこの中学にやってくる。なので、クラスが十組まである。
 入学式のあと、担任の先生の引率で教室に向かう道順で、迷いそう、と思ってしまった。教室に到着して、私は出席番号二番、女子では一番だから教室に入ってすぐの席に着いた。つくえが高い、と違和感にそわそわしていると、クラスメイトが全員着席したのを確認して、担任の若い男の先生が快活そうに自己紹介した。
 そして先生は、「名前と出身校だけでいいから、挨拶だけしてもらうぞー」と、まずは最右列の出席番号一番の男の子をうながした。「ええー……」とその子は面倒そうに立ち上がったものの、先生に言われた通りの挨拶をして、「よろしく」と席に着いた。「そのまま後ろから」と先生が言ったので、まずは男子列が挨拶し、女子では私が一番初めに挨拶した。
 この新入生の数なので同じクラスとは言わないものの、同じ小学校の子がいるといいのだけど。そう思いながら新しいクラスメイトたちの声を聞いていて、挨拶が男子三列目に入ったとき、立ち上がった人を見て、あれ、と思った。学ランで、華奢で、肌が白くて──
村島むらしま康武やすたけ。南小。……よろしく」
 茶髪に、ピアス。がたんとすぐ席に着いた彼に、「ピアスは新学期から没収だぞ」と先生は大らかなことを言い、けれど彼はそっぽを向く。
 でも、間違いない。村島くんだ。あの村島くん。完全に荒んでいて、雰囲気なんてまったく違っても、あの繊細そうなシルエットは村島くんだ。
 てことはこのクラス荒れるの、ととっさに思ったけれど、始業式にも村島くんはちゃんとやってきて、そのあとも普通に登校してきていた。サボったりする様子はない。先生への態度とかは悪かったし、いくら没収されてもピアスをつけていたけど、小学校のときのうわさほどひどいことはしていないようだった。
 村島くんに関する、最後のうわさを思い返した。両親が離婚した。どういう事情でそうなったのかは知らないし、それが村島くんの非行に関わっていたのかは分からない。それでも、やはり家庭環境の変化が行動の歯止めになっているのだろうか。
 連休が終わって初夏にさしかかり、早くも熱中症が心配な日も増えてきた。
 ときどき、村島くんはほかのクラスの女の子と話していて、そのまま授業をサボったりしていた。次の休み時間になっても帰ってこなくて、「あのふたりつきあってるらしいよー」とかいう雑談が聞こえて、そうか、と私は頬杖をついて空中を眺めた。村島くんはもうあの女の子が好きなのか。
 そうだよな、と何だか冷静に考える。あれから、二年が過ぎたのだ。好きな人も変わるだろう。
 村島くんが私のこと好きだったかもしれないなんて何かバカみたいだな、と次の授業の教科書を取り出し、外はこんなに蒸して暑いのに、妙に乾燥している感覚を胸の中に覚えた。
 春に行なう体育祭や初めての定期考査、そんな行事を過ごす中で六月になった。梅雨に入る直前で、晴れ間が続いている月曜日の一時間目、道徳の時間をつぶして席替えが行われた。
 私は窓際の前から二番目で、なかなか日射しがまぶしい席だった。まあすぐ梅雨になるから関係ないか、と思っていると、がたっと隣の席に男の子が座った。ちらりと気づかれないように確認して、思わず肩がこわばる。相手もたぶん盗み見程度だったのだろうけど、私を見て目を開いた。
「……久し、ぶり」
「あ、……ああ」
 六月の私の隣の席に座っているのは、村島くんだった。茶髪で、ピアスで、もう違うけど、間違いなく、村島くん。
 うそ、と狼狽えてしまっても、それは見せずに私は平静ぶって窓の向こうを見る。窓に映る村島くんも、多少動揺があって視線をつくえに抑えつけている。いまさらこれはないでしょ、と思うのだけど、村島くんは私の隣にいる。
「村島、お前またピアスしてるな。はいはい、没収」
 席替え早々、村島くんは先生にそう声をかけられて、ピアスを取られていた。「髪も黒に戻せー」とわしゃっと頭を撫でられても、村島くんはふくれっ面で無言だ。
 黒のほうがいいのになあ、と窓越しに村島くんを眺めて思う。茶髪が似合っていないということはなくて、ただ、私が記憶を振り返ってそう思うだけだけど。
 それから、村島くんの隣の席で過ごす毎日が始まった。村島くんは、サボるか寝ているとき以外は、席でひとりおもしろくなさそうにしていた。あの女子に会いにいかないのかな、と思ったけど、その様子はない。
 別れたのかな、早いな、とか思う私も私で、席替えでせっかく仲良くなった子と席が離れたので、こっちから彼女の席に行っていいのか、待ったほうがいいのか、距離感に悩んでいるうちにいつも休み時間が終わってしまっている。
 ふたりとも、ほとんど一日席に着いているわけだけど、会話することはない。ただ、村島くんはわずかに頬杖とかの所作がぎこちなくて、その意味が分からなくて、私も意識しそうになった。
 鬱々と空が曇る梅雨が始まって、その昼休みは例の仲良くなった子と教卓の近くでしゃべっていた。予鈴が鳴り、その子と解散して席に戻ろうとした私は、村島くんがこちらを見ているのに気づいて、どきっと立ち止まった。
 そんな私に、村島くんもぱっと目をそらす。何だろ、と思いつつ席に着いて、村島くんをこっそり見る。村島くんは背もたれにもたれて小さく息をつき、鬱陶しそうに茶色の前髪をはらう。
「村島、くん」
 私がそう声を出すと、村島くんの肩が揺らいで、ちらっと視線をよこされた。
「な、何だよ」
「……髪」
「え」
「髪、戻さないの?」
「何でだよ」
「………、昔の村島くん、好きだったから」
「えっ──」
「あの頃、いつもありがと。それ言えないまま、クラス変わっちゃったよね」
 村島くんが大きくまばたきをして、私を見つめてくる。私は顔を伏せ、「言っておきたかったから」とつぶやくと、あとは吹っ切って五時間目の授業の教科書を取り出した。
 村島くんは何も言わなかった。チャイムが鳴って、五時間目の数学の先生が教室に入ってくる。
 別に、だからってどうなりたいわけでもない。きっとこのまま、七月の席替えで私たちは再びすれ違う。
 ただ、言わなきゃいけなかったことは言えた。ありがとう。それは、私はちゃんと伝えておかなくてはいけなかった。
 あの頃の村島くんは、ゆいいつ、私のことを気にかけてくれている人だった。だから、いつでもクラスになじめるように、私が休んだ日にあったことを必死に教えてくれていた。
 そう、それだけ。
 それだけだ。
 ──と、思っていた、のに。
「おっ、村島。やっと黒戻ししたか」
 霧雨が優しい次の日の朝、担任の先生は、さっそくそう言って村島くんに笑顔を向けた。村島くんは相変わらず何も言わずに顔を背けたけれど、一瞬、私を見る。その瞳のいじけた色合いで、乾燥していた私の胸のどこかが、じわりと灯ったのが分かった。
 ああ、もう。
 これだから。
 こんなだから、この男の子は、かわいくて困るんだ。

 FIN

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