回遊魚たち

 出口なんていらない。ずっとふたりでいられるならそれでいい。出口なんて、必要ない。
 壁もシーツも、ピンクの照明に染まっている。未来みらいの息遣いとうめき声が、耳元をくすぐる。
 熱い軆はぴったり重なって、瑞々しい汗の匂いがただよう。動きが核に響いて、あたしの声も空中で取り留めなくなってくる。
「……だめ、いく」
 集中してくる波にそう言うと、未来の腰遣いも荒っぽく強くなる。あたしは未来にしがみついた。体内の未来が、硬く腫れあがる。深く奥まで突かれた瞬間、あたしは声を上げて、同時に未来も激しく痙攣した──
 未来はあたしの横に倒れこんで、呼吸をあふれさせた。あたしが身を寄せると、腕まくらをして抱いてくれる。「よかった?」と訊かれてうなずくと、軽くキスしてくれる。
 あたしと未来は、つきあいはじめて一ヶ月くらいになる。夏休みが明けて間もない頃だった。あたしから告白して、未来は「考える」と三日間保留したあと、OKをくれた。デート、ハグ、キス、一週間で寝た。お互い初めてではなかったけれど、そちらのほうが気が楽でよかった。
 あたしの髪を撫でていた未来は、サイドテーブルのスマホを手にした。「何?」と顔を上げようとすると、「何か来てる」と未来はあたしの顔を胸板に伏せさせる。
「あたしのスマホ?」
「俺の。……何だ、友達か」
「学校の?」
「うん」
 あたしは高校二年生、未来は高校三年生の受験生だ。だから、友達のことを聞いても、お互い誰だか分からない。
 あたしは未来の鼓動を聴いて、ちょっと眠たくなった。このまま眠れたらいいけれど、高校生は簡単にお泊まりなんてできない。
「週末も勉強?」
「ああ」
「未来は進学だっけ」
「ほんとはニートになりたい」
「はは」
 未来はスマホを置いて、あたしを抱きしめた。「時間あるの?」と訊くと、「ないけど」と言いつつ、未来はあたしを離さない。かわいい、とあたしはその軆にぎゅっと抱きつく。
 結局、フロントからの電話であたしたちは軆を離した。駅で別れたのは二十三時頃で、終電には間に合って帰宅した。
 うちの親はわりと放任だから、門限なんて設けていないのがありがたい。部屋から着替えを取ってきてシャワーを浴びると、髪を乾かしてベッドにぱたんと倒れて、そのまま眠ってしまった。
 土曜日、起きたのは昼前だった。あのまま寝た、とかばんからスマホを取り出すと、着信がついている。友達と、メルマガと──未来からのものを一番に開ける。
『塾着いた。
 明日の友達との勉強会つぶれたよ。
 とりま学校の改札で、十七時ぐらいに待ってる。』
 マジ、と目を開き、メールの時刻を確かめる。“9:52”。今は午前十時半。講義の最中か。だったら返事はしないほうがいいな、と判断すると、朝食を取って明日の服を吟味することにした。
 平日は制服があふれている駅だけど、日曜日はわりと空いている。いつもは街に出る駅で待ち合わせるのにな、と何となく思っていると、「こんにちは」と声がかかってそちらを見た。
 長い髪に緩いウェーブをかけた小柄な女の子がいた。首をかしげたあたしが何か言う前に、彼女はにっこりとして言った。
「初めまして。私、未来くんの婚約者です」
 ……──は?
 ぽかんとすると、彼女は「まずはゆっくりお話しましょう」と歩き出した。突っ立っていると、「お話したいんです」と彼女は振り返ってくる。
 何だ、この中学生にも見えるガキ。婚約者? 未来の妹ぶった幼なじみか何かだろうか。
 よく分からなかったけれど、こちらこそはっきり聞いておきたかったので、その子と一緒に駅のロータリーにあるカフェに入った。
「私、涼葉すずはっていいます。未来くんとは、つきあって一年くらいです」
 カフェモカを口をして、ふうっと息をついてから彼女はそう言った。あたしは眉を寄せ、その長い睫毛を見つめた。
「あなたも、未来くんとおつきあいしてるつもりみたいですね」
「……『つもり』?」
「未来くんが真剣につきあっているのは私です。あなたは遊び」
「あのね、勝手に決めつけないでほしいんだけど、」
「私は別れません」
 涼葉はあたしをまっすぐ見つめた。あたしは、それをいらっとしながら見つめ返す。
「私と未来くんは同棲もしてます」
「は……あ?」
「未来くんのご両親が不仲なのはご存知ですよね。それで、今は実家から離れて暮らしているのも」
 思わず口ごもると、涼葉はおかしそうに嗤った。
「もしかして、そんなことも知りませんでした?」
「あんたみたいなガキが『婚約者』名乗るのも痛いんだけど」
「私は十六ですから結婚できます。私たちは、未来くんが来年の二月に十八になるのを待っているだけです」
 ため息をついて、落ち着くためにカプチーノをすすった。
 本当は、胸の中は黒くさざめいていた。とっさにわけが分からなかったが、だんだん、理解しつつある。未来はこの子がいながら、あたしと「浮気」を──
