青氷の祠-19

飛び出した朝に

 空中は薄暗さにイルミネーションを生かしていても、空はうっすらと白みはじめていた。冷めきった地面と熱される前の空のあいだで、空気はひととき涼しい。もう予約はなかった。僕が好きな客は交わる客が多く、今日は腰もだるい。日の光も浴びたくないし、僕は入り組む喧騒に紛れて部屋に帰った。
 ドアの前で鍵をさしこもうとしたとき、中で物音がして、手を止めた。耳を澄ますと、何かを投げつける暴力的な音が繰り返されている。僕は眉を寄せ、ドアノブをまわした。すると、かかっていない鍵にできたドアの隙間に、あのくせのある香水がただよって──
 ドアを閉めた。その場で、モーテルに行くか否か思案した。いらついていれば暴発準備万端で踏みこんだろうが、僕は悪くない気分だった。これを壊されたくない。これを壊されたら尋常でもない。引き返そうとしたとき、ばんっと突然ドアが開いた。
「どこに行く気よっ」
 顰め面で振り返ると、深海色のチューブトップワンピースを着た夏乃がいた。剥き出しの肩を怒らせ、強調されたきつい両目には、悪感情がごったがえしている。「忘れ物だよ」と白々しく階段に踏み出しかけると、夏乃は僕の腕をつかんだ。
「何だよ」
「あれ何よっ」
「あれって」
「あたしのドレッサーっ」
「地震来たんじゃないの」
「あんたとあのガキはそっくりねっ。あのガキもそう言ったわっ」
 ちょっと気分が悪くなった。相談していたわけではない。
「あれぐらいいいじゃないか」
「よくないわよっ。あたしにはあれが必要なのっ」
「そうだろうな。化粧しなきゃ、お前の性悪な顔は見てらんないよ」
「うるさいわね、あんたが言わないでっ。オカマを掘らせるばっかで、女なんてちっとも分かってないくせにっ」
 忌ま忌ましく夏乃の手を振りはらおうとした。が、彼女の細腕はときおり異様な怪力を発揮する。寝静まっていく明け方で、玄関先で怒鳴りあってもろくなことにならない。夏乃を中に突き飛ばすと、僕も玄関に踏みこんで後ろ手にドアを閉めた。
「弁償してよっ。あれはあたしのよ。あんたのじゃないわっ。だからあんたは、あたしに同じものを買わなきゃいけないのよっ」
 玄関に尻餅をついた夏乃は、髪を振り乱して錯乱気味にわめく。この女は、鏡台を壊されたのでこんなに怒り狂っているのではないだろう。男に捨てられたので、すべてがいらついているのだ。
「お前の稼ぎなら、自分で買えるだろ」
「あんたが壊したのに、何であたしが金をはらうのよっ」
「お前が僕から管理しなかったんじゃないか。僕がそういう男なのは分かってんだろ」
「あんたみたいなオカマ野郎が、そんな台詞言わないでっ。ホモがいなきゃ生きていけないくせにっ」
 僕は一気に眼球をたぎらせ、左手で夏乃の胸倉をもぎつかむと右手でその頬をぶった。
「るせえんだよっ」
 急に声がドスがきいて男らしくなる。
「僕の仕事に口出すのもいい加減にしろっ。僕はてめえみたいな低級淫売じゃないんだよっ。僕の仕事はお前の安っぽい仕事とはわけが違うんだ、お前みたいに腰振ってよがるだけじゃないっ」
「何よ、えらそうにっ。同じじゃない。あんたは男の前に行くと、すごい目をして甘ったれるわけね。どうぞ、僕のお尻を竿で引っかきまわしてくださいって。最低よっ。あんたを抱く男はみんな男じゃないわっ」
 僕はもう一度夏乃の頬をぶん殴り、胸倉を突き離して奥の壁にたたきつけた。
「僕を抱く男は、お前みたいな女に突っこむ男より、ずっといい男だっ。これからホモはもっと出てくる、お前みたいな女の生臭い穴より、野郎のケツのほうがいいってなっ」
