非常階段-67

雪に染まりながら

 その日は、俺の周りはまだ足痕のない淡雪のように静かだった。
 弓倉はとうに他人になっているし、実は矢崎は三学期になって一度も登校していない。望永は坂巻が風邪で休み続けてひとりでは行動しないし、結浜も俺と中庭でデートごっこなんかしていたせいか、今日は休みだった。舞田は俺があのあと開き直って冷酷に無視し、なのに結浜とは話すような態度を取っていたら、どういう解釈をしたのかは分からないが仲間とぶつぶつ言うだけが多くなった。
 しかし、すっかり因果的な妄想癖がついた俺は、こんな日だから何か悪いのが来る、と構えていたらやっぱり来た。
「塩沢くん」
 波打つ髪をスーツの肩にやり、毒林檎のような口紅がそう俺に笑いかけてくる。今回も呼び出しは放課後だった。話しこむ気なのか、今日は彼女は生徒指導室に電気ストーブを入れる。そして正面に腰かけるのを、俺がとまどった目で追っていると、榎本は後ろめたい愛想咲いをした。
 彼女はみずから弓倉との癒着を語ろうとはしない。無論、俺のほうからあいつの名前を口に出すこともない。というわけで、話題にものぼっていないのだが、弓倉への工作が発覚して榎本は余計に俺に遠慮がちになっていた。
 でも、心からではないように感じる。せっかく細工してやったのに、ぶち壊しやがって──そう思っている気がする。猜疑心だけはたくましくなったものだ。
 今日は軆の端々に限らず皮膚が麻痺するような、蒼みがかって薄暗い日でもあった。榎本の向こうの窓では、粉雪が風に舞いあがっている。
 二月が近かった。
「今日はね、ゆっくり話したいことがあるのよ」
 俺は爪先を眺めている。段ボールの再生紙の臭いがする。普通に考えたら、二年生も残りひと月半になって、いまさら折り入って話なんかないと思う。時間帯的に、廊下では足音が頻繁に聞こえていた。
「塩沢くんのこれからのことなのよ。三年生になっても含めた」
 俺がわずかに顔を上げると、榎本の冷たいアイラインの目は無理な笑みを作った。
「二年生になったら、塩沢くんが快適に学校生活を送れるように先生も頑張ったんだけど、力になれなくてごめんなさいね。ひどい一年を送らせてしまって」
 俺は湯気を失ったコーヒーのように冷めた目を脇に放った。
 どうせ、誰が何を頑張っても、ひどいことになっていた。
「でも、三年生になってもこんな毎日を送る必要はないわ」
 何をしたって変わらない。三年生もきっとこんな毎日で、とっとと死んでおけばよかったと思いながら、この学校を卒業するのだ。
「それで先生考えたんだけど、いっそみんなを離れてしまうのはどうかしら」
 三年生でも担任になって尽力する。そんなとんでもない予想に飽き飽きしていた俺は、思い設けない提案に目を開いた。
「えっ……」
「塩沢くんはね、みんなにああいうことされても仕方のないところはあると思うのよ」
 もっと目を剥いた。
 何。何て?
「別室登校っていうのかしら。それでも出席日数は取れるし、試験もそこで受けられるわ。一般の教室に登校するのと何にも変わりはないの。クラスメイトがいないだけね。自習ってわけじゃなくて、手の空いた先生が顔を出しにもいってくれるわ」
 耳を素通りする説明に、張りつめた目と喉が次第にヒビ割れていく。心臓の奥が浅まり、色褪せていく視線が床に息切れする。
 仕方ない──……
「あ、保健室は保健の先生がもうそういう生徒がいっぱいだからっておっしゃってるの。だから、どこかにひとりになれる教室を手配するわね。それに、そういうところなら、カウンセラーの先生のほうからそこに顔を出してくださるようにも頼めるの」
 俺がちらりと上げた目は、榎本には怨みがましい、責めるような目に見えたらしい。彼女は咳払いをして座り直すと、背中に棹を入れ直した。
「あのね、分かってちょうだいね。先生も塩沢くんひとりには構っていられないのよ。塩沢くんは普通の子とは違うんだし──」
 心臓に光速の弾丸がすりぬけるのを感じた。視界が鼓膜が蒼ざめ、虚脱し、流産の子供みたいにため息がもれていく。
 じゅうぶんだった。手提げを取ると、椅子を引いて立ち上がった。
「じゃあ、もういいです」
「えっ」
「俺のことは気にしないでほっといてください」
「あ、ち、違うのよ。先生、そんなつもりじゃ──」
「いいんです。逃げるぐらいなら、殴られてるほうがいいです」
 言い訳なんか聞きたくなかった。要するに、厄介払いだろう。榎本が音を立てて立ち上がろうとし、それには見えないふりをして、暖まりかけた生徒指導室をあとにした。冷えこんだ廊下にはちょうど誰もいない。後ろ手にドアを閉めると、胸の奥からせりあげた衝動的な痛みに、足元もこぶしも息苦しく震えた。
 あの言葉の選び方は何なのだろう。むごすぎる。さすが弓倉と手を組んだ奴だ。あいつも言っていた、俺を問題児だと。
 俺はそんなのじゃない。そちらがそう受け取っているだけだ。甘やかされたいとは思わないけど、虐げられるのが現実だとは思いたくない。
 俺は特別になりたがっているのではない。地味な凡人でいいのに、なぜ有名になろうとする奴が醜聞でたたかれるように、とやかく注視されなくてはならないのだろう。
 雪が睫毛や髪に積もる中、ひとりで家に帰った。足痕で雪がぐちゃぐちゃな路面のみ見つめ、音は何が聞こえても気にしないようにする。指先や爪先、嗅覚もひりひりにかじかんでいく。
 あんな奴らは軽蔑する。みんなみんな無視してやる。そう耐えがたい土砂を抑えようとしても、どうしてもあいつらが憎かった。
 あんなふうに言われて、すごく悔しい。そう、俺はあいつらに屈伏したくなくて非常階段を降りないのだ。でも憎悪が夜、ベッドに入った頃に虚しくなるのも、この一年と数ヵ月で学んでいる。
 憎しみなんて疲れるものは、感じないに越したことはない。だが、日常生活にいつづける限り、俺は逃れられない。榎本の言う通りみたいなのは癪だ。だけど、やっぱ学校辞めたほうがいいのかな、と真っ白な息にまぶたを崩し、ひるがえるコートの裾を雪に染めていった。

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