青氷の祠-21

回想【5】

「碧織は外に出たことないんだよな」
 玄関の脇のキッチンで、珠生は飲み物を作っている。暖房が重苦しいため息を吹いた。所作のたびに、珠生の漆黒の髪は揺れ、潤いに光を反射させる。僕は漠然と、月を映す夜の海を想った。
「出たいと思ったことある?」
「ないよ」
「死ぬまで出ないの」
「たぶんね」
「それでいいの?」
「いいよ」
 ふと珠生は、鈴を転がす笑い声をあげ、「機械みたいな答え方だな」と僕を振り向いた。僕は瞳をゆがめ、どうやればこいつを黙らせられるんだ、と自分の稚拙な舌がもどかしくなる。
「碧織もココアいる?」
「いらない。甘いのは嫌いなんだ」
「母親から寝盗った男からのキス以外は、ね」
 目を剥いた。珠生は両手で白いカップを包むと、優雅な足取りで歩み寄ってくる。僕の茫然とした面持ちに、彼は暖房で真紅に生きかえった唇を嗤わせた。
「何で……」
「蛍華さんには言ってないよ」
「母親って」
「そうなんだろ」
「叔母さんだよ」
 珠生は瞳の奥で嗤い、「それってさ」とカップを片手に持ち直す。
「どうせ無駄だよ。どんなに否定したって、蛍華さんはあんたに何のご褒美もよこさない」
 鋭く珠生を睨みつけた。珠生はかたわらのベッドサイドに腰かける。
「母親なんだろ」
「……蛍華さんに聞いたのか」
「聞かなくても分かるさ」
「………、」
「いつもそばで見てるから。みんなはただの家族だって信じてる」
「………、」
「不幸だよな。母親が自分は引っぱたいて、ほかのガキをかわいがるなんて。蛍華さんの悪趣味には、俺も敬服するよ」
 珠生は甘い湯気を立てるココアをすする。僕はそのココアに猛毒を仕込んでやりたいと思った。そして、はらわたに穴が空くような苦痛を与え、その艶やかさを醜いもがきで引っぱがしてやりたい。
「男のことは」
「碧織の男を見る目ってすごいよ。ホモみたい」
「………、」
「俺は言ってないけど、蛍華さん、分かってるかもな」
「僕は男娼になるんだ」
「それしかなれそうにないね」
「そしたら、こんな部屋出てってやる。お前ともさよならだ」
 珠生を僕を見つめ、ココアに口をつけた。僕は膝を抱える腕をはりつめさせ、かたくなな瞳を床に突き刺す。エアコンの吐息と、どこかの喧嘩の声が響いていた。外ではなおも雪がちらついている。それを静かに見つめていた珠生は、不意に僕を向くと、見下すように言った。
「蛍華さんの身代わりにすぎないくせに」
 珠生はこの数ヵ月で、満ちあふれた人間として昇華していた。自信にあふれ、魅力にあふれ、それまでのひかえめな影はなくなった。大人たちは、珠生の変貌を悪く取らなかった。強くなった、乗り越えたとおだてて、彼の不遜をいっそう確固たるものにした。
 珠生のひるがえる羽の色彩は、複雑に、そして繊細になっていく。それはまるで幻覚模様で、珠生の魅力は麻薬的だった。光樹が言っていた通り、彼は悪魔のごとく美しい。その美で人を脱力させ、言いなりへと中毒させる。珠生は仮面はかぶらなかった。そんな小細工はせずとも、彼は美によって相手の目をくらました。最高級の麻薬だ。曼陀羅の陶酔で相手の眼界を占領し、都合の悪いものは見えなくさせてしまう。
 僕は彼に浮かされなかった。それが、珠生は気に食わなかったのだと思う。大半の人間には甘美な麻薬として噛ませる毒を、彼は僕には猛烈な苦味をこめた毒としてよこした。ひっきりなしに僕に毒を浴びせる。珠生といると、不快感で頭がぐらぐらした。
 珠生といたくなかった。早く独り立ちしたかった。こんな部屋は出ていき、たくさんの男に愛されたい。僕は僕として愛されて、珠生の皮肉を見返したい。手出しはされているのだし、もう売り物になれるのではないか。
 だが、珠生の漆黒のコートについて愚痴ると、純白のコートを買ってくれた豹さんが言うには、ショタコンの客が集まるだけなのだそうだ。
「それでもいいよ」
「ダメだ」
「どうして」
「その軆がいつまでも子供のままと思うか」
「大人になったら、普通の男娼になればいいよ」
