「つ、つきあってください!」
まばゆいほどだったピンク色の桜が、さわやかな葉桜に取ってかわった、五月中旬のある木曜日のことだった。
俺、木ノ瀬秀実は真新しい手提げかばんを肩に引っかけ、夏服の白い開襟シャツと冬服の黒い学ランが入り混じる中、先月くぐりはじめたばかりの高校の校門を、前髪をそよがせながら出ようとしていた。
知らない声に名前を呼ばれたのは突然で、足を緩めて振り返る。すると、何だか人混みをかきわけて、こちらに突進してきている奴がいる。何だ、と眉を寄せて立ち止まったところで、そいつも俺の前で立ち止まって、大きな瞳できっと一度俺を見据えたかと思うと、いきなりそんなことを言ってきた。
「……は?」
たっぷり間をあけて、やっとそう返すと、そいつは熱中症のような真っ赤な顔をあげて繰り返した。
「俺と、つきあってくださいっ」
初夏なのに凍結していた周囲から、ようやく失笑やら野次が聞こえてきた。
俺は、そいつをまじまじと見つめた。知らない顔だ。名前も浮かばない。クラスは違うようだが、着ている学ランや斜めがけにしているバッグは新品だから、同じ一年らしい。でかい目のせいか一見童顔だが、意外と眉や口元はきりっとしていて、何より声変わりしている。
男だよな、と思った。まあこの高校は男子校だから、校内からは男しか出てこないわけだが。
「あの……」
「俺、二組の椿咲哉っていって、その──」
「いや、あのさ、」
「つきあってやれよー」という揶揄をひと睨みして、俺は椿とやらの腕を取った。けっこう筋肉がある。俺のほうが、身長がある代わりに華奢かもしれない。
「木ノ瀬、」
俺は誘拐でもするように、ずんずんと椿を最寄り駅方面に引っ張り、制服の波は変わらずとも、同じ制服は減ってきたところで立ち止まった。そして、くるりと椿と向き合うと、手を離して奴を睨みつけた。
「何で知ってんだよ」
「え」
「俺、男だぜ」
椿は猫耳でもついていたらしゅんとさせそうに、「うん」と口ごもる。俺はわざと大きな息をつくと、春の陽光で毛先がきらめいている椿の茶髪を見る。
「確かに、俺はバイだけど──」
「えっ」
椿は涙をはらうようにまばたきをして、俺を見上げた。俺は渋面のまま、かばんを持っていない左手で側頭部をかきむしる。
「そんなの、今まで誰にも、」
「ば、バイってほんと」
「ほんとって、知ってるから告ってきたんだろ」
「い、いや、呼び出しても来ないだろうし、いちかばちかで」
唖然とするあまり、ぽかんとしてしまう。そんな俺の手を取って、椿は握りしめてくる。
「バイってことは、俺にも脈あり?」
「………、脈あり、っつうか、とりあえずこういうことはだな、」
「俺、木ノ瀬が好きなんだ」
「いや、まあ、好きなのは分かった。でもこういうことはやっぱり呼び出しとかで、」
「来なかっただろ」
「そんなの──」
分からない、と言おうとして、考え、行ってなかったかもな、と気まずくなる。呼び出され方にもよるが、まず告白とは思わず、喧嘩でも売られると思ったかもしれない。
椿はちらちら周りに見られているのも構わず俺を見つめ、どれだけの握力なのか、ぎゅっと手を握ってくる。
俺は、椿を見つめ返した。短めの茶髪、凛とした眉、上気した頬から顎はちょっと線が甘くて童顔っぽく、でも口元はきゅっと締まっていて、何よりもぱっちりした瞳がきらきらと印象的だ。軆つきはだぼっとした学ランでよく分からないが、小柄なのは確かなものの、さっきつかんだ腕の筋肉やこの握力からして、しっかりしているのかもしれない。
俺は長い息をつき、自分の所感にあきれた。
けっこういいかも。
「ん、まあ……」
真冬にこたつを出るのを嫌がるような歯切れの悪さで言うと、椿は首をかたむける。俺は目をつぶって顔を背けておきながら、ぎこちなく正反対のことを言った。
「いい、けど」
手を包む握力が、蒸発するようにわずかに緩んだ。俺は椿を見る。すると、いっそうの握力が与えられて、椿は花開くみたいにぱあっと笑顔になった。
「ほんと!?」
「あの、手え痛い……」
「ほんとに!?」
「あーっ、ほんとだよっ。だから手え離せっ」
椿はぱっと手を離し、俺の前髪がちらつく瞳を上目で覗きこむと、にっと笑った。
こんなに感情表現がまっすぐな奴は初めてだ。俺も別に人見知りじゃないが、こんなにバカ正直じゃない。
「──でも」
椿はそう言って、同世代の人波の中へと歩き出す。俺も並行しながら、奴を見下ろす。俺たちの高校はほとんど駅前なので、交差点の向こうにはもう駅の改札が見えていて、そばの車道を車が行き交っている。
「木ノ瀬は、バイなんだね」
「ゲイ寄りだから」
