白鳥に守られて
僕の上で、がっちりした軆が激しく上下に突き動いている。まろやかさのかけらもない動きで、圧迫感に意図しないうめきをもらしそうになる。
僕は彼のうなじに腕をまわし、腰に脚を絡みつけた。痛いぐらいに僕を攻めあげる彼は、息を荒げてベッドをきしませている。僕は喉を剥いて頭を垂らし、律動に合わせて湿った髪を揺らした。
こぼれる香水は、汗が混じって香りが深い。僕はなかば白目を剥きながら、すすけた天井に向かって取り留めのない声をあげた。
ここはいつものモーテルと違った。どちらかといえば連れこみ宿で、部屋は粗末を極めている。
せまくて、薄汚れて、この変な臭いは恐らく精液だ。どこかに染みついて、酸っぱくなっているのだろう。ベッドも床もぎしぎしうるさいし、隣の声が無遠慮に筒抜ける。ある男娼に、ここで抱かれていたら天井のゴキブリに気づいて悲鳴を上げた、という話を聞いた。
だが、まあ、お値段は格安だ。安い淫売を高い部屋で抱くより、高い淫売を安い部屋で抱くほうがいい──そんな客に、僕もこういうところに連れこまれる場合がある。
今、僕を抱いている彼は、贅肉が目につく独り身の五十間近だ。何度か寝ただけで、信用のおける客ではない。
彼の抑圧された狂暴な欲望は、眼鏡越しのその眼を見れば分かった。話しながらすでに上がっている息でも分かった。それでも彼は、おとなしくされるより悦んでもらいたがっていた。
そんなわけで、僕は強姦されているくせによがりだしたみたいに、彼の突き上げに呼吸の追いつかない悲鳴じみた声を上げる。
「俺は一度、女と結婚した」
僕を攻め立てながら、彼は突然そんなことを語り出した。
「でもダメだった。子供がひとりできたけど、俺は結局嫁を愛せなかった。子供は好きだった。本当に。男だったんだ。ずっと我慢してた。だが息子が十一になったとき、俺は手を出した」
彼は僕の腰を高く抱えあげ、ぐっと杭を打ちこみなおす。
「すぐ嫁にばれて、変態あつかいで離婚された。息子は嫁が引き取った。あの女と結婚しなければ、あのストレスがなければ、息子にあんなことはしなかったのに」
彼の性急な動きは、引っかきまわすようにこちらを錯乱させる。だから僕は彼にしがみつき、何とか安定を取ろうとする。
「全部あの女のせいだ。今でも息子を抱く夢を見る。今あいつは二十歳ぐらいだ。お前ぐらいだよ。きっとあいつも、お前みたいないい軆をしてるに違いないんだ」
彼は僕を猛然とえぐり、ついには吠え猛って尽きてしまった。こんなに激しく犯されては、さすがに僕も息をあげてしまう。最中の話を思い返すと、何とも言えずに肩をすくめてしまった。
その客と別れたのがちょうど零時で、一時には〈neve〉で客と落ち合うのを約束していた。〈neve〉に着くと、腰へのいたわりで窓際のソファの席に座る。注文を取りにきた未都というウェイトレスに、昼食のドライカレーも頼む。
「飲み物は」
「アイスティー。ストレートね」
「オッケー。じゃなくて、かしこまりました、と」
未都の声は弾むゴムボールみたいにやんちゃで、声優もやれそうに特徴がある。顔立ちは綺麗というよりかわいくて、セミロングを頭の両脇でくくった髪型が幼い。僕と同い年の彼女は、〈neve〉に集う売り専たちのアイドルだが、僕に気があるので、どんな美しい男娼にもなびかない。
「水鳥くん、またあの女と喧嘩したんだって」
しばらくののち、香辛料が芳しいドライカレーを持ってきた未都は、そう言ってテーブルに伝票を置いた。売れっこたちは買われていき、店内は落ち着きはじめている時間帯だ。僕にも相席はいない。
「昨日したばっかなんですけど」
「モーテル泊まったんでしょ。さっきいったん帰ってきたミルちゃんが、ボーイに聞いたって言ってたよ」
「まあね。帰った玄関先で暴行騒ぎ。顔合わせるたびに喧嘩で疲れるよ」
「別れたらいいのに」
「そうしようかなあと思ってる。つっても、別れる以前につながりがないし」
「なおさら放っていけばいいじゃない」
「そうだけどね」と僕は銀のスプーンにドライカレーをすくい、湯気を吹いて口にふくむ。
「やっぱ好きなんじゃないの?」
「好きじゃないよ」とちょっと苦いぐらい辛さを嚥下する。
「清算するのも面倒なぐらい嫌なんだ」
「毬ちゃんを気にしてるの?」
「それもあるな。どっちが引き取ればいいんだろ」
「水鳥くんが引き取ったほうがいいと思うな。で、あたしが新しいママになるの」
僕は咲い、「毬音をそう口説いてみなよ」とスプーンをドライカレーにもぐらす。「酷な拒絶だな」と未都はお盆を抱えて、仕事に戻っていった。僕は笑みを噛んでドライカレーを食し、窓の向こうの人通りを眺める。
夕方には雨もぱらついた空は暗くとも、立ち並ぶ店先の光に通りは明るい。男、女、ひとり、ふたり、大人数──いろんな人がいろんな状況で歩いている。
僕は夏乃や毬音を想い、絶ち切るのも潮時なんだろうなあ、とあの乱暴な家庭を想った。
そのあとも客を取り、すっかり陽がのぼった七時頃に帰宅した。ああ言ったものの、夏乃がおとなしく部屋を出ているとは期待していなかった。この時間なら、いるとしたらいるだろうな、と覚悟していたら、さいわい彼女のすがたはなかった。
毬音が静かにひとりで絵を描いている。除湿がかけられた部屋は肌をなだめ、僕は汗の滲んだ前髪をかきあげた。
「夏乃は」
毬音は青紫につぶれた顔をあげ、「出てったよ」と赤いクレヨンを持ち直した。
「いつ?」
「あのあと。もうこんなとこ来ないって」
「ほんとに来ないと思う?」
「来ると思うよ」
舌打ちし、床に今日の稼ぎやコンドームを放った。毬音はスケッチブックに向き直る。部屋の隅で、鏡台はさらにめちゃくちゃにされている。
「鏡、割れてない?」
毬音は鏡台に首を捻じり、「ママが壊してたよ」と僕を仰ぐ。
「破片で手首切ろうとしてた」
「切った」
「泣き出してやめてた」
「ここで死んだら迷惑だな。やっぱ引っ越そうかなあ」
天井へと背伸びする僕を、毬音はじっと見つめる。「何だよ」と目をゆがめると、毬音はさながら青いアイシャドウを入れまくった目をスケッチブックに落とした。
「夏乃、何にも持たずに出ていったのか」
「何で」
「お前がいるから」
「荷物持っていってたよ」
「置いていかれたのか」
「持っていくわけないじゃん」
「よこせって言ってたのに」
とはいえ、あれはもちろん、この部屋を都合のいい休憩所にしておきたかった出任せだ。もしくは、いらついたときのぬいぐるみ欲しさか。母の愛があって吐いた台詞ではない。
僕は腰のだるい軆に熱いシャワーを浴びせたり、キッチンに立って夕食をこしらえたりした。時間をゆっくり使っていても、夏乃が殴りこんでくる気配はない。今のところは、このまま神経を休めておいてよさそうだ。
床に夕食を並べ、それに自分のぶんもあるのに気づくと、毬音はスケッチブックをたたんで起き上がった。
「そういえば今日、管理人のおにいさんが来たよ」
香ばしく熱い串カツに息を吹きかけていると、口元や口の中を気にして食べる毬音が不意にそう言った。
「何で」
「知らない」
「あ、家賃振りこんでない。くそっ、また夏乃のぶんがないんだ。昨日、奪っときゃよかったな」
「ママ、サファイアがなくなってたのに気づいて怒ってたよ。壊されたと思ってたけど。で、宝石は全部持っていってた」
僕は串カツにかぶりつき、粗野に肉を噛みちぎった。少しあぶらっこい。
毬音は緩くもぐもぐとしていて、傷が痛んだのかかすかに眉を顰める。消毒してんのかな、とその傷の加害者の分際で思う。
「あのさ」
いっとき沈黙を置いたあと、僕はきまじめな声で毬音に呼びかけた。「うん」と箸でごはんをすくっていた毬音は、腫れてまぶたが開かない目を上げる。
「お前、僕と夏乃でどっちがマシ?」
「どっちも嫌」
「んなの分かってるよ。どっちがマシ?」
「………、分かんないよ」
「もし僕が、新しい母親ができるって言ったらどうする?」
今日の未都の言葉で、興味にかられた悪戯の質問だったが、毬音は予想以上にびっくりした顔になった。
「できるの」
「そうだったらどうする」
「どんな人」
「今は予定はない」
「……何だ」
「将来的には可能性あるだろ」
「パパはどんな女の人にもああなんでしょ」
「光樹ぐらい波長の合う女だったら分かんないよ」
毬音は口にごはんをさしこみ、傷を痛めないよう、顎をにぶく動かす。伏せがちになった睫毛は電燈に透き、毛先が床に溜まる髪はカーテン越しの陽射しにきらめいている。
毬音は口の中のものを飲みこむと、「光樹くんみたいなママだったらいいよ」と言った。
「光樹くんみたいなパパでも」
毬音は光樹を知っている。初めて会ったときは、橙色の髪だの黒いピアスだのに臆していた。見ためほど中身は強烈でないのを知ると、見ためほど淑やかでない僕より彼のほうに懐いた。子供と接する機会なんてない光樹も、好奇心を混ぜて毬音をかわいがっている。
「光樹は優しいもんな」
「うん」
「愛情知ってるし」
「うん」
「あいつは母親で愛情知ってるんだ。僕は母親に嫌われてたんで、愛情ってのがよく分かんないんだよ」
毬音は僕を見つめた。僕は豆腐とわかめの味噌汁をすする。
「次に女とつきあうなんてことになれば、それは光樹ぐらい合った女だよ。合わない女といたっていらつくのは、よく分かった。夏乃でも、お前でも、母親でも」
「パパは、おかあさん嫌いなの」
「嫌いだね。僕もあの人を離れたくてしょうがなかった」
「いくつで離れたの」
「十一。お前もあと十年もせずに僕を離れられるさ」
「でも、五年ぐらいは一緒にいるんでしょ」
「五年なんてぞっとしそうにあっという間だよ。あー、それで、僕か夏乃でどっちがマシかって訊いたんだ。もし僕と夏乃が別れるなら、どっちと一緒にいるかって」
「別れるの」と毬音は睫毛を上下させ、けれどすぐに視線をキャベツの千切りに落とす。
「今は予定はない、でしょ」
「こっちは遠い話じゃないかも。これ以上あいつと何かあるなら、縁切ろうと思う。僕も好きで切れてるわけじゃないし」
「そうなの」
「そうなの。あいつに黙って部屋移るとかさ。で、お前をどうしようかって」
「捨てたら」
「いいのか」
「連れていきたくないでしょ」
「お前が僕と暮らしていいなら、連れてくよ。夏乃のほうがよければ、あいつの荷物とここに放ってくし」
毬音は黙りこみ、グラスの麦茶に口をつけた。僕は粗熱が取れた串カツを噛み、ごはんもつめこんで食べる。それを胃に飲みこむと、「現実にならないことじゃない」と煮え切らないまなざしを床に流す毬音に言う。
「明日あさってじゃなくても、僕はいずれそうしたいと思ってる。考えとけよ。僕か、夏乃か、お前の好きにさせるさ。どこに誰といるかなんていうのは、お前が決めることだ」
毬音は僕に上目をし、やはり何も言わなかった。彼女がいい迷惑の自由だと思っているのは分かった。どうせ僕にも夏乃にもつきたくないのに選べなんて、両親のどちらも愛しているより焦れったいだろう。「もちろん、捨てたっていいんだよ」と言うと、「死ぬだけじゃん」と毬音はグラスを床に置いた。
そのあと、僕は夕食の片づけをしてふとんを敷いた。シャワーを浴びた毬音は押し入れをあさり、取り出した薬箱で傷を消毒する。僕はふとんに仰向けになり、無言でそれを観察していた。
時刻は八時をまわり、カーテンを引いても室内には朝のまばゆい匂いがただよっている。エアコンは消したものの、寝入るまでは涼しい名残があるだろう。消毒を終えた毬音も僕の隣のふとんにもぐりこみ、しばし室内には空白が置かれた。
「パパ」
「ん」
「パパはどうして、ママとあたしを作ったの」
「お前を作る気はなかった」
「でも、あれはしたんでしょ。したかっただけ?」
「………、あいつに騙されたんだよ。昔の僕は女にうぶだった」
「ママはパパのこと好きだったの」
「初めはね。僕は好きじゃなかった。あいつに逢った頃、僕は切れてたんだ。お前にしたら今の僕もイカれてんだろうけど、落ち着いてるほうなんだよ。自分をコントロールできてる。あの頃はめちゃくちゃだった。あのままいってれば死んでたな」
毬音は身動ぎに衣擦れをもらし、僕を見つめる。僕は陽光の透ける天井を見ている。
「あたし、パパの昔のことあんまり知らない」
「知らなくていいよ。人の苦労なんか聞かなくても、お前は自分で壮絶な経験をしていくさ」
「パパのおかあさんはどこにいるの」
「すぐそこだよ。陽桜にいる」
「そうなの」
「つっても、八年くらい顔見てない。そんなもんだよ。お前もこの部屋さえ出れば、街は出なくても僕とは他人になれるよ」
「パパのおかあさんは、やっぱりあたしを嫌うかな」
まくらに据えていた頭を、毬音へと捻じった。あいだを置いて、僕と毬音は同じ種類の目を交わす。僕は天井に向き直り、ちらついた栗色の髪にまぶたを緩めた。
「嫌われるよ」
「……そっか」
「会いたいのか」
「別に」
「あの人はほかにお気に入りがいるんだ。義理の息子をかわいがるのにいそがしくて、実の息子なんかどうでもよかったんだよ」
毬音の視線が頬にあたる。僕は愚痴をつぐむと彼女に背を向けた。しばらく空を泳いでいた瞳に、眠気に誘われてまぶたが重くおりる。
蛍華さんは珠生をかわいがるのが好きで、僕なんかちっとも愛さなかった。珠生はそれをひけらかし、愛されやしない僕を嘲笑った。僕には、それが多少すりこまれているのかもしれない。誰も僕なんか心からは愛さない。その確信により、相手に対して失うものがない無鉄砲が生まれ、暴虐になれる。
誰かに愛されたかった。愛されたくて、愛されたくて、自分で自分のことは愛せなくなったことがある。
そのとき、あんなひどい状態になった。豹さんが助けてくれなければ、死んでいただろう。
心臓の白鳥を感じ、僕は視界を暗闇に沈める。最近はまったく会っていないけど、この白鳥を感じれば、今も豹さんが僕を想ってくれているのは分かる。僕が愛なんてたやすく信じないと開き直れたのも、この白鳥があるからなのだろう。
【第二十四章へ】
