青氷の祠-16

誰よりも憎いのは

 九月に突入したその日、僕はどす黒く機嫌が悪かった。何もかも今日の三人目の客のせいだ。たった今別れた、四人目の客の前では猫をかぶっておいたが、本当は猛獣のごとく何かに当たり散らしたい気分だった。
 玄人気取りの客だった。能書きを垂れ、陰険にあてこすり、僕の仕草に色がないだの艶がないだの、買春に詳しい顔をしたがる。おとなしく無知を装ってやっていたのに、別れ際の台詞で彼は僕の忍耐を笑殺した。
「俺、何年か前に、君の弟を買ったことあるんだけどさ。彼のほうがよかったなー?」
 何とかやわらげていた頬が、切れて弛緩して仮面じみたのが分かった。瞳が虚ろな殺意に冷えこみ、理性や良心を遮断する膜がかかる。彼は僕の険悪に気づかず、「でも悪くなかったよ」とまだ頬をぴくりとさせる台詞を吐くと、人混みに消えていった。
 玄人気取りの客なんて、長い男娼生活では初めてではない。そういう輩にはいつもいらついても、せいぜい内心で凶暴な白刃を抱くまでだ。彼が僕の刃を切れやすく炙ったのは、 “弟”と比較したせいだった。
「……あんな奴、弟じゃねえよ」
 早朝の街を突っ切り、シャンプーの匂いを引きながら、苦々しい声でつぶやく。雑音は死にかけた早朝だったが、口の中の毒だったので、あたりに響いたりはしなかった。
 明け方の血の気のない空気に、景色は息を引き取っている。ネオンも乾からびて、空では桃色と橙色が金色の光で織りこまれていた。朝陽が蒼ざめた視界に色を与えようとしている。わずかに流れる風が涼しいのは、ひと晩かけてアスファルトの熱が取れたためだろう。張り巡る電線で鳥たちが鳴いている。
 あの男が軽い気持ちだったのは分かる。しかし、僕は絶対に触れられたくないところに、素手でべったり触られた気分だった。めちゃくちゃ腹が立つ。何でもいい、ぶん投げて蹴りつけたい。かえって泣き出しそうなほどむしゃくしゃして、手足が暴力を吐き出したい衝動に震える。
 僕は、珠生と並べて見られるのは、虫酸混じりのへどが出そうなほど嫌いなのだ。
 僕にとって、珠生は禁忌だ。蛍華さんのことより憎んでいるかもしれない。僕が生涯で、最も憎悪をたぎらす相手は珠生だ。秀でたすがたを見ただけで、澄んだ声を聞いただけで、彼が触れたものに触れただけで、あの蜜のような匂いなど嗅ごうものなら、頭が感電してぶち切れる。珠生を自分の軌道や記憶から抹消できるなら、僕は縛られてひと晩じゅう強姦されてもいい。
 珠生は五年前に、この街を蒸発している。僕が十四、彼が十三のときだ。僕は豹さんの元で働くのを逃げ出し、堕落しかけていた。
 珠生も男娼をしていた。その名がとどろく一流品だった。珠生の源氏名は希水まれみといったが、何でも彼の精液は、世にも希な甘い味がするらしい。
 嫉妬は自覚している。しかし、僕は嫉妬だけで彼を憎んでいるのではない。
 僕が珠生を忌み嫌う理由は、彼が自分の人気を僕に見せつけ、美しい嘲笑で僕の客入りをさんざん見下したからだ。珠生は言葉を選ばなかった。いや、失言を好んで使用した。珠生はいつだって、僕の聖域に踏みこんできた。
 僕の客の数が自分より下まわるのを指摘し、「愛を知らない奴の愛なんかまずいもんね」と蛍華さんとの部屋に帰っていったことがある。僕はその場では唇を噛んだものの、帰り道で泣き出してしまった。母親に愛されなかったのはどうでもいい。愛されなかったために、自分は一流の男娼になれないのかと、そう思うと喉が捻じれるように痛かった。
 珠生は自分の羽に神になれる色彩があると自覚した途端、羽を魅惑的にひらつかせ、さまざまな人間をひざまずかせた。奴隷から吸い取った蜜で、彼には満たされた甘い香りがしていた。僕はその馥郁とした傲慢を嗅ぐと、故障した便器に顔を突っこむよりも吐きたくなった。
 珠生の美しく眇められた目を、いまだに憶えている。思い出すだけで、その目玉を鉤爪でえぐりぬき、地にたたきつけて踏みにじりたくなる。あの玄人気取りの客は、その野蛮な衝動をよみがえらせた。破壊したくてたまらない。もはや対象は珠生本人でも代用でも何でもいい。とにかく猛烈にぶちのめしてやりたくて、たどりついた部屋のドアを突き破るように蹴り開けた。
