喫茶店にて
冷房がきいた喫茶店で、僕と珠生は向かい合っている。
夜に生きるこの街で、昼に営業する店は少ない。が、不自由するほどでもなかった。それでも閉店しても仕方ないぐらい、明るい店内に客はまばらだ。
僕に烏龍茶、珠生にコーヒー、伝票を置いていったウェイトレスの尻は美少年ふたり連れにいささか軽い。
僕は頬を押しつぶす頬杖をつくと、珠生に横柄な目つきを投げかけた。
「何しにきたんだよ」
アイスコーヒーにストローをさす珠生は、遠慮がちに僕を見た。漆黒の髪も黒い大きな瞳も変わらない。顎の線はずいぶん削れていても、なめらかさはある。肩幅や軆つきも同様で、肌は猛暑の名残もなく雪白だ。
「別に」
「別に」
「何となくだよ」
「……ふうん」
僕はグラスにそのまま口をつけ、珠生もストローに口をつけた。離して、吸い口に唇の真紅が残らないのが不思議だ。
「五年振りだよな」
「そうだね」
「碧織には会えないかと思ってた」
「何で」
「俺が消えたとき、お前も消えてたじゃん」
「悪かったね、死んでなくて」
珠生の目に僕は視線をそばめ、烏龍茶をがぶりと飲んだ。さすがに僕も、幾許かは皮肉の術をつかんでいる。おそらく、いまだにこいつには負けるのだろうが。
「悪くはないよ」
「どうだかね。死にかけてたとこを豹さんに救われて、更生したんだ」
「豹さんって、あの」
「そう、あの。男娼は男娼だよ」
「それは分かる。匂いで」
「あっそ」と僕は頬杖の小指の爪を噛んだ。珠生は僕を見つめる。長い睫毛や黒い瞳、そういうものは変わっていない。
しかし、何かが変わってもいる。そう、あの強烈な自信の光が失せ、色合いが気だるくくすみ、穏やかに落ち着いているのだ。
でも、演技かもしれない。そんな猜疑心で、僕なりに威圧的な瞳で珠生を見返す。珠生は僕の瞳に目を細め、けれどこぼれたのは嘲笑でなく微笑だった。
「変わったな」
「何が」
「お前」
「すれたんだよ」
「仕事、順調じゃないのか」
「仕事はいいよ。仕事だけが生活じゃないし」
「蛍華さん」
「あんな奴、十年ぐらい顔見てねえよ」
「………、じゃ、何で」
「お前には関係ないだろ」
言ったあとで、何か来るに違いないと構えた。こいつでなく僕でも、じゃあいらだちを見せつけんな、ぐらい言っただろう。ところが、珠生は「そうだな」と吐息と共に受け流してコーヒーを飲んだ。
「変わるよな、五年も経てば」
「……珠生はどうしてたの」
「少しは知ってるだろ」
「知らねえよ。男にさらわれたのだけ知ってる。あ、今、ひとりなの」
「あいつとは切れたんだ」
「幸せな結婚生活だったんでしょ」
「………、どうだろ」
「で、帰ってきたわけ」
「まっすぐ来たわけじゃない。いろいろふらついて、ここしか思いつかなくて」
僕は椅子の背凭れに背中を預けた。
珠生には、思いっきり外の悪臭がしていた。生ゴミみたいだ。そんな臭いをさせて、どうやってこの街に再び溶けこむのだろう。
いや、昔の界隈では歓迎されるだろうか。蛍華さんは泣いて喜びそうだ。
「昔のとこに行けば」
「行こうとしてた。道分かんなくてきょろきょろしてたら、碧織がいて」
「よく僕だって分かったね」
「特徴は残ってるし。碧織も帰るとこだったのか」
「飛び出してきたとこだよ」
「飛び出す」
「部屋で喧嘩したんで」
「………、誰と」
「女だよ」
「女とつきあってるのか」
「つきあってないよ。やるより喧嘩が多いのに」
「男は」
「僕はストレートだよ」
珠生は、揶揄でもなさそうに黒目がちの目を開いた。「冗談だろ」と言う声は、こわばりのあまりわずかに笑っている。
「いつ僕がホモだなんて言った」
「男に色目使ってたじゃないか」
「男娼だからね。男に愛されるのは好きだよ。欲情はできない」
「……意外。じゃ、今はこのへんに暮らしてるのか」
「部屋は夕町。縄張りも変わったよ。昔のあたりには、今はほとんど行かない」
「ふうん」と珠生は伏目でストローに口をつける。
僕は居心地の悪さを覚えた。あの尊大の珠生は、たまらなく不快だった。が、こんなおとなしい珠生も変な感じだ。本当に珠生なのかと疑ってしまう。
本当に──本当に、珠生なのだろうか。僕は苦みのある冷たさに眠気を紛らし、珠生を見つめた。あまりにも、雰囲気が記憶とかけはなれている。外面は珠生に間違いない。それで、道端で遭遇したときはひどく狼狽した。
こうして中身も覗くと、変わりすぎていて現実感が薄れていく。本当に、いつも大きな瞳を眇め、鼻で嗤って、こちらを見下していたあいつだろうか。珠生が、とりわけ僕に、そんななだらかな瞳をするなんて信じられない。
「よく、別の縄張りで働けたな」
声は珠生らしいと思う。声変わりがほどよくきいた、あの清涼から無駄な甲高さが切り取られた声だ。
「どういう意味だよ」
「蛍華さんの名前もないわけだろ」
「僕ははなから、蛍華さんの名前では働いてないよ」
「そうだっけ」
「豹さんの下で働いてる。豹さんがこっちに移したんだ、更生のあとにね。元のとこじゃ問題あったんで」
「いろいろあったんだ」
「珠生だってそうでしょ」
珠生は口を濁し、あの小首をかしげる動作をした。けれど、見つめたのは氷の浮かぶコーヒーの水面だ。潤った黒髪が首のかたむきに沿って流れ、向こうの窓が通す光をすべらせる。僕は目をそむけて、水滴の浮かぶグラスをつかんで烏龍茶を飲みこんだ。
幼い頃、珠生の黒髪がうらやましかった。腰があって、艶やかな漆黒で、濡れたようにまとまって──僕の髪は色が軽くて柔らかい。僕は珠生が大嫌いでしょうがなかったが、反面、彼のいろんな秀麗さが欲しくてたまらなかった。
何かひとつでも珠生に勝ち、踏みつぶしてくる足を退けたかった。できずじまいだったけど、今は彼が変わったために何やら僕らは対等だ。珠生が堕落してきたなんて、小気味よく嬉しいはずなのに、単純に喜べない。染みついた劣等感が、喜ばしい現実も狐疑させる。
「またここに暮らすの?」
「できればそうしたい」
「じゃ、向こうに暮らしなよね。昔のツテなら、その臭いも大目に見るだろうし」
「臭い」
「するんだよ。外の臭い。だから、僕はお前の世話はごめんだよ。その臭いってゲロ出そうなんだ」
珠生は臆して自分を見下ろし、「眠いから」と僕はわずかな渋面で立ち上がる。
「あ、ああ。悪かったな、呼び止めて」
僕は珠生を見おろした。「何だよ」と珠生は少し眉を寄せ、「別に」と僕は目をそらして烏龍茶代をテーブルに置く。
「俺が出すよ」
「何で僕がお前におごってもらうんだよ」
「おごるって言ってやってんのに」
「お前に感謝なんかしたくない」
つんとテーブルに背を向けると、僕は珠生を置き去りにして店をあとにした。
外は太陽が雲に隠れて薄暗い。雨の匂いに、肌を腐らせる蒸し暑さはあった。こんな時間にチェックインできるかな、と心配になりつつ、ぐったりと静まり返った通りを抜けていく。
珠生の言葉を想った。信じられなかった。やはりあいつは別人なのではないか。呼び止めて悪かった、なんて──珠生の謝罪なんて、初めて聞いた。彼は詫びなど徹底して口にしなかったのに。
珠生は五年前、客の男にさらわれてこの街を消えた。正確には駈け落ちだと聞いた。珠生がゲイなのかは謎でも、彼は愛しあった男とすべてを捨てて蒸発したのだ。
どうも、その男との生活が珠生を豹変させたらしい。痛みを受けたから心が広くなった、なんて珠生にはありえない。めいっぱい愛され、その深みに心が寛容になったのか。そうなのだろう。だとすれば、彼のあの落ち着きも、そんな愛を失った痛みだとあっさり解ける。
思わしくない仏頂面で、ポケットに親指を引っかけた。視界の白光に陰気にまぶたをおろし、取り返しのつかない不快を胸に引きずる。珠生が帰ってきた。何にせよ、そうなのだ。
はっきり言って、忌ま忌ましい。あんな奴は帰ってこなくてよかった。あのぎらつく自尊心が穏やかになっていたとしても、珠生の顔なんて二度と見たくなかった。
なぜ戻ってきたのだろう。またこの街に君臨する気なのか。根をおろし、僕を俯瞰して物笑うのか。そうだとしたら、僕は容赦なくあいつをぶっ殺してやる。
気に食わなくても、珠生はあっさりこの街に溶けこむだろう。あいつの要領のよさは熟知している。あいつは人に取りこむのにかけて天才的だ。自分を愛する人間に抱え上げられ、彼はただちに僕を見下げるようになる。
珠生が帰ってきた。僕はその事実を警戒として心に刻んだ。あの珠生が。僕の聖域にかまいたちを起こす悪魔が、戻ってきたのだ。
【第二十三章へ】
