赤いクレヨン
目が覚めたとき、僕は血の海にいた。あたりに真っ赤なものが飛び散っていたので、一瞬、そんな気がした。
だが、カーテン越しの日影が照らしているのは、赤い液体ではなかった。僕の周囲に散らかっているのは、真っ赤な殴り書きをされた無数の紙だった。
クレヨンの匂いがした。僕は鈍重な動作で、まくらもとの一枚を拾った。スケッチブックを破ったものだ。赤いクレヨンが、何を描がくでもなく、ぐしゃぐしゃに塗りたくられている。
全身に汗を覚えながら、寝起きで腫れぼったい目でそれを見つめた。ふやける頭が徐々に眠気を絞り出すと、かすんでいた視界も鮮明になり、真っ赤は僕の瞳に飛びこんでくる。
銃で頭を吹っ飛ばした深紅だ。
まくらに後頭部を埋め、僕は半眼になって深い息を吐いた。吐息は紙にあたり、クレヨンの匂いと顔面に跳ね返ってくる。
「……毬音」
ぼやくようなしゃがれた声を発し、紙を脇に置いた。返事はない。僕は手をついて起き上がると、じっとりした前髪をかきあげ、陰惨な眼つきで部屋を見まわした。
毬音のすがたはなかった。ゴミ箱が倒れ、鏡台は潰れた薄暗い部屋で、僕は深紅にかこまれている。血の海のようでもあり、柩に敷き詰めた赤い花のようでもある。いずれにしろ、この深紅がしめす意味はひとつだ。静かに目を細めると、軆の上の紙をゆっくりとはらった。
「毬音」
落ち着いた口調だった。頭は気だるく冷えこみ、感覚に真っ白い空間が広がっている。煮え滾る炎も、荒れ狂う嵐もない。穏やかでもなく、無感覚だった。僕はふらつきかけた脚をしっかりさせると、深紅は踏みつけてふとんを降りた。
空き部屋に行った。ホコリが舞うばかりで、何もなかった。物置は掃除機や冬物の服があるだけで、押し入れにも普段のものしかない。玄関に靴はあった。カーテンを開けてもベランダは無人で、もちろん、まばゆく照らされるリビングも僕ひとりだ。
時刻は十五時過ぎで、外は瞳が腐りそうな青空が突き抜けている。相変わらず半眼の僕は、ため息をつくと、手をあてた首を捻った。
「……バカにしやがって」
平坦につぶやき、バスルームに行った。洗面所で隠れられるのは、洗面台の脇のタオルラックの陰ぐらいだろうか。一応いないのを確認し、ガラス戸を開けて、素足に冷たいタイルに踏みこんだ。
窓が吸いこむ光に室内は白い。一見何もないようだが、バスタブにふたがかかっている。それを剥ぐと、栓を抜かれた半地下方式のバスタブで、痣まみれの毬音がお姫様のように眠っていた。
僕はふたを巻き物にして、タイルに立てた。物音に毬音は目を覚まし、まぶたが腫れあがった顔を上げる。額にも痣が浮かび、頬にも顎にも紫色が染みつき、まるで踏みつぶされたブルーベリーのパイだ。僕は息をつくとこまねき、顎をしゃくった。
「出ろよ」
毬音は折り曲げた膝を抱え、そこに顔を埋めた。僕は毬音の髪を引っ張って顔を上げさせた。現れた腕を、強引に鷲掴む。毬音は嫌がったものの、非力に脱力が重なって敵わない。毬音をタイルに引きずりあげると、幼い虚脱を組み敷いて、「何あれ」と僕はひしゃげたブルーベリーを見下ろした。
「あの真っ赤のお絵描きは何ですか」
「別に」
「別にじゃないだろ、くそったれ。僕を殺したかったのか」
「別に」
「殺せなくて、あんな姑息なことやったんだな」
「別に」
そっぽを向く毬音の声は、子供の柔らかさをえぐられていた。僕は毬音の顎をつかみ、骨を捻じってこちらをむかせる。毬音は反射的に顔を顰め、けれど、泣かない。
「僕に死ねって言いたかったんだろ」
「いまさら死んだって遅いよ」
「殺せばよかったじゃないか」
「あたしはあんたのために大人になったときを壊さない」
「淫売にしかなれないくせに」
「淫売にはならない」
「どうだか。お前のこいつがどんなもんか、僕が今ここで検査したっていいんだ」
毬音の脚のあいだに、僕が軽く膝をあてると、毬音は激しい嫌悪を浮かべてもがいた。僕は身を沈めてそれを抑えると、「いいか」と至近距離で毬音の目に目を貫通させる。
「甘ったれんな。ここは普通じゃない。僕を親と思うな。僕はお前の保護者じゃない。僕はお前なんか気にしちゃいないし、お前が死んだって哀しんだりしない。僕はお前を自分の子供だなんて理由で尊重しないし、調子に乗っても大目には見ない。まともなことなんか期待するな」
毬音はかたくなな瞳で僕を見つめていた。僕は陰気な半眼のまま力を抜くと、毬音の上を離れた。膝をついて立ち上がると、押し黙って毬音に背を向ける。
冷蔵庫が空だったので、近くのスーパーで食料品を買いこんできた。帰ると、毬音が涼しいリビングで赤い絵をちぎり、寝転がったゴミ箱にそのクズを放っていた。こちらは無視する彼女に歩み寄り、僕は帰り道のコンビニで買ったスケッチブックとクレヨンを放り投げた。
毬音は寝顔に光をあてられたような渋面で僕を見た。僕は目を合わせず、キッチンに戻って冷蔵庫に食べ物をしまう。
止まっていた紙をちぎる音が再開すると、その音は陽が落ちかけた部屋で孤独に響いた。僕はスーパーで買った弁当を朝食にすると、シャワーを浴びて身なりを整え、いつのまにか涙の痕がある毬音を置いて勤めに出かけた。
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