非常階段-70

修学旅行【2】

 最終日の朝だった。昨日は結浜はぜんぜん近づいてこなくて、ついそのすがたを捜しそうにもなったが、罪悪感に過ぎなかったので視線を足元や正面に据えつけていた。今朝もそうして、朝食後とっとと点呼の八時までに部屋に帰ろうとしていたら、鋭さを帯びた女の子の声に呼び止められた。
「塩沢っ」
 入口の観葉植物の脇に立ち止まって振り返ると、駆け寄ってくる髪の長い女の子がいた。舞田かと思ったが、舞田は俺を呼び捨てにしない。俺と観葉植物のあいだを通って正面に立ちはだかってきたのは、確か浦部うらべという女子生徒だった。取り巻きのようなのはついてこない。
「話があるの」
「……何」
「ちょっと来て」
 浦部はぱっと俺の腕をつかむと、人目の中、俺を引っ張っていった。何かここんとこ女子と話す機会が多いな、とつんのめりそうになりながら、仕方なくついていく。
 彼女は真っ白なジャンパーを着ていて、そのナイロン生地を日本人形の切り揃えられた髪が流れていた。彼女は俺を階段に面した、人気のない廊下の突き当たりに連れてきた。食堂というより調理場が近いのだろう、朝食の匂いが少しただよっていた。
「何」
 浦部はさらに数段階段をのぼり、廊下の死角に入った。上の踊り場の窓が朝陽を通している。建物の隅だし、従業員ぐらいしか使わない階段なのだろう。
「何なんだよ」
 浦部は俺の腕をはらうと、こちらを振り返って髪を背中にやった。後ろすがたは綺麗でも、顔は整形じみた鼻や頬の線がぎすぎすしていて、あんまりかわいくない。
朋奈ともなのことよ」
「は?」
「朋奈よ、しらばっくれないで」
 トモナ──確信がなくて、眉を顰めた。
「結浜のこと?」
「そうよ。あの子、昨日から寝こんじゃってんだからね。理由は分かってるでしょ」
 意気ごむ彼女に臆し、上方に視線をずらす。壁には窓枠の影が伸びている。
 まあ、あんな寒さの中で風邪をひかないほうが変か。俺も実は熱っぽくて、こめかみの疼痛が絶えない。
 だからいらいらしていて、言葉遣いも普段よりトゲっぽくなってしまった。
「帰って病院に行けば治るだろ」
「ふざけないでよっ。あんたに振られて、朋奈がどれだけ傷ついたと思ってるの」
「え、寝こんだのは風邪なんじゃ──」
「そんなわけないでしょ。ほんと無神経ね」
 俺は頬をひくつかせたが、何も言わなかった。ともあれ、これは女が好きな代弁という奴らしい。そういえば、この女は結浜の友達だった。
「君が口出すことじゃないだろ」
「あたしは朋奈の親友なの。ほっとけないの。あんたって最低よ」
「そう言ったのは君が初めてじゃないけど。結浜は君がこうしてるの知ってんの」
「言われなきゃやってあげないなんて、友達じゃないわよ」
 また視線を上方に放ってため息をついた。こういう行動は女特有で、男には分からない。つきあいたくなくて階段を降りようとすると、すかさず腕をつかまれた。振りはらおうとしても、熱っぽい軆は脱力しがちで彼女の力も頑固だ。
「離せよ。俺はこんな話、君以外の奴と何度もしてるんだ」
「朋奈の気持ちを分かってあげなさいよ。あの子ほんっとにあんたのこと好きなんだから」
「君だって嫌いな男に好意持たれたら、それが真剣なほど迷惑だろ」
 浦部の眼が三角定規みたいにとがる。
「朋奈の気持ちが迷惑だっていうの」
「頼むからほっといてくれ。君の話はみんなと同じだ。じゅうぶん聞かされてることなんだよ」
「朋奈はあんたに傷つけられたんだからっ」
「好きでもないのに嘘でつきあえっていうのか。そんなの、一番彼女を傷つけると思ったから、」
「嘘よ。あの子が女だから振ったんでしょ。ゲイなんて男じゃないわ。間違ってる。女だからつきあえませんなんておかしいわよ。朋奈は正しいの。あの子は女で、あんたは男だもの。あの子は当たり前にあんたに惹かれたのに。あんたが変なの。あんたは女をバカにしてるわ」
 俺は顔つきを迷わせたが、どう言えばいいのか分からなかった。女は男より悪いとか、そういうふうには思っていない。較べてなんかいない。対象じゃないだけだ。
 でも、どう言っても同じだろう。俺がもう一度つかまれた腕を取り返そうとすると、浦部は咬みちぎる牙のように手を食いこませてきた。
「これからあんたは、あんたに惹かれた女を全部そうやって傷つけていくの? だったら、学校とかに来ないでよ。そんなことしてたって、朋奈みたいな普通の女の子を傷つけるだけなのよ。どっか消えちゃえば」
 まぶたを開いた。浦部は俺にめいっぱいの敵愾心を突き刺すと、今度はみずから俺を押し退けて廊下を走り去っていった。俺は押し退けられたまま、階段の手すりに寄りかかり、途切れた瞳にややかかったあとまばたきを回復させた。こわばったため息がもれる。
 消えちゃえば──
 その日の昼にペンションを出て、夕方に学校で解散した。ひとりで夜道を歩いていった。弱い吐息もはっきり白かったのを憶えている。
 真っ白な麻痺状態ではなくなっていたけど、これまで精一杯息づこうとしていた心をあっさり踏みつぶされた、限度を超えた痛みに肺が消え入りそうだった。血痕が、また胸の奥に深く根づく。
 その日は日曜日で、家には家族みんながいた。俺は迎えたかあさん以外とは顔を合わせずに部屋に直行し、着替えや整理を済ますと、ベッドにもぐりこんでいまだにこうしている。
 今は月曜日の昼だ。カーテンがかかって薄暗く、外でときどきする物音が癇に障る。ストーブも入れていなくて、自分の熱っぽい体温が頼りだ。ふとんやまくらの慣れ親しんだ匂いだけが、居場所であるように感じさせて気持ちをなぐさめた。
 消えちゃえば。そういう言われ方をされたのは初めてだった。死ねとか失せろとか言われたことはあるが、あの台詞の風味はそれらとは違った。俺を日常世界からはじきだす言葉だった。つまり、非常階段を降りろという言葉だ。
 女の子たちを傷つける。あの言い分は、自分でも考えたことがあって、一理あると思ってしまう。自分を好きになる人間がそう多くいるとも思わないが、可能性はゼロではない。これからも何回か、女の子を結浜のような目に合わせるのかもしれない。
 それは明らかに害だ。自分で考えたときは、異性愛と同性愛が共存するには避けられない痛みだと思った。それは、同性愛者のわがままなのだろうか。
 頭までかぶったふとんの向こうに、ノックが聞こえた。かあさんだろう。帰ってきて何も食べていない。けれど、胃はどろどろに重油汚染されたようで、何を食べてもそっくり吐いてしまいそうだ。
 軆がぼんやり熱く、起き上がろうとしても力が関節にかからない。風邪が悪化しているのかもしれない。「開けるわよ」というかあさんの声にくぐもった声を返すと、かろうじてその場にぐったり座りこんで、首だけドアに捻じった。
 熱が三十八度から下がらず、火曜日も水曜日も学校に行かずにベッドで過ごした。学校にいて嫌なことがあると、病気になって休めていたら、と考えるのは小学校のときからあるよこしまだ。だが、本当に病気になり、工事の音みたいに響き続ける頭痛にさいなまれると、病気になって学校を休んでも大して意味はないと思い直す。
 くしゃみより咳が止まらない。ただでさえ喉がひりひり腫れているのに、夜にはずいぶん隣に気を遣う。動作が重たく粘つき、耐えず脳内を槌が打ってくる。最高八百ワットの電気ストーブだけの部屋なのに、汗がべたべたと滲む。
 こんな大風邪をひいたのは久しぶりだ。唇がすぐ乾からびるから、ベッドスタンドには五百ミリリットルペットボトルのミネラルウォーターがある。そのそばには、おとといの午後に連れていかれた病院で処方された薬もあった。
 今は、喉を気にしながらお粥の夕食を食べ終えたところで、平たくしたふとんの上にお盆を置いている。カプセルと錠剤も飲んだ。頭痛が抑えられて、だいぶ楽だ。ティッシュで鼻をかむと、何かのバチかなあ、とぼったりしたまぶたの下で視線をうつろわせる。
 そうだとして、俺は何を罰されているのだろう。結浜に手を出そうとしたことか。あるいは手を出さなかったことか。
 ため息まで熱っぽい。頭が痛かったら痛かったでたまらないけど、落ち着いていても考えごとで自虐する。
 消えちゃえば。あの心ない言葉が、ぐるぐるとめまいを渦巻かせている。
 時刻は二十一時が近い。お盆をよけて、ベッドを降りてみた。だるさのわりにふらふらとはせず、だったらお盆を一階に持っていくことにした。こんなのが軆の上にあっては眠れないし、床におろすなら、ついでに片づけたほうがいい。何より、かあさんがこれを取りにくるのを待っているあいだ、考えごとをするのが嫌だった。持っていったら寝よ、と迷彩柄を羽織ってお盆を取り上げると、部屋を出た。