「未来くんと別れてください」
 涼葉は強い口調で言った。大きな瞳にガンをつけられると、迫力がある。
「今なら、見逃してあげますから」
 あたしは答えなかった。
 ただその日、何度も未来に電話をかけた。やっとつながったのは夜で、あたしは涼葉に会ったことを話した。日曜日の勉強会がつぶれたというメールからして、涼葉が勝手に送ったものらしかった。「今そこにあの女がいるわけ?」と訊くと、『夜はあいつは仕事だよ』と返ってきた。
「仕事? 十六って言ってけど──」
『あいつは高校行ってない。病気なんだ、涼葉は』
「どっか悪いの」
『いや──頭? 心? 精神的に病気』
 そっちか、と言われてみると納得できる気がした。
『うんざりしてるんだ。あいつ十四で家出してさ、家庭がうざかったらしいけど』
「何でそんなのと知り合ったの」
『前のバイトが同じだったんだよ。今のあいつの仕事は水商売だけど。妙に懐かれて、部屋にまで転がりこまれた』
「迷惑してるってこと?」
『当たり前だろ』
「あの子、自分は未来の婚約者とか言ってたけど」
『めちゃくちゃ言うんだよ、頭おかしいから』
「でも、本命はあの子?」
『本命も何も、何とも思ってない。好きなのはお前だよ』
「ふうん……」
『お前が嫌なら、本気で部屋から追い出すし。ほんとに。だから──』
 未来の口ぶりは、嘘でもなさそうだった。
 あたしと会ったあと、いつも未来は涼葉との部屋に帰っていた。でも、待っている涼葉を疎んでもいた。病んで、重くて、居座る女。
 だったら、たぶん未来の心を本当に癒しているのは、あたしのほうだ。
 本命はどっちか、なんて訊かなくていい。未来を問い詰めなくていい。彼にはそれがよく分からないのなら、こちらが決めればいい。あたしが本命になって、その事実をあの女に見せつければいいのだ。
 そう、あたしは別れない。
 あたしは、未来との関係を続けた。涼葉が再び接触してくることはなかった。大したことないじゃん、と少し気抜けさえしながら、あたしは未来とホテルに行く。
 一緒にシャワーを浴びて、濡れた軆でベッドに飛びこむ。くすくす笑いながら、お互いの軆に触れて、指先の動きを焦らして、ゆっくり重なる。
 未来があたしの中を突き上げ、あたしはその首に腕をまわして、切なく喘いでいたときだった。
 スマホが鳴った。未来の律動が止まって、あたしは薄目を開けた。あたしのスマホの着信音じゃない。
「未来──」
「あ、悪い」
 スマホはやまずにまだ鳴っている。未来は確か、メールの着信は十秒しか設定していない。
「……電話?」
 未来はもう一度、腰を動かしはじめる。
「いいの?」
「今はお前といるんだ」
 あたしは、未来の肩越しにピンクの照明を見つめた。
“今は”? じゃあ、あたしといないときは? あたしは、一緒にいないときも未来を想っている。未来は──あたしがいないときは、あの女との時間を過ごしているの。あたしのことなんか忘れているの。“今は”涼葉といるのだと、あたしへのスイッチを切っているの?
 その次の日からだ。未来が学校に来なくなった。メールの返信も来ない、電話にも出ない。理由は分かっていた。あのとき、未来は出なかったスマホを、事が終わってから見ていた。
 それを横目に「シャワー浴びるね」とあたしは浴室に行って、でもドアに隙間を作っておいた。未来はすぐ電話を始めた。「涼葉」という名前。「やめろ」という焦った声。「帰るから」という結局守る約束。それだけ聞くと、ドアをそっと閉めてシャワーを浴びた。
 ああ、やっぱりあの子なんだ。そう悟ると、今度はあたしが未来からメールが来てもすぐ削除して、電話にも出なかった。未来は学校には一週間くらいしてまた来るようになり、休んでいたのは急に親に呼び出されていたからだという理由になっていた。
 三年生は受験で殺気立ってきて、未来もそのひとりで、あたしのことなんか訪ねてこなかった。あたしも放っておいた。いつのまにか、自然消滅だった。
 それから二年後、あたしは大学生になって彼氏も見つけて、街中でデートしていた。そのとき雑踏に未来を見つけたことがある。向こうは気づかなかった。隣の女の子をへらへらと見つめていた。その女の子は、涼葉ではなかった。
 あの男は、ずっとそうなのだろう。涼葉も分かっていて未来と別れないのだろう。バカみたいだ。おりてよかったんだ、あんなループ。あたしは彼氏とつなぐ手に力をこめる。
 愛されるなら、愛されたかった。出口はいらないと思っていた。でも、回遊と永遠は違う。そう、あなたたちはずっとそこにいればいい。
 あたしは出ていく。この出口から、あたしはもっと幸せになる。

 FIN

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