 朝陽をカーテンにさえぎる、冷風のきいたリビングでは、毬音がひとり床に横たわっていた。フローリングの焦げ茶と流れた髪の焦げ茶が、一体化している。僕をちらりとした毬音は、関わりたくないと判断したのか、すぐに睫毛を伏せた。
「夏乃は」
「知らない」
 こちらを見もしない毬音の声に、「くそっ」と僕は毒づく。
「犯したいときにいない女なんか女じゃねえよっ」
 ゴミ箱を蹴ると、プラスチック製のそれは攻撃のままへこみ、横転した。勢いよくゴミが床に嘔吐され、いくつかが毬音の髪にかかる。いらだちを穿つ反動の痛みが欲しいのに、こんなのではたしにもならない。
 ゴミ箱は足蹴にして、僕は夏乃の鏡台の側面を思い切り蹴りつけた。がしゃんっと並ぶ瓶や小物が震えあがり、引き出しがはみでる。僕はなおも鏡台に衝動をたたきつけた。先に穴が空いたのは鏡台だった。僕は力が空まわる腕を持てあまし、鏡台の上の物を床になぎはらう。それでも衝動は落ち着かず、毬音に目を向けた。
「おい、このクソガキっ」
 焦げ茶の髪を引っ張るように躙り、毬音は眉を寄せて頭に触れた。
「何のうのうと寝てんだよっ。ったく、お前見てると情けないよ、こんなのが自分の子供なんてなあっ。ガキならかわいく泣きわめいたらどうなんだよ、てめえみたいなふてぶしいガキ、ほんっとに救いようがないなっ」
 ボールを蹴飛ばすように、毬音の背骨に爪先を打ちこむと、毬音は床にうずくまった。僕はその肩を踏みつけ、蹴りで脇腹をえぐる。毬音の長い髪は床一面にばらつき、僕の脚にも絡みついた。それにいらだって、僕は唸り声を上げると、毬音の背中や腰に気紛れに足を命中させる。
「お前なんか殺しときゃよかったっ。ちっともかわいがる気になれない、おまえは母親そっくりだよっ。あの女とどっかに消えちまえばいいのにっ」
 毬音の薄い肩をつかんで、無理に顔を上げさせた。後ろ前に髪がかかり、その隙間の瞳は、僕を陰気に威嚇している。その眼を受けて、腕の筋肉にたまる膿がはちきれ、僕はほとばしるように毬音の頬を殴りつけた。がつっ、と顎の骨のきしみがこぶしに響き、毬音の首がもげそうに捻じ曲がる。
「お前なんか大っ嫌いだっ。見てるだけでいらいらする、生まれてこなきゃよかったんだっ。あのクソ女、何でお前なんか生んだんだ。腹にいる頃に知ってたら堕ろさせたのに。聞いてんのかよ、お前に言ってんだよっ」
 僕は虚脱する毬音の身を起こし、こぶしで腹をつらぬいた。毬音は吐きそうな声をもらして上体を折ろうとしたが、僕は肩をつかんでそれを禁じる。仰向けに押し倒して、肩や腕に痣をまきちらすと、胃を容赦なく踏みつぶした。毬音は身を丸め、うつぶせにせくぐまって息を止める。その後頭部にかかとを落とすと、ごんっと額と床が衝突する鈍い音が鼓膜に重く残った。
 僕は飽きるまで毬音に衝動をぶつけた。開かれた眼が赤黒く燃え盛っているのが分かる。毬音はぎゅっと身を縮めていた。やがて僕は、切り替わったようにふらりと彼女を放置すると、憎悪に浮かされた喪心が彷徨う瞳でバスルームに行った。
 軆に熱いシャワーをかけ、麻痺する手足に体温をめぐらせる。胸の中を意識すると、物騒な強迫観念は薄らいでいた。僕は冷たいタイルに肩を預け、「だからあいつのことは忘れたいんだ」とひとりごちた。汗が流れると、シャワーを止めて服を着てリビングに戻る。
 毬音は壁際で静止していた。完全には鎮火していない僕は、カモは目に入れないように夕食を取る。除湿を切って横たわったふとんは、このあいだ洗濯したので、少しにおいが肌になじまなかった。部屋はすっかり広がった朝に明るく、白い天井は光を帯びている。聞こえるのは鳥の声だけで、毬音は泣いていなかった。
 膿を放った手足が重たい。筋肉がぐったりしていた。この脱力に取りこまれ、神経も鎮まればいいのだけど。
 痛み出すまぶたで、眠気が限界に近いのを知る。全身の疲労を睡魔に食べさせ、僕の意識は冬の日暮れのように暗闇に押しやられた。

【第十七章へ】

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