 廊下は幽霊の通り道みたいに冷えこんでいた。雪乃ねえちゃんの部屋が光をもらしている。鳥肌がこみあげ、身動ぎで上着をもうちょっと深く着ると、足取りがかじかまないうちに階段を降りた。
 テレビがついていないのか、一階は静かなようだ。もれそうになった咳をつい抑え、俺は半開きから明かりを漏らす引き戸を開けようとした。
「じゃあ、今週いっぱいぐらい、柊は学校休むのね」
 だが、そんな雪乃ねえちゃんの声につい引き戸の陰に隠れる。あれ。部屋にいるのではなかったのか。
「具合にもよるけど、そうね。たぶん」
「修学旅行で何かされたんじゃないの」
「何かって」
「……別に」
 ずっ、と何か飲む音がした。答えているのはかあさんだ。とうさんはどうやら帰っていない。
「咳止めの薬でもやってよ。集中できないわ」
「我慢してあげなさい。病気なんだから、仕方ないでしょ」
「かあさんって、柊のことばっかりね」
「雪乃にも迷惑はかけてると思ってるわ。今週が受験なのに──私立のほうだったわね」
「滑り止めのね。第一志望は来月。もう分かんないわ。落ちたって責めないでよね」
「そんなことしないって言ってるでしょ」
「こんなことになって落ちたんなら、あたしのせいじゃないわよ」
 空気が押し黙り、俺は冷えきった暗い床で進みも戻りもできない。息を殺して、茶碗をすべる光を見つめている。足音がしたものの、こちらには来ない。
「雪乃」
「怖いの。どこにいたって勉強が頭に入らない。落ちるに決まってる。落ちるって分かってるもの、受けたくないわ」
「大丈夫よ。もっと自分を信じなきゃ」
「信じられるようなものが身についてないのよ。一番つらい思いしてるのは柊だとは分かってるわ。だけど、そんな理屈で気分は落ち着かない。何で、あたしまでどうこう言われなきゃいけないの。学校に行きたくない。何であたしまでこんな気分になってるの。ただでさえ受験で大変なときに、どうして悪いことが重ならなきゃいけないの」
「柊は──」
「かあさんととうさんも認めたら。ホモは治らないのよ。だったらそれであいつの勝手だけど、せめて、高校で別々になったあとばれてほしかった」
 ぱた、と突っ伏すような音がする。続いて聞こえた雪乃ねえちゃんの声はこもっていた。
「憶えなきゃいけないことがいっぱいあるのに、ぜんぜんダメ。どうすればいいの。これじゃ落ちちゃう。柊は悪くないとは思っても、やっぱりあの子を怨みたくなってくるわ」
 がちゃっ、と突然玄関で物音がした。俺は跳ね上がった心臓に息を飲んでそちらを向く。ドアを開けて入ってきたのは、背広すがたでかばんを提げたとうさんだった。とうさんもパジャマすがたの俺にやや臆し、俺は唇を噛んで顔を伏せると、素早くその場にお盆を置いて身を返した。
「柊?」
 誰の声かは分からないが、呼び止める声がした。無視して階段を駆けのぼって、部屋に閉じこもった。明かりを消してストーブを消して、ベッドにもぐりこんで、雷が怖い子供みたいにふとんをかぶる。
 染みこんでいた体温は消えているが、震える軆がすごく熱かった。一階での話し声がくぐもって聞こえる。すっぽりとした暗闇に目をつぶっても、シーツが濡れていってやがて涙の匂いがした。
 嗚咽で心臓が痛い。何で。どうしてだろう。分かっていたことだ。家族が俺をそんなふうに思っているのは分かっていた。でも──
 死にたい。耐えられない。俺は誰にも必要とされていないどころか、誰もに迷惑をかけているのだ。結浜は傷つけて、雪乃ねえちゃんは苦しませて、両親は悩ませて、榎本だって結局は俺に困っているだけなのだろう。
 みんな、俺のせいで憎しみを知り、軽蔑を知っている。俺のせいだ。俺がみんなの感情を穢している。俺の記憶が汚れていっているのではない。俺がみんなを汚していっているのだ。
 どこかに消えてしまいたい。死ねないのは分かっている。でも、ここで生きている限り、俺の未来は青虫がついたキャベツのようなものだ。ぼろぼろに蝕まれていく。自分を嫌いになるだろう。
 そんなふうにはなりたくない。みんなに罪悪感を感じ、死にたいと思うのはもう嫌だ。また何かあるかもと、明日がやってくるのにびくついているのは嫌だ。
 もう何も感じたくない。でなければ、忌まわしい記憶もぬかるんだ感情も忘れられる、落ち着ける場所に飛んでいってしまいたい。

第七十一章へ

error: