やっと家に着いたときには、すでに頭がくらくらしていた。
寒気の芯が熱い。やばい。これ絶対、風邪ひく。やっぱり、迷惑承知で親に駅まで車で迎えに来てもらうんだった。
十二月に入って、急に気候が凍りつくようになった。今日は期末考査が終わった解放感で、友達と終電まで遊んでしまった。
門限なんかもちろん破ったから、しかられるのが怖くて、地元の駅に着いたとき、すでにみぞれが降っていたのに、傘がなくてもそのまま走って帰ってきた。徒歩十五分の道のりとはいえ、かなり冷たくやられた。
時刻は零時半過ぎ、家族はやはり寝静まっている。
タオルもないなあ、とぽたぽた雫を落とすコートをとりあえず脱いでいると、かちゃ、とドアが開く音がした。暗い廊下に光が射して、顔を上げると、高一の弟の研が部屋から出てきている。
研は私を一瞥したものの、何も言わず何もせず、廊下を横切ってダイニングへのドアに入っていった。突っ立っていると、ぼんやり冷蔵庫を開ける音が聞こえる。
相変わらずの態度だけど、さすがに今は助けてほしい。研がまた廊下を横切ったとき、私は思い切って声をかけた。
「あ、あのっ──」
「るせえ。話しかけんな」
う、と居竦まると、研はそのまま、部屋に消えてしまった。家の中はしんと暗闇に戻る。まあ、予想通りの反応か。
どうしよう。本当に寒い。息遣いも肩も足元も震えている。靴を脱いで、ソックスも脱がないとぐっしょりだ。コートのおかげで制服はそんなに濡れていなくても、髪は一番打たれたからぐしゃぐしゃだ。
素足で家に上がってから、お風呂入ればあったかいかな、と洗面所に行って浴室を覗いた。けれど、節約で最近お湯を張ることが少ない我が家の浴槽は、今夜も空だった。
今からお湯が溜まるのを待つか。部屋でストーブの前でうずくまるか。
私は洗面所を引き上げると、研の隣の自分の部屋に入って、明かりをつけて電気ストーブを部屋の真ん中まで持ってきた。
私服に着替えて、その上からルームウエアも着こむ。まだ軆の震えが落ち着かない。門限破ったからって、これはきつい。
乾かす服はカーテンレールにハンガーで引っかけ、私は赤くなった電気ストーブの前で膝を抱えた。
髪をドライヤーで乾かし、肌も次第に温められたものの、やっぱり背筋はぞくぞく悪寒が這っている。手足の感覚もちょっと麻痺している。何だか、これはまずい風邪ではないのか。
せめて駅前にコンビニがあれば傘を買ったのに、ここの最寄り駅にはそれがない。こんな時間にはただ暗い、だいたい二十時閉店の商店街しかない。ほんとこの田舎やだ、とため息を吐き、電気毛布が暖まった頃、ベッドにもぐりこんで明かりも消した。
部屋の中で、こちらに向けた電気ストーブが、ぼうっと赤く燃えている。寝るときは必ず消しなさいとおかあさんに言われているけれど、今、これを消したら感覚がなくなる。
胎児のかたちになって、冷えた軆を何とかなぐさめる。そのうち、うとうとと頭の中から意識が流れ出して、気だるさもこみあげて、私は眠りに落ちていた。
「……寝てんの?」
どのくらい時間が経ったか、そんな声がかすかに聞こえた。何か返事をしようにも、頭が重くて喉も痛い。
「ストーブつけっぱなしだし……」
おかあさん? ちょっと、今はお説教はやめてほしい。ほんと、頭が壊れそうだから。
「おい」
軆が熱くて、息が荒っぽいのが分かる。今、熱は何℃だろう。三十九℃いってるかも。
「……くそ」
ぎし、と小さく低くベッドがきしんだ。何? 空気が痛くて、まぶたも上げられない。
「何で……お前、俺の姉貴なんだよ」
え……?
「こんなに、……好きにさせるくせに」
好き……?
え、何?
「俺」の「姉貴」って──
そのとき、息を切らす唇に、柔らかい感触が重なった。一瞬、息も心臓も硬く止まった。私の硬直には気づかず、感触はすぐ離れて、感じていたかぶさる影も離れた。
ぱちん、というストーブを切る音が妙に大きく聞こえた。
え……え?
今のって──
はっと確かに気がついたときには、カーテン越しにも、冬の緩い朝陽が射しこんでいた。起き上がろうとしたら、くらっとめまいがして、シーツに倒れこんでしまう。
かなり寝汗をかいていた。熱、と思って自分の額に触れた。仮病のとき、あんなに欲しいほてりがある。喉もかなり腫れて、ずきずきする。観念して、私は寝返りを打った。
ぎし、とベッドがきしめく。その音に、眉を寄せた。そういえば、夜中にもこの音を聞いたような。そう、何か──
記憶が脳内に接続された途端、小さく声を上げて、ふとんを頭まで被った。
何!?
夢?
……夢、だよね。何であんな夢。でも、妙にあの感触も声も憶えている。驚きに自分の胸がこわばった感じも残っている気がする。いや、でも、あれが現実なのはないでしょ。
研が私に「好き」って言って、キスを残すなんて。
夢に決まっている。ちょっと自分を嗤ってしまいながら、知られたら殺されるな、とふとんの中で息をついた。
別に、そういう願望があるわけではないけれど。研に私を受け入れてほしいとは、初めて会ったときから思っている。
私と研の両親は、再婚同士だ。つまり、高二の私と高一の研に、血のつながりはない。
研は本当のおかあさんをとても慕っていたと、おとうさんに聞いた。だから、おとうさんがその人と離婚したときも、そして私のおかあさんを選んで再婚したときも、研はめちゃくちゃに反対した。いまだに、私のおかあさんのことも私のことも毛嫌いしていて、家の中での態度は冷たい。
「お前さえ生まれなきゃ、かあさんは捨てられなかったのに」
研はいつも私を睨みつけて言う。
「俺の気分がいつも最悪なのは、全部、お前が生まれたせいだ」
何年も、そう言われてきた。だから、研に好かれたいという気持ちはあるけれど。何も、あんな夢は見なくてもいいじゃない。そういう「好き」ではないのだ。確かに私は研のことは嫌いじゃない。不思議といがみあおうとは思えない。それでも──
思い出して、ふとんから顔を出した。電気ストーブを見た。スイッチは切られていた。
何とも言えないもやもやがこみあげてくる。
何だろう。まさか、夢じゃなかった? 電気ストーブをつけて寝たのは確かだ。でも、もしかしたら、とっくに起きて朝の物音を立てているおかあさんが、仕方なく黙って消したのかもしれないし──
ふとんの中で何度も寝返りを打ってどきどきしていると、おかあさんが部屋に入ってきた。どきっとして、ノックしてよ、と言おうとしたのに声が出ない。口をぱくぱくさせる私に、「びしょ濡れで帰ってきてたって研ちゃんに言われた」とおかあさんは仕方なさそうに体温計をさしだしてくる。
三十九℃ジャスト。「あとで病院行くからね」とおかあさんはおかゆを作りに部屋を出ていった。
私は時計を見て、行っている高校は違うけど、確か研も試験休みだよな、と思う。
その日、病院の午前の診察を受けて家に帰ると、薬を飲んでベッドの中で安静に過ごした。ときどき、隣の研の部屋で物音がするから、やっぱり休みのようだ。
たまにスマホが鳴って、たいていは友達からの着信で、私は『風邪ひいた』とだけ返した。彼氏はいない。できたこともない。作ろうと思わない。そんなことより、私はまず家の中に分かり合いたい男の子がいて──
夕方になると、だるさが抜けて声も取り戻せた。一日私の看病していたおかあさんも、「ちょっと買い物行くね」と家を出ていった。おとうさんは仕事に行っている。研とふたりきりだ。
私は悩んだけれど、やっぱり唇の感触がリアルで、それに胸がざわついてゆっくりベッドを降りた。
ふらつきそうなのを抑えて、研の部屋の前まで行った。深呼吸してから、小さくノックしてみる。返事はなくて、いいかな、と迷ったものの、そうっとドアを開けてみる。
「何だよ」
研はテレビの前に座って、ゲームをしていた。私のことは、やっぱりちらりとしただけで画面に向き直る。
私は突っ立ってしまう。どう、切り出せばいいのか。昨夜、私に何かした? そんな訊き方をできる雰囲気じゃない。
「何かあるなら早くしろよ」
「あ……、うん」
こっちを見ない研はいつも通りのはずなのに、なぜか今に限って胸が痛い。
「け……研は、さ」
「ああ」
「もし……おとうさんとおかあさんが結婚しなかったら、……姉弟にならなかったら──私のこと、嫌いじゃなかった?」
研は何も言わずにゲームをしている。格闘ゲームっぽい。でも、どうやら負けてしまうと舌打ちして、私を見た。
「何だよ、それ」
「えっ」
「うぬぼれてんじゃねえよ。お前なんか、そもそも生まれてほしくなかった」
私は研を見つめた。研の目は冷ややかで、軽蔑すら混じっている。
そうだよね、と私は首を垂れた。やっぱり、私のことなんて嫌いだよね。好きになってくれるわけ、ないよね。だったら、私も──
「研なんか、大嫌い」
ドアを閉めて、小さな声でひとりごとの嘘をつぶやく。のろのろと部屋に戻って、背中でドアを閉めると、急に喉が絞めつけられて涙があふれてきた。
キスされて。「好き」と言われて。もしそうだとしたら、私はどこかで、嬉しいと思った。
けれど、やっぱり、そんなことはありえない。あれが夢でも、現実でも。研の答えは決まっていて、私にはどうしようもない。
「……大嫌い」
心にもない、色褪せた言葉をつぶやく。モノクロの嘘をつく。私たちは、きっとこのまま分かり合えない。ベッドにもぐりこんで涙をぬぐうと、私は優しかった感触に歯を立て、泣くのを必死にこらえた。
FIN