非常階段-71

春先に想うこと

「結局、あいつと一年過ごすハメになったな」
 今年は三月に入っても肌寒く、非常階段に行けずに自分の席に伏せっていた。雑談がくつろぐ休み時間、背後では聞こえよがしの会話がしている。目を閉じて自分の息遣いだけ聞こうとするけど、どうしても耳がそちらにとがる。
「俺の母親さ、何回か担任に申しこみにいったんだぜ。あいつをクラスから外せって」
「あ、俺の親も一回言ったって言ってた」
「どう言うんだよ」
「『そんなものがうちの子に感染したら、どう責任取ってくれるんですか』」
 泥に突っこんだ芸人を嗤うような爆笑が渦巻く。耳を塞いでしまいたい。でもそんな目立つことをして、動揺していると知られたらそいつらの思うツボだ。
「親にしたら気が気じゃないって言ってた」
「隔離しろってな」
「俺は親には話してないや。知ってるだろうけど」
「無理やりにでもすべきだってかあさんは熱血したらしいぜ。自慢げに語ってきた。一般教室を外せって」
「三年になっても別室行かないのかな」
「デモが起きるぞ」
 また笑い声が竜巻したとき、チャイムが鳴って生徒たちは席に収まっていった。俺も重い上体を起こし、脇に置いていた国語の教科書を正面に引き寄せる。
 今月の席は、中央列の前から四番めだ。前髪を引っ張り、居眠りしていたようなふりで目をこする。国語教師が入ってきて、「起立」という日直の声に合わせて立ち上がり、礼をして席に着く。
 榎本のあの申し出が、ほの暗い脳裏をよぎっていた。別室登校したらどうか。そういう保護者の押しもあったのか。知らなかった。ないほうがおかしいとも思ってしまうけど。みんなそう思っているのだ。
 俺は本気で、夜眠れないぐらいに、三年生を機にはずれてしまおうかと悩んでいる。
 その大きな要因は、三月の始めに結浜に呼び出されたことだ。メモをもらい、彼女自身にもののしられるのかと気が重くなった。が、負い目のようなもので、放課後教室に残った。
 ふたりきりになると、澄んだ橙々の夕暮れが影を伸ばす窓際で、ごく短い話をした。彼女の口火は、俺の予想とまったく違っていた。
「雅美が勝手なこと言ったの、私が謝っておこうと思って」
 目を開いた俺に、結浜はけっこう気丈そうに咲った。
「ほんとにごめんね。あの子が言ったらしいようなこと、私、思ってないから。むしろ、塩沢くんは私をかなり気遣ってくれたと思う。雅美みたいな気持ちが、最初からゼロだったとは言わないけどね」
 結浜はいったん床に目を落とし、その睫毛を金色に透かせる。驚いたあと、慌てて邪推を改めた俺は、何か言いたくなっても何を言えばいいのか分からない。
「俺──」
「いいのっ」
 結浜はすかさず顔を上げる。
「塩沢くんは、何にも悪くない。ストレートの男の子だったら、興味ない女にあんなにしてくれないよね。私の気持ちに整理がつくまで、最後まで、つきあってくれてありがとう」
 結浜は橙色に染まりながらにっこりとした。性愛を抜きにして、俺はその笑顔を綺麗だと思った。俺にはできない笑顔だ。結浜はつくえとつくえのあいだに引くと、こちらにもう一度、気強い笑みを向けてくる。
「ちゃんと、男の子と恋をしてね。じゃないと私、怒るから」
 そうして結浜は、物音もまばらになった廊下にすっぱりと出ていった。俺は墓石みたいに突っ立って見送った。
 と、不意に喉がつまって涙がこぼれた。なぜかは分からない。惜しいとは当然思わなかった。ただ、なぜ、あんな強い子が俺を好きになったのだろうと思った。
 遠くにたわいない笑い声がする。
 冷たい手で頬をぬぐうと、濡れた手は窓いっぱいの夕陽できらきらした。
 どんなにむごい否定をされるより、結浜の肯定は非常階段を降りることを考えさせた。非常階段を降りれば、男との恋をずいぶん自由にできるようになるだろう。毎日がこんなふうではなくなり、結浜のようなあんな笑顔もできるようになるかもしれない。
 もっと強くなりたい。些細なことでは揺るがない自信が欲しい。それを養いたければ、俺はしかるべき場所へ行って、ここは捨てるべきなのかもしれない。
 別室登校をすれば、望永のような奴との接触も低くなる。結浜と遠ざかって、この頃舞田が再発しかけているのだが、その魔の手も逃げられる。
 考えるほど、降りたほうが合理的だ。
 室月の揶揄の対象になることもない。委員も塚谷みたいな奴とでもつきあわなくてはならない問題もなくなる。俺がはずれないから自分がはずれる、今や学校にはまるで来ない矢崎のような生徒も減る。
 偽善も、義理も、同情もない。俺は、一般的な道などそれてしまったほうがいいのかもしれない。
 なぜ、こんなに苦しいのだろう。いつも思っている。同性愛は、ここまでの痛みに値することなのか。そうは思わない。思いたくない。だったら、俺にはこの痛みを逃げる権利はあって、つまり非常階段を降りるのも俺の人生の道のひとつとして項目にはなっているのだ。裏道は、俺にとっては欄外ではない。
 でも、どうしても、さまざまな事象がそうすべきだといくら訴えても、俺の感情が納得しない。降りたくない。みずからを異常だと認める行為には走りたくない。
 実は昨日の夜、両親と一年振りにリビングで向き合った。話があると言われたのだ。病院に行ってみないかという相談だった。とうさんは重々しく座っているだけで、だいたいはかあさんがなだめすかす口調で述べ立ててきた。
「雪乃や私たちのためにも、治療してみないかしら。原因を突き止めれば、きっと治るわ」
 膝に手を垂らしていた俺は、痛みに耐えるように息をすくめた。表面上は虚ろを装った。「どうかしら」と言われて、首を振ったほかは無反応だった。とうさんがときどき脅迫を滲ませた眼を向けてくる。かあさんはおろおろして、俺を説得する言葉を剥がれ落ちそうな壁紙をあわてて抑えるように継ぎ足しつづけた。
 部屋に戻ると、いつもの臆病心で非常階段を降りたくなった。けれど、それだとやはり根っこは毒に抵抗して意固地が突き出る。ゲイが普通の生活を送っていて、何が悪い。まあ、もはやぜんぜん普通の毎日ではないが──
 これ以上、汚辱的な記憶を頭にも心にもすりこみたくない。その想いは本物でも、どうしても俺の脊髄は頑固に学校生活や家庭を愛惜する。それらには、何の夢も、幻想さえ抱けなくなっているはずなのに。
 ちなみに、雪乃ねえちゃんは滑り止めの女子校には受かった。第一志望は今週受ける予定で、勉強の手は緩めていない。俺は自分が高校に行くのかも分からなくなっている。
 別室登校に外れたら、たぶん道は絶たれる。まず勉強が追いつかなくなるだろう。別に高校なんか行きたいわけでもないけど──愛惜でなく、単なる体裁なのだろうか。そんなもので“普通”に固執しているのなら、いっそ断ち切ったほうがいい気もする。
 国語教師がハイヒールの足音みたいな音を立て、黒板にごちゃごちゃ解説を書いている。俺は知らないうちに頬杖をして、ぼうっとそれを眺めていた。周りの生徒は手紙をまわしたり、落書きをしたり、ひそひそ話をしていたりする。
 窓の向こうは曇り空だ。俺の胸にもあんな灰色っぽい雲が立ちこめている。吐きそうだ。これを晴らすには、やっぱ降りることなのかな、と息をつくと、億劫な手で終わりかけの教科書をぱたぱたとめくった。
 ──仲の良さそうな男女の恋人同士が、前を通り過ぎていく。春休みが近い三月の下旬、俺は漫画の最新刊を買うためを兼ね、大きな駅のそばの百貨店まで出かけた。
 気分転換になるかとこういうものは買ってみているのだが、ドブにはまって以来、俺はおもしろいものもおもしろいと思えない無感覚に衰退している。心が健康にならないと、この本も俺のたしにはならないのだろう。そのまま帰るのも憂鬱な滅入りようで、駅の階段の隅に腰かけて、人混みに混じっている。
 恋人同士は駅の中に消えていく。今日は柔らかな陽射しの晴天だから、デートなのだろう。時刻は十三時半だ。
 女の子を振った分際で何だが、どこかではああいう男女がうらやましい。平気で女の子とつきあえていたら、こんなことにはなっていなかった。そんな未練がましい膿を抱えて通りに向き直り、大気汚染の中、にぎやかに行き交う人や車を眺める。
 思うに、普通になりたいと思う奴ほど変で、目立ちたいという奴ほど平凡なのだ。ストレートだったら、こんな、雑踏の中にいるときのように、何でもない人間になりたいと願い焦がれることはなかった。そんな理屈が自分でも不条理だ。なぜ、ゲイだったら普通ではないのか。
 昨日の昼休みは、ずっと非常階段で考えごとをしていた。俺を損なったひとりひとりを思い返し、心を一キログラムずつ重たくしていった。
 みんな俺を傷つけたり、無視したり、裏切ったり、騙したりする。誰も信じられない。孤立の恐怖が、日増しに平衡感覚を圧迫する。家族さえ信じられないのだ。
 死んだほうがいいのかと深刻に思った。そうなれば、俺ばかりでなく、みんなにも都合がいいのか。俺の死はそんなに周囲に影響するのか。いざ死んだって現には何も起こらない──俺の死はそんな凡庸なものではないのか。
 俺が人を思いやろうとしたら、消えることしかできないのかもしれない。そんな人生、結局のところ、俺にとっても何にもならない。振り返りたくもない、なのにつきまとってくる人生なんて、受け入れられない。
 この人生の責任を取れるのは、俺だけだと分かっている。それでも、耐えられない。こんな記憶は愛でられない。一生そうだろう。どす黒く、生臭ささえかすかに残る光景や感情なんて、思い出したくもない。
 春陽は周りと区別なく俺を暖かに包んでくれるけど、俺はほかの人たちみたいにこの世に存在している資格はない。駆除されるべき害虫なのだ。
 俺の感情は認められない。
 俺の自尊心は許されない。
 いくらあがいて苦しんでいても、誰も容赦してくれない。
 男なのに、女とはつきあえない。けれど、きっと死ねない。だとしたら、せめて、非常階段を降りて日常社会は外れてしまうべきなのだろうか。

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