青氷の祠-20

回想【4】

 蛍華さんの恋人が、初めて僕の寝床に来たのは、九歳のときだった。それから家出までの二年間、僕はたくさんの蛍華さんの恋人に抱かれた。
 蛍華さんは穴の数に男の数を合わせられなかったので、いつだって余った男がうずうずと待機していた。部屋にやってきて、何時間も蛍華さんを待つ。仕事で遅くなる蛍華さんを。あるいは、ほかの男に入り浸る蛍華さんを。所在なく待つのに疲れると、男は部屋の隅で寝入る僕に近づき、そっと軆に触れてきた。
 言葉はない。男は僕の毛布を剥いだり、毛布の中にもぐりこんできたりする。ごつい腕で幼い僕を抱きしめ、全身をたっぷりと愛撫する。うなじ、背中、そして内腿──すべすべの肌を、指の腹でくまなくほぐし、僕の軆をじっくり温める。
 僕がほてりに柔らかくなると、男は何も言わずに僕をつらぬいた。僕の中に、いっぱいに腫れあがった男の一部がぴったりおさまる。ぎゅっとつぶっておかないと、陶酔のあまり目を剥きそうだった。やがて男は僕の中に欲望を放ち、黙って性器を引き抜く。
 男は再び僕を腕に抱いて、髪を撫でた。僕は揺りかごのようなその揺すられ方にうっとりとし、男の胸に頬をくっつけて心地よい熟睡に戻った。
 僕は自分を抱いた男が、どんな男だったかを知らない。すべて暗闇で行なわれたというより、ずっと目を閉じていた。目を開けて起きていると知れた途端、この愛の行為をやめられてしまいそうで怖かった。
 もちろん男は、僕が起きているのは知っていただろう。それでも、眠りこむ軆をまさぐりたい彼を分かっていたので、おとなしく睫毛を伏せていた。神経はぴんと冴えわたらせ、彼の愛撫をひとつも知覚から逃すまいと必死だった。ゆえに匂いや吐息、体温や指遣いでその人がいつ何回僕を抱いたかは憶えている。
 初めてのときは驚いた。嫌ではなかった。この肌を愛おしんで這う手が嬉しかった。鼻息にこもる興奮にどきどきした。激しい熱で僕を温める男根が心地よかった。蛍華さんの身代わりなのは分かっていても、それでも蛍華さんのものを盗んだような快感がぞくぞくした。僕はあの闇にうごめく男たちが大好きだった。そしていつしか、蛍華さんを待つ男を待ち侘びるようになった。
 僕がそんな男たちの愛撫に瞳を潤ませたのは、男娼としての発芽もあるけれど、生活がきしみはじめたせいでもあるだろう。蛍華さんからの嫌悪も順調だったし、何と、光樹が街からいなくなってしまった。
 男に手を出されたのが九歳になった初夏で、その冬のことだった。光樹の母親の陽香さんが、まともな男とまともな恋に落ち、足を洗ったのだ。
 秋頃から、光樹は嫌な予感がするとは語っていた。
「あの人の名前言いながら、自分でしたりしてんだよ。男なんかさんざん知ってて、知りすぎてうんざりしてるぐらいなのに」
「その人は陽香さんをどう想ってるの」
「好きみたい。僕も入れてごはんに連れてってくれたりする」
「光樹は嫌い?」
「その人は嫌いじゃないよ。ただ、もしかして、結婚とかなったら──かあさん、仕事続けるかなって」
 涼しくなった夜風に頬をさらし、僕たちは道端に座っていた。暗闇に抜けるネオンの中、目の前にはいろんな大人が行き来している。冬が深まり、光樹の不安は的中して、陽香さんは淫売家業を断ち切る決意を固めた。そして、この街を出て、外に暮らす──。
 このとき、光樹は十歳で、やろうと思えば男娼になれた。実際、光樹は軆を売って自分で食べていくから、この街に残ると陽香さんに言った。が、そんなことを言ったので、かえって連れていかれてしまった。
 外に引っ越す日、光樹は様子を見にきた僕の隣で目を赤くしていた。僕は光樹の手を握った。光樹は僕の肩にもたれた。「遊びにきていい?」と光樹は僕を見つめ、僕はうなずく。光樹は再び僕に寄りかかり、「行きたくない」と泣きそうな声でつぶやいた。
 外に行っても、光樹は頻繁に街を訪ねてきた。陽香さんにはいい顔をされなくても、譲れなかった。「ここでしか息ができない」という光樹の言葉は、大袈裟な泣き言ではなかった。光樹の頬はこけ、瞳の豊かさは色あせた。
 光樹は人前では泣かないほうだった。自転車を乗りこなす練習で僕が転び、膝が大きく擦りむけたときには涙を浮かべたが、自分のための涙はさらさなかった。でも、外に置かれて、この街に逃げこみ、僕の前で初めて光樹は泣いた。
 光樹の話で、僕は学校というものを知った。この街にも町と名がつくからにはどこかに公立校があるのだろうが、廃校同然と化していると思われる。ちなみに、町として存在が義務の役所や警察署は中枢に密集し、この街に毒されている。光樹は教室や授業や集団行動を語り、男娼になったほうがいいと僕の肩に顔を伏せた。
「ひどいよ、あんなの。ぜんぜん分かんない。勉強もクラスメイトもわけ分かんない。宇宙人の中にいるみたいだよ。殴ることには顔を顰めるくせに、僕を一斉に笑うことには何も感じないんだ」
 逃げこめるこの街があるのと、精神が安定した陽香さんが、光樹の支えだった。それでも、街には毎日来れるわけでもない。ここにいた頃のように僕とも遊べず、それは光樹だけでなく、僕の心も陰らせた。
 光樹がいないのはつらかった。光樹がそばにいなくなり、僕は初めて別離の胸苦しさを知った。そして、ちょっと蛍華さんの気持ちが分かった。男に捨てられるたび、蛍華さんもこんな気持ちなのか──そう思うと、僕はますます蛍華さんの暴力をあきらめた。ひとりで遊びまわる気もしなくて、部屋にこもっているうち、自転車も盗まれてしまった。ぽっかりした想いを胸になずませ、僕はさらに男との闇の時間を増やしていった。
 そして、僕の生活がきしんだ最大の要因には珠生がいた。蛍華さんの憎悪は日常で麻痺していたし、光樹の不在は不快というより疼痛だ。珠生が僕によからぬものを蓄積させる悪魔だった。
 光樹がいなくなってまもなかった一月、窓辺で雪を見ていた。周辺の部屋の明かりが粉雪にきらめき、闇夜は幻想的に明るい。男も来ないし、光樹とこの景色を眺めることもできない。ヒマだなあ、と息にガラスを曇らせていると、不意に背後で物音がして、僕は振り返った。
 午前四時で、蛍華さんが帰ってくるには早い。蛍華さんの恋人か──そう思って窓辺を降りた僕の予想を裏切り、顔を出したのは珠生だった。
「電気ぐらいつけろよ」
 正確には、その澄んだ声で珠生だと分かった。腕を伸ばして明かりをつけた彼は、暖かそうな黒いコートを着ていた。蛍華さんが僕の目の前で包みを開け、珠生に着せていたコートだ。またこいつらの親子ごっこ見るのか、とうんざりしたら、珠生のあとに蛍華さんはついてこなかった。
「蛍華さんは?」
「仕事」と珠生はドアを閉め、暖房もつかない部屋に細身を震わせる。
「今日は泊まるから、帰りたければ帰れって」
「ルミコねえさんとこにいればいいじゃないか」
 ルミコねえさん、というのは蛍華さんの店を取りしきる“やり手”だ。半世紀は生きているが、みんな「ねえさん」と呼ぶ。娼婦たちの事務が現在の仕事でも、店の裏のねえさんの部屋には今でも玄人な男が通う。珠生はねえさんのその部屋に預けられたこともある。
「あのおばさん、この頃、俺に色目使うし。筆おろしさせろって」
「ふうん」と僕は窓に向き直る気もせず、壁にもたれて床に座った。珠生は、じっと僕を見つめる。
 珠生の人の見つめ方は嫌いだ。小首をかしげ、長い睫毛越しにじっくりと直視する。
 僕が眉を寄せると、彼は形容しがたい微笑をこぼした。全知も無知も、親愛も侮蔑も、さまざまなものを混ぜこんでいるのに、艶やかに澄んでいる笑みだ。僕はそっぽをして、抱えこんだ膝に頬をあてた。
「碧織って、いつもこの部屋で何してんの」
「別に何も」
「光樹もいなくなったし、いつもひとり?」
 唇を噛んで腕に力をこめた。光樹と珠生は顔見知りだ。珠生は光樹にはにっこりして、光樹も珠生を僕ほどには嫌悪していない。どうしても珠生が気に入らない僕は、光樹との溝も危懼したけど、光樹は僕を優先してくれた。
「碧織って、光樹のほかに友達いないの?」
「お前には関係ないだろ」
「いないんだろうな。あんた、つきあってみたいなって思わせないもん」
 まぶたの裏に力を目をこめ、どぎつい何かをこらえた。僕は連綿と罵り倒すのは得意でも、機知のきいた短い皮肉は下手だった。僕の量と珠生の質、どちらが上かは分かる。
「暖房つけていい?」
「……勝手にすれば」
 口をきかないことでしか、身を守れない。珠生の皮肉は、こちらの台詞を逆手に取ったときが特に鮮やかだ。こいつに揚げ足を取られたくなければ、だんまりになるしかない。抵抗なのに、それは屈伏のようで、彼の前で唇を噛んでいるとひどい屈辱を覚えた。
「光樹は外で楽しいかな」
「……さあ」
「光樹は悪い奴じゃないし、すぐに碧織以外の友達できるよ」
 この時点では、光樹は外に行ったばかりで、僕はまだ光樹の泣き言は聞いていなかった。光樹がいい奴なのは、僕が一番知っている。すぐに僕以外の友達ができる。そうなのかな、と光樹が外に染まってここに来なくなるのを想像し、胸苦しさを感じた。

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