「専門の淫売になると、その趣味の客の要求ばかり染みついて、ほかの客に対応できなくなる。そしたら足が早いだけだろう」
 首を垂れ、コートの裾の白いファーを見つめた。蛍華さんのコートについていたのとは違い、まとまりがあってなめらかだ。本物の尨毛なのだろう。豹さんは僕の焦げ茶の頭を撫でると、レストランの中にうながす。
「持ち味を持つなという意味じゃない。客に与える快感を定義するな。どんな趣味も受け入れるのが一流だ」
 豹さんを見上げると、僕はこくんとしてレストランに踏みこんだ。
 豹さんには、男に抱かれているのは黙っていた。豹さんは僕に手を出していないのも知っていた。それは単に、蛍華さんが豹さんだけは待たせたりしなかったせいだけど。
 蛍華さんは豹さんに執着していた。金と権力のせいもあるだろうが、ほかの男とは別格に見ている。暴力を振るわず、紳士だからだろうか。蛍華さんは豹さんといると、自分が求める愛を感じられるようだ。豹さんとの約束に出かけるときは、念入りに身なりを彩っている。僕は蛍華さんの栗色の髪や白い肌を見つめ、そこに豹さんの指や舌がこれから這うと思うと、嫉妬のようなものを覚えた。
 ふたりが僕や珠生のいる部屋で愛しあうのは稀で、だいたい逢引場所はホテルのスイートルームだった。それでも、僕は豹さんと蛍華さんがいちゃつくのを見たことがある。いちゃつく、というか──蛍華さんはしなだれていても、豹さんは毅然としている。でも、髪を撫でる指や見つめる瞳、耳元でささやく低い声には愛情がある。
 蛍華さんの剥き出しになった肌に、豹さんの引き締まった軆がかぶさる。僕は見ていたくなくて、バスルームで身を縮めた。それでも、蛍華さんのかすれた甘い声に、豹さんの深い息づかいが重なるのは聞こえる。このときばかりは、僕は豹さんに嫌悪と憎悪を感じずにはいられなかった。
 それはたぶん、僕が豹さんが愛しているというより、真実に気づかされるせいだった。蛍華さんに触れる豹さんを見ると、豹さんも蛍華さんを特別に想っているのがよく分かる。豹さんは僕をすごくかわいがってくれる。どんな旦那よりも甘やかしてくれる。だが、それは蛍華さんに由縁のある子供だからにすぎないのだ。
 豹さんと蛍華さんを見ると、普段は調子に乗っている僕は、それに気づかされて傷ついた。蛍華さんの身代わりにすぎない。珠生のあの皮肉が、さらにそこに硫酸を垂らす。僕は蛍華さんがいなければ、誰にも相手にされないのだろうか。そこまで想いは打ち沈み、豹さんに心を開くのはやめようかとすら思い悩む。
 蛍華さんのおまけ、というのがひがみではない証拠は、豹さんが珠生もかわいがるのにも現れている。蛍華さんも入れてながら食事に連れていったり、僕に何か贈るのなら珠生にも何かあげたり──光樹にもそうしていたときには、僕は豹さんへの親愛を深めていた。珠生にもそうしているのを見ると、不安になった。
 僕はさしむかいで豹さんに連れ出されたとき、僕と珠生ではどちらが好きかと訊きたくなった。蛍華さんに負けるのは分かっている。でも珠生には──口をつぐんでうなだれる僕に、豹さんは声をかける。僕は豹さんに顔を上げても、結局、何も訊けずに首を振った。
 一度、何も言えない代わりに涙がこぼれたときがある。帰ろうとする車の中だった。豹さんは食事ちゅう、僕が無口だったのを尋ね、僕は言いたくても喉でとどこおる言葉に涙をこぼした。豹さんは驚いた目をして、エンジンを入れようとしていた手を止めた。「どうしたんだ」と僕の頬に伝った雫を指でぬぐい、抱きあげて自分の膝に乗せる。僕は豹さんの胸にしがみつき、けれど、やはり何か言うことはできなかった。
 だから僕は、自分を抱いてくれる男たちに没頭した。僕は自然の脅威の中に突っ立たされているようだった。蛍華さんは敵だ。珠生も敵だ。豹さんは遠い。光樹も遠い。だから僕は、どんな言葉もなく僕をじかに温める男たちに、傷んだ心をささげて恍惚とした。

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