「そっか」
椿は俺を見上げると、「へへ」とどこか複雑さを綯い混ぜて咲った。本当に分かりやすい奴だ。ゲイ同士でつきあうのと、ゲイとバイがつきあうのは少し違う。
でも、俺はテレビとか観ていても女に目が止まることは少ないので、心配はいらないと思う。言ったほうがいいのかとかすめたが、そのときには駅に着いていた。
「木ノ瀬、どっち方面」
「東口」
「あー、反対か。俺、西口」
茶になるのかと思いきや、椿は俺にくるっと向き合って口元を笑ませた。
「驚かしてごめんなっ。けど、すっげー嬉しい。これからよろしくっ」
「お、おう」
「んっと……、じゃあ明日っ」
敬礼のように手をかざすと、笑みを満たした椿は、小走りに改札口に飲みこまれていった。
俺はそれを見送り、手持ち無沙汰のくせで、スラックスのポケットからブラックカラーのスマホを取り出した。そういえば、連絡先は交換しなくてよかったのか。あいつはあいつでいっぱいいっぱいで、忘れたのだろうか。まあ明日があるか、と何も着信のなかったスマホをポケットにしまうと、俺も騒々しい改札へと足を踏み出した。
その夜、何の変哲もない家族の夕食のあと、シャワーを浴びて、ひんやりした白い洗面台で鏡と向かい合ってみた。ボディソープが香る中、曇った鏡を手のひらで裂いて、改めて自分の顔を眺める。
染めたことがない黒髪、弧を描がく眉、ちょっときつい感じの黒い眼、不器用な口元、頬が削れて鋭い顎──あんま美形じゃねえな、と自分でも思う。
不細工とは言わないが、親しみやすさが希薄で損な顔だと思う。椿は、こんな俺のどこに惹かれたのだろう。俺はあいつを今日知ったし、あいつも俺を知って、長くて高校生になった一ヶ月だろう。駅は真逆だったし、中学が同じだったというのも考えられない。
中学時代は、楽しかったけど虚しかった。これといった実りがなかった。男なのか女なのかはっきりしなくて、何だかんだで童貞でもある。
つまり、つきあうとかそういうのは、俺は椿が初めてということになる。あいつは、本当に俺なんかでいいのだろうか。あいつなら、もっといい男も捕まえられそうなのに。
つきあう。何だか、俺にはそれがいまいちつかめないのだけど──なるようになるのかな、と濡れた髪をタオルで拭きながら洗面所を出た。
「あ、木ノ瀬っ」
五月晴れの翌日、揉みくちゃのラッシュの電車から吐き出されて、ICカードで改札を通ると、朝陽を含んだようにきらめく大きな瞳が俺を待ち受けていた。
椿だ。カードケースをかばんにしまう俺に駆け寄った椿は、「よかったっ」とにっこりする。
「部活とかで、もう行ってたらどうしようと思った」
「あ、ああ。俺、帰宅部」
「ほんと? 俺も。中学卒業して、やっと親に強制されてた空手辞められたんだ」
「空手……」
昨日の学ラン越しの筋肉の感触や強い握力がよみがえる。
「一応、黒帯だよ? ほんとは調理部入りたかったんだけどさ。あの高校にはないね」
「まあ、男子校だしな」
「料理好きー」
にこにこする椿を眺めつつ、俺は無造作にかばんを肩に引っかける。
何と言えばいいのか。今度作ってくれとでもいうのか。何か恥ずくないか、と勝手に心の中で煩悶していると、椿が歩き出したので、慌てて追いかける。
「昨日、何かテレビ観た?」
「いや、別に」
「木ノ瀬は、テレビとかあんま観そうにないか」
じゃあ訊くなよ、と思っても口にはしないでおく。
俺たちの男子校の隣には女子校があるので、男も女も混じる周りでは、「おはよー」という挨拶や笑い声が飛び交っている。目の前をスカートをひるがえす集団が通っていった。俺はもう白い開襟シャツだが、椿はまだ学ランだ。暑くねえのかな、と思っても、やっぱり口にはしない。
一緒に歩いていても、うまく会話がはずまない。ときおり、椿がこちらを見上げてくるのが視界の端に映っても、糸口のない俺は言葉を拾えない。学校までの短い道のりが、妙に長く感じられる。
何かないか俺、と焦りながら思ったところで、「あ」と声がもれた。椿と視線が重なる。
「あ、あのさ」
「うん」
「お前、スマホ持ってないの」
「あっ、そうだ。俺も昨日、電車で気づいたんだ」
椿は斜めがけのバッグをごそごそやり、ブルーのスマホを取り出した。俺の連絡先を登録すると、椿はちょっと怪しいぐらいににやにやして、俺はつい茶髪の頭を軽くはたく。
その髪にくしゃっと触って、「嬉しい」と椿は幸せそうに咲った。その笑顔に俺もちょっと咲うと、椿の情報を入力したスマホの画面を落とす。
「椿は、登録多そうだな」
「え、何の」
「スマホの」
「んー、普通だよ。木ノ瀬は」
「中学の友達と、家族くらい。あと、クラスで席が近い奴とか」
「そっか。俺も変わんない。ただ、中学の友達はみんな彼氏とかできちゃってさ」
「……彼氏?」
「あ、俺、女の子の友達が多かったんだ」
「はあ」
間の抜けた返事をしたあとで、やば、と口をつぐむ。会話を切ってしまった。せっかく続いてたのに、と再び頭を抱えそうになったけれど、いつのまにか学校に到着していた。
クラスメイトでも見つけたのか、椿は「じゃねっ」と簡単に手を振って、制服の波に紛れこんでいった。たたずんた俺の心には、とりあえずほっとしたような、何だかつまらないような、変な所感が湧いた。
その気持ちを引きずって、ぶつぶつ思いながら教室のドアを開けた。すると、目撃したのかうわさになっているのか、椿の公然告白についてクラスメイトに質問されまくった。
俺はカミングアウトなんて考えていない。「お友達でって言っておいたよ」と流しておき、先日の五月の席替えで獲得した窓際の席に着くと、頬杖をついて、ぼんやりガラス越しの青を瞳に溶かした。
つきあう。改めて、その事実について考える。
よく分からない。会話すらあんな簡単に途切れるような奴と、本当につきあうとかできるのだろうか。
だいたい家も遠いし、学校でしか時間は取れない。その学校でもクラスが違うし、最寄り駅までの登下校くらいしか一緒にいられない。たったそれだけの関係で、つきあっていると言えるのだろうか。
アメーバの増殖みたいにいろいろ考えを広げ、分かんねえ、とつくえに伏せっていたら、昼になっていた。
どう見ても鬱に入っている俺の頭に、クラスメイトが手を置き、「追いはらっとくか」と言ってくる。顔を上げると、教室の出入口に包み──たぶん弁当を抱えた椿の顔が覗いていた。俺は三秒くらい正面に目を泳がせ、「行ってくる」とかばんから財布を取って立ち上がる。クラスメイトは、励ますように俺の肩をたたいた。
「迷惑だった?」
相変わらず猫耳をしゅんとさせたような上目遣いの椿に、「別に」と俺は優しいことも言ってやれない。
「俺、いつも学食なんだけど」
「あ、そうなんだ。じゃ、食堂行こっか」
「パンか何か買おうか」
「え、何で」
「いや、食堂だと人目あるだろ。ふたりにもなれないし」
椿は俺を見上げて、睫毛をぱちぱちとさせる。そして、だんだん顔を嬉しそうにさせて、何度もうなずいた。
その様子に、何かかわいいかも、と思ってしまう。ついで、そんなことを思ったおもはゆさに椿から目線をそらし、ひとまず購買に向かう。椿は、そんな俺にいそいそとついてきた。
人いるかな、と思ったけども、意外と空いていたのが、本館と別館のあいだで芝生が敷かれている中庭だった。食堂があるし、弁当の奴もそろそろクラスに友達ができて、その友達と教室で食うせいだろう。
男子校なので、クラスが離れているのにわざわざ一緒に食べるカップルもいない。いや、俺と椿はカップルになるのか。しかし、校内でいちゃいちゃ食べるわけにもいかない。たぶん。
椿は平気なのだろうか。そもそもこいつは、カミングアウトしているのか。
「椿」
校舎にもたれ、一応並んで芝生に腰をおろす。ふたつ買ったパンのうち、カレーパンの封を開けながら声をかけると、さっさとたまご焼きを頬張っていた椿は、「んー」とこちらに首をかしげた。
「お前って、カミングアウトしてんの」
椿は目をしばたき、たまご焼きを飲みこんだ。
「してないよ」
「……してなくて、あの告白か」
「だって、断られてギャグで終わると思ってたし」
「………、ふうん」
俺がそっぽを向いてカレーパンをかじると、椿は不安そうに眉を寄せ、こちらに身を乗り出してくる。
「怒った?」
「別に」
「怒るよね、そういうノリって」
「怒ってねえよ」
「木ノ瀬が好きなのは、ほんとだよ」
椿に横目をする。椿のでかい瞳が、うるうると濡れて俺を映している。
俺はため息をつくと、視線はよそにやって、「うん」と椿の頭をぽんぽんとした。しばらく椿は俺を見つめていたけど、何も言わずに、弁当に向き直った。
俺と椿はそんな感じで、登下校と昼食だけ共に過ごした。朝には改札を通ると椿がいて、昼休みになるとやっぱり椿が俺の教室に来て、帰りは早かったほうが靴箱で相手を待つ。
俺はぎこちなく不器用で、椿はまっすぐ素直だった。たまに話題が噛み合ったかと思えば、何かの切っかけでふっつり途切れてしまう。だいたいは俺のせいだった。初めのうちは、椿は明るく話題を変えたりしていたけど、物言いたげな大きな瞳を持て余すのが多くなっていった。
そうしていると、いつのまにか一週間が過ぎていた。開襟シャツになった椿が、下校中にそれを言い出したのは、告白と同じく突然だった。
「木ノ瀬」
「ん」
「キスしたい」
今度こそギャグの反応しかできなかった。俺は何も飲んでいないのに噎せた。
「だって」と椿は立ち止まって、俺の腕をつかむ。手のひらの体温が皮膚にさっと伝わってきて、俺はそれだけでどぎまぎするのに、椿は続ける。
「もう一週間だよ」
「一週間……でするもんなのか」
「分かんないけど、漫画とかではその日のうちにやってるじゃん」
「漫画と現実を一緒にすんな」
「したくないの?」
「したくないっつーか……」
どう言えばいいのだ。分からない。何にも分からない。それぐらい俺は初心者で無知なのに、手を離した椿はうつむいて、いじける。
「俺だけなの?」
「え」
「木ノ瀬は、……俺のことなんか」
「そ、そういうわけでは」
「じゃあ何で」
嫌いじゃない。けして椿が嫌いなわけじゃない。ただ、俺は──そうとんとん拍子に進められるほど、こういう関係に熟れていない。
広がる芳しい五月の晴天とは反対の、曇り空のような焦れったい沈黙が滞る。椿の瞳は容赦ない。そのあいだにも、周囲では制服の同世代の奴らが騒々しく流れていっている。
「……ここ、は」
「え」
「ここは、やばいだろ」
「ここって」
「俺、クラスメイトにはお前は友達って言ってるし。見られたらどうすんだよ」
「ここじゃなかったらしてくれるの」
「……ん、まあ……」
言っちゃったし、と俺が自己嫌悪でその場にしゃがみこみたくなるのと反対に、椿は打って変わって一気に破顔した。
「じゃ、今度の日曜デートしよっ」
キスは次はデートか。慣れない響きの連続に、頭が破裂しそうになる。もっとゆっくり進められないのか、こいつは。
そうだ。俺はまだ、もう少しゆとりが欲しいのだ。けれど、「ダメ?」と椿が落ちこみそうになると、こいつを哀しませたくないと思ってしまう。
「いい、けど。つか、来週は中間だぞ」
「それが」
「勉強しないと。俺、そんな頭よくないし」
「一緒に勉強したらいいじゃん」
「あー、まあ……それなら」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあ、俺の地元来なよ。近くにでかい図書館があるんだ」
「そうなのか。だったら、そんな感じで」
「約束だからな」
疑いの残るまなこで俺を睨む椿に、「はいはい」と俺は奴の頭をぽんぽんとする。こうすると、椿の機嫌はよくなる。「へへ」と椿は案の定嬉しそうに咲って、俺は負けたため息をついた。
「時間とかどうする?」
「朝からでいいよ。木ノ瀬に弁当作りたいし」
「ああ、料理好きなんだっけ。……好きなだけで下手とか、やめてくれよな」
「大丈夫っ。俺んち共働きでさ、妹とか俺の料理で育ったから」
「妹いるんだ」
「ひとりね。かわいいよ。嫁に行かせたくない」
こいつの妹ならかわいいだろうなあ、とか思っていると、駅に着いていた。デートの約束ですっかり気をよくした椿は、ここのところ沈みがちだった表情を華やがせて改札へと走り、一度振り向いて手を振ってきた。
俺は、軽く手を掲げ返す。椿はきらきら咲うと改札を抜け、すぐ人混みで見えなくなった。俺はしばらく突っ立って、デート、と反芻していた。
いったい何をすればいいのか──勉強に集中しておけばいいのか。そうすれば、キスもはぐらかせるかもしれない。図書館じゃいちゃつけないしな、とそんな方向で決まると、俺も騒がしい人波に混ざっていった。
三日後のやや曇った日曜日、俺は初めて降りる駅である椿の地元にやってきた。時刻はほどなく午前十時だ。でかい図書館があると言っていたから、都会かと予想していたが、こぢんまりした駅の改札を抜けると、やっと車が通れるくらいの商店街に面していた。
「木ノ瀬ー」
わずかに十時を過ぎた頃だった。聞き慣れてきた声がしてかえりみると、赤いドクロプリントの黒のTシャツに、ダメージ加工のジーンズ、チェーンがじゃらじゃらついたリュックという、なかなかパンクな私服で椿はやってきた。
俺は普通のサイコミミックのバンドTシャツにブルージーンズで、荷物は黒無地のデイパックに入れてきた。「おはよー」とまばゆくにこにこする椿に、「うん」と俺は臆しつつ返す。「こっちだよ」と言った椿について、俺たちは商店街の中を進んでいく。
「木ノ瀬、サイコミミック好きなんだ」
そう言った椿は、俺のTシャツの裾を軽く引っぱる。
「アルバムは揃えてるかな」
「へえ。俺はRAG BABYが好き。あ、おばちゃんおはよー」
歩調を緩め、左手にあった八百屋のおばさんに声をかける椿に、おばさんも顔をあげて「おはようさん」と返す。
「見ない友達だね」
「高校でできた友達なんだー」
「あんな小さかったサクちゃんがもう高校生なんて、早いねえ」
「中学になったときも、おばちゃんそう言ってたよ。じゃ、また安くしてねー」
すっげー地域密着感、とか思っていると、また椿が歩き出したので慌てて追いかける。地域密着についてそのままの感想を伝えると、椿はからからと笑った。
「俺、生まれたときからこの町だからなー。買い物とかも自分で来てたし。家も商店街出たらすぐ」
「図書館あるって言ってたから、都会と思った」
「都会じゃ逆にないでしょ。図書館も、おじいちゃんとかがのーんびりする感じ」
俺の最寄り駅は百貨店の一階に直結していて、夜まで騒がしい。家も大通りの路地をちょっと入っただけのマンションだ。そして確かに、図書館なんて電車で出かけないとない。
商店街を出ると車道があって、右手の団地を指差した椿が「あれ俺んち」と言った。左手には緑色が鮮やかな広そうな公園があり、その奥の低い建物が図書館であるらしい。横断歩道で信号待ちをしながら、「天気よかったら、弁当公園で食いたかったなー」と椿は伸びをする。
「このくらいなら、食えるだろ」
「午後、雨らしいよ」
「え、マジ」
傘持ってきてねえよ、とひそかに焦っていると、信号が変わって俺と椿は並行する。また会話が途切れている。けれど、地元であるせいか椿は気分が楽な様子で、あの物言いたげな瞳は向けてこなかった。
到着した図書館は、予想以上にでかくて綺麗だった。一階と二階しかないが、本棚の数も整然としたテーブルの数も、半端ない。マナーも行き届いて、けっこう人がいるのに静かだ。うるさくなりがちな子供向けの絵本の場所は、ガラスで別室に仕切られている。感心していると、「二階のほうが静かだよ」と椿はエスカレーターへと向かったので、俺は慌てて追いかけた。
「どれからやる?」
二階も日曜日であるせいか混んでいたが、実際静かだし、ふたり並んだ席くらい余裕で取れた。チェーンの音を抑えつつ、椿はリュックをあさる。
今日の勉強内容は、金曜日の放課後にハンバーガーを食いながら決めていた。俺は理系で、椿は文系だったので、数学と理科、英語と国語ということになった。
「俺、英語自信ないんだけど」
「じゃ、英語やろっか」
椿は英語の教科書を引っ張り出し、俺もそうする。範囲をメモした紙も取り出し、一学期の頭にやったところなんか忘れていると言うと、「じゃあ初めから順番にしよ」と椿は笑いをこらえて、教科書のページをめくった。
空手をやっていたり、料理が好きだったり、椿は何だかよく分からない奴だが、英語の成績がいいのも本当のようだった。俺は何度も教科書を見て単語を書き写すのだが、椿はさらっと暗記して、しかも筆記体ですらすら書く。文法も飲みこんでいて、教え方も上手だった。俺そんなうまく数学とか教えられるかな、と不安になりつつ、実は試験には小遣いの金額がかかっているので、まじめに英語を勉強した。
俺の飲みこみが悪いせいか、英語だけで二時間かかってしまった。思わず謝ってしまうと、「んー」と椿は英語の教科書をしまいながら首をかたむける。
「キス」
「はい?」
「キスしてくれたら許す」
俺は椿を見た。椿も俺を見てにやにやした。その笑みの感じで、さすがに冗談なのは分かって、それでも息を吐いてしまう。
忘れてはいなかったか。
「こういうとこでは」
「うん」
「やめておこうか」
「うん」
「……腹減った。弁当あるんだろ」
「今日、俺んち誰もいないんだー」
その台詞の含みに、ぎょっと椿に目を剥く。椿はくすくすと笑うのを抑え、瞳に俺を映す。俺は、椿の瞳にいる自分と見合って──『誰もいない』という言葉に含まれる淫靡な妄想に、勝手に顔面に熱を走らせる。
「いや、あの、」
「弁当もあったかいほうがおいしいし」
「お前、弁当持ってきたとか嘘だろ」
「持ってきてるよ」
「じゃあ、公園で食べよう」
「雨降るかもだよ」
「少しくらいいいだろ」
「試験前に風邪引いたらまずいじゃん」
道理なり、とはいえ、誰もいない家でふたりきりになれば、人懐っこい犬のように椿が迫ってくるのは目に見えている。こいつ確信犯か、と俺は額を支えてテーブルに肘をつく。
「木ノ瀬は」
ややトーンの落ちた声に目をやると、椿はうなだれて、リュックのチェーンをつまぐっている。
「俺とふたりきりになるの、嫌?」
かすかに瞳に憂色を滲ませ、椿はいつもと違うスニーカーを見て、俺のほうを見ない。その哀しそうな色に俺もばつが悪くなって、テーブルについていた肘をおろす。
「嫌だったら、毎日一緒に昼飯食ったりしねえよ」
「……ほんと?」
「うん」
「じゃあ、いつもとおんなじじゃない?」
「………、まあな」
また負けてるし、と思っていると、腕に熱が伝ってそちらを向く。椿が傷ついた子犬を見守るような不安そうな瞳で、俺の腕に触れている。その瞳を受けていると、俺は完敗してしまって奴の頭に手を置いた。
「木ノ瀬──」
「弁当食ったら、勉強だからな」
椿は俺の目を見つめて、徐々に輝きを取り戻すと、「うんっ」とでかい声で言った。いっせいに周囲が、怪訝そうな顔をあげる。「バカ」と俺に小声ではたかれても、椿は嬉しそうに咲っていた。
まだ外は濡れていなかったが、空気の匂いは湿気りはじめていた。
日曜日のせいか、車が多い横断歩道で信号待ちをする。そのとき、向こう側に手をつないでいる男女のカップルがいた。椿は気づかずリュックをあさっていたけど、俺はぼんやりそのふたりのつながれた手を見つめ、椿は手を握ってやったら喜ぶだろうなあ、と思った。けれど勇気が出なくて、信号が変わってそのカップルともすれちがっていった。
椿の家は、車道に面した四階建ての棟で、本当に図書館から数分だった。「夜、車うるさいんだよねー」と遠慮なくチェーンをじゃらじゃら言わせながら、椿は階段をのぼっていく。ちなみにエレベータはない。
階ごとにドアが向き合っている設計だ。椿は三階で足を止め、さっきリュックをあさって取り出していた鍵をさしこんだ。「どうぞー」とのんきに俺を招く椿に、負けるな俺、とか思いながら、俺は椿家にお邪魔した。
日曜日だというのに、椿家は本当に留守だった。両側をドアにはさまれた廊下を抜け、奥のリビングに通してもらう。あまり広くなく、広くないのにテレビやらソファやら本棚がごちゃごちゃ置かれ、インテリアは無視されている。
「いつもみんな留守なのか」と訊いてみると、「んーん」と椿はリビングの手前のキッチンでリュックをおろす。
「とうさんはゴルフ、かあさんはそのキャディ、妹は友達と遊びにいった」
「……と言っておいて、彼氏だったら」
包みを取り出す椿は、眉の寄った変な顔で俺を見た。
「彼氏」
「いや、冗談──」
「そういや、何か浮かれてたような……」
「大丈夫だろ」
「えー。彼氏とかー。やだよー」
「とりあえず弁当食わせろ」
「あ、そうだ」と表情を切り変えた椿は、焜炉とシンクのあいだで包みをほどき、紺色の弁当箱と赤色の弁当箱を登場させる。
「あっためる?」
「弁当なら冷めててもうまいだろ」
「じゃ、俺だけあっためるね」
「……自分のあっためるなら、俺のもあっためろよ」
「そう? あ、じゃあ、適当に俺の部屋行っといて」
「どこだよ」
「ドアに“咲哉”って書いてるよ」
こいつの下の名前そんなだったな、と思いつつ、俺はデイパックをおろすヒマもなく廊下に戻る。ドアは五つあった。『さくや』と『ゆきな』と『パパ&ママ』という札が三つのドアにはある。残りはバスルームやトイレだろう。俺は『さくや』のドアを開けた。
真っ先に目についたのは、床やつくえやベッドを支配する大量の漫画だった。それから、押し入れからはみだした服、趣味らしきプラモデルとその箱、つくえの上で、漫画の陰になっていたノートPC──俺の部屋も人のことは言えないけれど、片せよ、と思った。
漫画を少々片づけて腰をおろした俺は、ようやくデイパックを肩からずりおとした。何気なく手に取ってみる漫画は、ノンジャンルで統一性がない。少女漫画まである。そういえば、漫画ではその日のうちにキスするとか言っていた。ボーイズラブまであるんじゃないだろうな、と疑っていると、「お待ちー」と椿がやってきた。
「ちょっとあっためすぎたかも。熱かったらごめん」
「ああ」
「はい、割箸も」
言われたほど熱くない紺色の弁当箱と、割箸を受け取る。弁当箱のふたには、名前は忘れたが猫みたいなキャラクターが描かれている。椿の弁当箱は、学校でいつも見ているシンプルなものだ。俺のは普段使ってないか妹ちゃんのもんだな、と測りつつふたを開けると、ふわりと食欲をそそるいい香りがした。
たまご焼きの色合いや、おにぎりのかたちが、いつも昼食で椿が食べているものと同じだ。あとはとろけたチーズとケチャップがかかったミニハンバーグや、高野豆腐の煮物なんかが入っている。
そっと椿の弁当も覗いてみると、メニューは変わらない。ただ、椿のほうがハンバーグのかたちが崩れていて、笑ってしまいそうになった。
味のほうも上出来で、しばらく無言で食した。視線に気づいて顔をあげると、椿が箸をくわえてこちらを窺っている。「何?」と口の中のものを飲みこんで首をかしげると、椿は「まずくない?」と心配そうに訊いてくる。俺はいよいよ噴き出してしまった。
「まずかったら、こんなにがつがつ食わねえよ」
「ほんと?」
「うん。マジでお前が作ったのか」
「当たり前じゃん。あ、煮物だけ昨日の夕飯の残りか。よかった。家族以外に食べてもらうの初めてでさ」
安堵と喜色を混ぜて椿は咲い、やっと自分も弁当にありつきはじめる。そして「うまいな」とか言っていて、俺はまた笑った。
昼食が終わると、勉強だ。ここのどこで勉強するんだ、と思っていたら、椿は漫画を乱暴に押しやって、ベッドの下から黄緑の折りたたみのミニテーブルを取り出した。ふたりぶんの教科書やらを広げようと思ったら、かなり狭苦しい。それでも、椿はそうするようで、「数学のほうがやばいかなあ」と教科書を取り出す。
「俺、そんな、教えるとかうまくないけど」
「予想問題のプリント持ってきた?」
「一応」
「その答えを暗記する」
「いや、そのまま出るとは限らな──」
「暗記以外ありえない」
英語ではめちゃくちゃ応用してたじゃねえか、と内心つぶやきながらも、俺もそちらのほうが楽なので乗っからせてもらう。「あとで俺のせいにすんなよ」と念を押すと、「大丈夫大丈夫」といい加減な返事が返ってきた。
俺が予想問題の答えをはじきだしているあいだ、椿は俺を眺めたり、答えを写したりしていた。問題に行きづまると、椿に眺められる時間が増えるわけで、何だか緊張する。
俺は椿の視線に弱い。視線、というか──その大きな瞳に囚われると、本当に身動きすら躊躇ってしまうのだ。今も椿が俺を見つめている。焦って問題が解けなくなり、さらに焦ることになる。それを見透かしているのかどうか、椿は問題を覗きこんで、さらに至近距離にやってきて──
つい目を上げると、ごく近くで視線が触れあった。いつのまにか、その瞳はそらしたくてもそらせない瞳になっていた。椿の黒い瞳に、俺がいる。俺の瞳にも、椿がいるのだろう。瞳の中の分身に引き寄せられるように、椿が身を乗り出してくる。
「つ、椿……」
間近にあの瞳がある。意識を惑わす魔法が宿ったような瞳が。
「木ノ瀬……」
「あ、あの」
「キス、しよ?」
「え、いや、えと……」
「木ノ瀬とキスしたい」
「椿、ちょ、ちょっと。ちょっと待った」
俺の狼狽に椿の瞳の呪縛が緩み、俺は何とか目をそらすことができた。でも、気まずく重たくなった空気に、再び椿を見ることになる。椿は乗り出していた身を引っこめ、その場に座りこんで首を垂れていた。
「椿──」
「……何で?」
「え」
「何で、木ノ瀬は俺とつきあってんの?」
「っ……」
「俺ばっかり、木ノ瀬が好きみたい。合格発表のときも憶えてないっぽいし……」
「……え?」
「合格発表の日! 俺、一緒にあの高校受けた友達が、ふたりとも落ちてさ。俺だけ受かってずるいみたいな空気で、友達は先帰っちゃって。俺がひとりで突っ立ったら、声かけて心配してくれたじゃん」
「そ、そうだったか……?」
「そうだよ! 何だよ、やっぱ忘れてるし」
「………、」
「今、つきあってくれてるけど、木ノ瀬は俺のこと好きだって言ってくれない。キスもしてくれない。こんなの……俺たち、ほんとにつきあってんのか分かんないよ」
前髪に隠顕とする椿の瞳が揺れ、ぽろぽろとこぼれおちはじめる。
「何であのとき、OKしたの? 俺のこと憶えてない上に、好きにもならないなら、断れよ。好きにもなってくれないのにOKするなんて、ひどいよ」
「………、」
「こんなの、俺がバカみたいだ。もうやだよ……」
俺は椿を見つめた。椿は雑に目をぬぐい、それでも涙は止まらなくて、いたたまれないようにひとりで舌打ちする。椿は一度鼻をすすると、「もういいよ」と数学の教科書を閉じた。
「俺、自分で勉強する。分かんなかったら、クラスの奴に訊く」
「椿、俺──」
「もういいっつってんだよっ。帰れよ。道は簡単だから分かるだろ」
こんなのじゃない、と思った。俺が望んでいたのは、こんなのじゃない。
しかし、どうすれば、椿がまた咲うのか分からなかった。いまさらキスしたって、遅いだろう。第一、なぜ俺は椿の唇に狼狽えるのだろう。ガキでもあるまいし、椿のほうが正しい。キスぐらい、つきあっていたらするだろう。したいだろう。
俺は椿が好きじゃないのか? 嫌いじゃない、とは思うけど──
椿は嗚咽を押し殺している。俺は息苦しさにうつむき、どうしようもなくて、荷物をデイパックに集めると立ち上がった。
部屋を出るとき、「ごめん」とだけ言った。自分でも、『ごめん』という言葉がどういう意味なのか解せなかった。泣かしたこと? 拒んだこと? それとも、別れるってことか?
椿の家を出ると、小雨が降り出していた。灰色に煙る空は、俺の心のようだった。濡れたアスファルトの、ざらざらした匂いがただよっている。肌寒い雨の中、傘もなく俺はとぼとぼと帰路についた。
翌日の月曜日、憂鬱な想いをかきたてる雨の中で改札を抜けると、椿のすがたがなかった。たった一週間なのに、この改札を抜ければ、椿が笑顔で駆け寄ってくるのが当たり前になっていた。
俺はカードケースを握りしめ、傷つけたんだ、と思った。昨日、小雨の中、家に帰っているときからずっともやもやしていた黒い暗雲の名前を、やっと思い知る。
罪悪感。俺は椿を傷つけた。
どうしよう。俺はこのまま椿と他人に戻るのか。戻れるのか。椿の存在が、こんなに当然になっているのに。椿の笑顔が、こんなに心地よくなっているのに。
嫌だ。そうだ。分からないなんて、言っていられない。つきあうなんて分からない、理由なんて分からない。だけど、間違いなく、俺は椿が好きになっている。
腕時計で始業まで時間があるのを確認すると、俺は持ってきた傘もささずに、いろんな色の傘が咲く人混みに駆け出した。
謝らなきゃ。強迫観念のように思っていた。許してくれないかもしれない。突き放されるかもしれない。それでも、謝らなくてはならない。
あの大きな瞳に、傘を跳ねる水滴のような輝きを取り戻させてやらなくてはならない。
学校がすぐそばで感謝した。あいつは確か二組と言っていた。俺は五組で、教室の並びも違う。
慣れない廊下をずぶ濡れのまま進む。ぽたぽたと足痕みたいに雫を落として突き進む俺を、見知らぬ同級生が不審そうに見ては、避けていく。
一年二組の札を発見すると、俺は一度大きく息を吐き、開けっぱなしの扉から教室を覗いた。
教室を一望して、教壇にたかっている数人の中に、椿を見つけた。その集団も、教室にいる奴も、濡れねずみの登場にぽかんとしていた。
椿も固まっている。俺は遠慮なく教室に踏みこむと、鬱陶しい冷たい前髪をはらいながら、椿の元に行った。椿の瞳が水気にゆがみそうになる。俺は唇を噛むと、その筋肉のついた腕を濡れた手でつかんだ。
「木ノ瀬──」
「いいから来い」
俺は椿の腕をぞんざいに引っぱり、椿は転びそうになりながらついてきた。
どこに行こう。寒いし、外は嫌だ。階段を見つけると、それをのぼってみた。さいわい、誰もいない。屋上へは鍵がかかっていたし、雨が打ちつけているので出る気はなかった。踊り場に来て、ようやく俺は手を離して椿と向き合う。
椿はわずかに怯えたような、不安げな瞳をしていた。それをなだめるために、俺は開襟シャツで手を拭いてから、椿の頭を撫でてやった。椿は俺を見つめるまま、じわりと瞳に涙を浮かべ、苦しそうに喉をつまらせる。
「木ノ瀬、」
「目え閉じろ」
「え」
「目だよ。閉じろ」
椿はわけが分からないようだったが、いつになく強引な俺に流されて、目を閉じた。そうされて初めて、椿の睫毛がけっこう長いのに気づく。でかい目に見えるはずだ。
そうだ。まずこの大きな瞳に囚われたのから始まって──俺は少し身をかがめると、椿の唇にそっと唇を重ねた。
椿が目を開いたのが分かった。俺は唇を離し、どんな表情をすればいいのか、うつむいていまう。すると、椿のわりとがっしりしている手が俺の手を取った。
「木ノ瀬……」
俺はつながれた手を見つめた。昨日の信号待ちのときのカップルがよぎり、ぎゅっと握り返した。
「お前の目……」
「え」
「お前の目、かわいいから、見られてると緊張するんだよ……」
椿の動揺した視線が頬に当たる。そののち、その視線は彷徨って、また俺の顔にたどりつく。
「木ノ瀬、俺、」
「……でも、昨日は、俺が悪かった」
「………、」
沈黙になると、下のほうの生徒のざわめきが、すぐそばの雨音に混じった。ここもけっこう寒い。流れこんでくる椿の手だけが温かい。その手が離されて、俺が顔を上げると、椿は俺の濡れた軆に抱きついてきた。
「木ノ瀬、好き」
噛みしめるように椿はそう言って、その甘い響きに、俺の心の暗雲もゆっくり晴れて、安堵へと溶けていく。
「……俺も椿が好きだよ」
そうささやくと、背中にまわる腕の力がいっそう強くなった。俺は自分の髪からしたたって濡れてしまった椿の髪を撫で、包みこむように抱きしめ返す。
そうして、初めてのキスから、俺たちの恋は始まる。
FIN