「あたしに突っこんで、あのガキを作ったくせに何よっ。あんたが一番ホモを裏切ってるわ。そんなに言うなら男と暮らしなさいよっ」
「お前が帰ってくるのがおかしいんだろっ。そうだよ、だいたい何でいるんだ。縁切れたかと思ったのに帰ってきやがってっ。お前なんか帰ってこなくていいんだ、とっとと出ていけよっ」
「じゃあ、あの小娘をあたしによこしなさいよ、あれはあたしの子供よっ」
「やるよ、あんなクソガキっ。元はといえば、お前があのガキを堕ろさなかったのが悪いんだ。全部お前のせいだ、欲しいもん全部持って消え失せろっ。今日は僕はモーテルに泊まってやる、だからひとつ残らず荷造りして、明日にはここを出ていくんだ。いいなっ」
 スニーカーで夏乃の臑を蹴りつけ、悲鳴に口をつぐませると、さっさと部屋を出た。たたきつけるようにドアを閉めると、金棒で誰かの頭をかちわりたいいらだちが湧き上がってくる。舌打ちしながら階段を降り、指先まで満ちる暴力の欲求を持てあます。
 ドアを閉めたら、考えずに階段に向かうべきだった。そうしたら、こんなくだらない喧嘩はなかったのに。自分の不注意が憎ったらしい。
 夏乃があの部屋に来るのは、必ず男と問題が起きたときだ。あれはやつあたりなのだ。あの女は、切れると決まって僕の仕事を唾棄する。それが何も分かっていない言いがかりだからムカつく。夏乃の僕を切れさせる才能は、ありがたくもない一級品だった。
 朝陽もかえりみず、不穏な歩調で道を引き返していく。甲高い鳥の声が癇に障る。僕は感電をまとったナイフのごとく危険だった。空気も人通りも死んでいく道を、場違いな息の荒さで憎悪を燃やして歩いていく。
 夏乃がおとなしく荷造りして出ていくかは分からない。さすがにそろそろ、黙って部屋を移ろうか。手続きが面倒で遅疑してきたが、いい加減、あの女の首をへしおりそうだ。毬音が問題でも、猛烈に引き取りたくないわけでもない。ゴミ捨て場に置くよりは連れていく──毬音が僕との同居を望めば、だけど。
 すっかり朝だった。雲は多くとも、合間に覗くのは青空で、悪天候ではない。適度な涼風が心地よかった。帰りがけには夜の名残があった街並みは、終わりを迎えている。僕以外のうろつく人間はゾンビだ。そんな景色になじもうと意識的に歩調を静かにさせ、深呼吸しつつ歩いてみた。だが、雑音の幻聴は額に燻され、唇を噛んで顔を真正面に上げる。
 そして、足を止めた。いや、止まった。はるか前方、僕の正面にたたずんでいる人がいた。
 僕を見つめているのが分かる。誰かは分からず、眉を寄せた。
 男、ではある。黒いTシャツにジーンズを着ている。光樹だろうか。いや、髪は黒い。豹さん──はあんな格好はしない。弓弦──は用がなければ僕は放っておく。客、男娼──誰、と目を凝らそうとしたとき、その人が足を踏み出して歩み寄ってきた。
「碧織」
 馴れ馴れしい呼びかけで、彼は持っている煙草の煙をなびかせた。どんどん鮮明になっていくそのすがたに、僕は刹那、すべてを失った。ついで動揺に表情が息絶える。見取れてくる彼の容姿が、懐疑を容赦なくそぎおとす。脚の長いしなやかな軆つき、腕や首のなめらかな白い肌、ほっそりと綺麗な顎、新鮮ないちごの唇、大きな黒い瞳──緩い涼風に、艶やかな黒髪がしっとりと揺れる。
「久しぶり」
 彼は僕の正面に立ち止まった。落ち着いた声でそうにっこりとした彼に、僕は心停止した。
 信じられなかった。夢だろうか。幻覚だろうか。だってまさか、そんな──胃に鈍痛が走り、息が苦しくなる。乾涸びる呼吸に引き攣りそうな声で、僕は瞳の色を喪失するままつぶやいた。
「珠生──……」

【第二十章へ】

error: