雑音の中で泡沫

 今日も何事もなかったように教室は騒がしい。爆笑する男子、はしゃぐ女子、担任が来たら帰りのホームルームだ。
 今日も、か。こんなに叫んでいるのに。痛々しいほど叫んでいるのに。あたしの悲鳴など、この雑音の中では誰にも気づかれず、絶対に届かない。
 七月に入って数日が経ち、教室は窓でなまぬるく空調されている。エアコンがついた最先端の中学校じゃない。
 窓際の一番後ろという、教室内の孤島にいるあたしは、頬杖をつく。ちらりと下目をすると、半袖の制服で隠しもしていないアムカが、でたらめに絡み合っている。
 昨日の夜もやった。初めは軽い気持ちだった。こうすれば、誰か気づくかもしれない。
「それ、どうしたの?」──誰からでもいいから、この言葉を待っていた。でも、誰もあたしの精一杯の声なんか聞いてくれなかった。親さえ気づいてくれない。
 だんだんそれにいらついてきて、どんどんアムカはやつあたりになって、今ではすっかり自傷として中毒している。
 心に積もるのは憎しみだった。憎くてたまらなかった。あたしをイジメた女子のグループ、見て見ぬふりをした男子、みんな死ねばいい。
 何なら、あたしが殺してやったっていいのだ。ちょっと前に流行った映画みたいに、このクラスでサバイバルゲームが始まったら、最後のひとりになる自信がある。この教室に、許せる奴なんかいない。
 あたしは、この教室で空気以下だった。空気のほうがマシだ。消えたら呼吸ができなくなって、みんな、“気づく”。あたしは気づかれない。消えたって、誰も気に留めない。こんなにずたずたの悲鳴を上げているのに、あたしの声は、届く前に泡のようにはじけてしまう。
 一時期は、泥を投げつけられたり、背中を押されて転ばされたり、接触のあるイジメだった。でも、あたしは無言で制服をはらって去っていく、そんな反応しかしなかった。そんなあたしに、イジメっこ──夏帆かほたちは逆撫でられて、次にやってきたのがあの話合いだった。
上崎うえさきが、自分で自分の指に安全ピンを刺したそうだ」
 左腕のケロイドをなぞっていたあたしはぎょっとして、深刻そうな教壇の担任を見た。
 上崎って、夏帆? 何であいつが。あたしはあいつのせいで、左腕をこんなにぼろぼろにしているのに。
 夏帆の席に目を滑らせたけど、夏帆は休んでいる。
「本人は誰とは言ってくれないが、理由はあるみたいだ。戻ってきたら、クラスのみんなで気遣ってやろう」
 教室に、梅雨の真っ最中なのもあって、どんよりした暗さが立ちこめた。関わりたくないよそよそしさがただよう中、あたしは怒りで震えそうだった。
 気遣う? あいつを? 何で!
 あいつのせいで、あたしがこんなに追いつめられていることは無視されているのに。あたしをイジメたあいつが被害者になるの? だいたい、指を刺すって、それが問題になるなら、あたしの左腕は何なの?
「夏帆は、あんたのせいで傷ついたんだから」
 話合いのあとの放課後、帰ったらまた切らなきゃと思っていたら、夏帆の取り巻きがふっと近づいてきて言った。あたしを軽蔑するその目を見て、一瞬、わけが分からなかった。宇宙人に話しかけられたみたいだった。
 声も出せずにいると、彼女はとんでもないひと言を発した。
「あの子は、あんたと仲良くしたかったんだよ」
 彼女を凝視した。
 仲……良く? 何言ってんの、こいつ。
「でも、あんたが冷たいから、もう嫌いだってさ。ほら」
 彼女はスマホを突き出して、あたしは必然的に表示されている画面の文章を見た。
『もうあの子には疲れた。
 こういうの、はっきり言いたくないけどさ、嫌い。
 死ねばいいのにね。』
 ……は?
 何。何このメール。意味不明にもほどがある。まるで、あたしのほうが悪かったみたいではないか。
 泥を投げついてきたのはあんたじゃない。突き飛ばしたのはあんたじゃない。
 何なの。あたしがめそめそ泣かなかったから? だから、「嫌い」で指を刺したっていうの?
 あたしはあんたのせいで傷ついた。アムカに中毒するくらい、怒りや哀しみにまみれた。
 それじゃダメなの? 「こんなのやめて」とでも土下座でもしてほしかったの? あんたは、あたしにいったい何を望んでいるの?
 そうして、夏帆のことはあたしが原因だとうわさが流れ、現在はクラスから無視されている。夏帆はあの話合いの日以来、学校を休んでいた。
 七月の席替えでこの席になって、ほとんど教室を遊離している。晴れ渡る窓の向こうを眺め、ここから飛び降りて死ねばいいのかな、なんて考えている。
 もう、死ぬことでしか人に何も伝えられないのかもしれない。三階のここから飛び降りて、嘔吐したみたいにぐちゃっとつぶれて、初めて傷を見てもらえる。アムカ程度じゃ声は届かない。それなら、死んででも伝えたい。
 あたしを嫌いだといった夏帆、軽蔑した目を刺してきた取り巻き、そんな奴らはあたしの死体を見て笑えばいい。「あーあ、死んじゃった」って死体を足蹴にすればいい。
 間違っても、泣いたり悔んだりしてはいけない。あたしを傷つけた自分を信じて、絶対に、あたしの死体を見て笑わなくてはならない。
 そんな夏帆たちの反応で、やっと周囲は、彼女たちが異常だと理解してくれるだろう。
 死ねばいいのだ。死ぬことでしか気づいてもらえない。死ねばみんな認めてくれる。この、屈辱に溺れた心を見てもらえる。
 ため息をついて、つくえに伏せった。
 本当に、死にたい。逃げたいとか、そんなのじゃない。誰かに気づいてほしい。誰かに声をかけてほしい。“構ってちゃん”なのは分かっている。でも、ひとりでかかえこむのはつらいのだ。誰でもいいから、あたしの傷を認めてほしい。死をもってしてでも。
 そのとき、教室のドアが開いた。クラスメイトたちは、慌てて席に戻る。あたしは身動きもせず、堅いつくえに額を当てている。
「ホームルームの前に話があるぞー」
 どうせ、期末考査のことか何かだろう。たかをくくって傍目には寝たふりに見える姿勢を崩さずにいると、なぜか教室がざわめいた。
 何、とようやく顔を上げたあたしは、大きく目を見開いた。
 担任のあとについて、おずおずと教室に入ってきた、同じ制服の女の子がいた。いつもは縛っている髪をほどいて印象は違うが、見間違えるわけがない。
 夏帆だ。
「上崎は、学校を休んでるあいだにも家で勉強しててな。試験もちゃんと受けたいって、勇気を出してまた学校に来てくれることにしたそうだ。だから、みんな──」
 担任の話なんか、すーっと素通りしていく。夏帆はちょっと顔を上げ、素早く教室を見まわした。かちっとあたしと目が合った。瞬間、ぞっとした。あたしと目が合うと、夏帆は笑顔を作って、小さくピースサインをしたのだ。
 目をそらし、激しくなっていく動悸に服の胸元をつかんだ。
 担任が何か言っている。取り巻きが「つらかったねえ」とか声をかけている。男子たちもざわついている。
 雑音が息苦しかった。まるであたしにだけ、空気が届いていないようだ。
 やばい。どうしよう。せめて空気にならなきゃ。消えたら気づいてもらえるくらいにはならなきゃ。そしたら、そのためには──
 感覚を失った目のまま、カーテンを踊らせる窓を見た。そう、ここから飛び降りればいい。そして、夏帆はみんなの前でピースサインをやらなくてはならない。
 絶対に泣くな。間違っても同情するな。くだらない後悔はするな。
 あたしが嫌いなら、死ねばいいというのなら、みんなの前であたしの死体をないがしろにして、喜びのあまり笑え。
 一度震えた深呼吸をすると、がたんっと席を立った。その大きな音で、初めて教室の雑音を切り裂いた。
 何か声がかかったけど、もう遅い。
 あたしの悲鳴を、鼓膜が破れるほど聞けばいい。すぐ消える泡じゃなく、焼きつく発狂をこいつらに伝えてやる。
 あたしはゆっくり窓に歩み寄り、手すりに手をかけた。

 FIN

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