青氷の祠-27

回想【6】

 僕は十一の秋についに忍耐を切らした。蛍華さんの僕への憎悪は狂的になっていくし、珠生も僕に皮肉を吐いては愉しそうに笑う。光樹もいないし、僕はもはや、この部屋を出るためなら何でもしてよかった。
 めそめそ傷つくならまだしも、僕はこの環境がいらついてしょうがなかった。このままでは、蛍華さんか珠生を殺し、人生をめちゃくちゃにするのが時間の問題だ。
 そんなわけで、僕はリュックに荷物をつめこみ、いつだかもらった名刺を頼りに、豹さんの事務所におもむいた。
 豹さんへの不安も消えていなかった。この頃の僕は、豹さんより抱いてくれる男に比重を置いてすらいた。が、こういうときに頼れるのは豹さんだ。
 十一になって、半年も過ぎた。そろそろ軆を解禁してもいいだろう。いつしか、透明にならなくてもこの街をうろつけるようになった。子供が終わってきたんだな、と怖いような気持ちの中、中枢寄りのビル街に踏みこんだ。
 夜中だったが──というか、夜中らしくというか、そのへんはきらびやかなネオンがなく、ひっそりと落ち着いていた。近寄りがたい品格が秋風に澄み渡り、静かながら、環状線が近いので車の往来は聞こえる。
 街燈やビルの門燈に、通りに人の行き来が映る。背広の男の人やスーツの女の人でどきどきした。はっきり言って、僕のようなガキが立ち入る場所ではなかった。やっぱ次に豹さんが部屋に来たときにしようかな、と街燈で名刺を見ていると、目の前に住所が一致するビルを見つけた。
 巨人にも思える高層ビルは、無数に窓が整列し、塗装も青い鏡みたいだった。でっけー、とつぶやきそうになり、響きそうなので口を抑える。正面玄関も高級ホテルを思わせ、遥か奥にフロントに似た受付が覗けた。受付は無人だったが、ビルは開いているらしく、明かりがついている。階段をのぼると、赤外線センサーを踏まないようにするみたいに、びくついて自動ドアを抜けた。
 大理石の床は磨きあげられ、自分のビビりきった顔を堪能できた。スニーカーなんか履いてきたおかげで、きゅっと目立つ音がこぼれる。室温はほどよく、緊張感のある匂いがしていた。人影は見あたらない。昼間は人がごちゃごちゃしていて相応なのだろうが、誰もいないと、何もないそこは途方もなく広かった。誰もいないのかなあ、とたたずんでいると、本当に不意に、警備員に僕の背後を取った。
 この街では、十一にもなれば商売を始めていてもおかしくない。警備員は僕を子供あつかいせず、「何の用だ」と恐ろしい形相で嫌疑してきた。振り向いた僕は、すくんだ心臓におろおろしながら、豹さんの名刺をさしだした。乾いた喉に空振りそうな舌で、この人のところに連れていってほしいと伝える。警備員は名刺を見て、ちょっと驚いた顔になった。「この人とどんな関係だ」と、口調には万一本当に知り合いだったときのための敬意が混ざる。
 どんな関係、と言われても、なじみの娼婦の家族とは言えまい。僕はろくな嘘を思いつけず、ひとまず自分の名前を名乗ると、豹さん自身に確認してほしいと言った。もし豹さんが知らないと言えば帰るとも言い添えた。警備員は疑る顔つきを取り戻したものの、無闇に配られることはない名刺を無下にもできなかったのか、連絡を入れてくれた。自分で言っておきながら、知らないって言われたらどうしよ、と不安に駆られて弱気になっていると、僕を迎えにきたのは警備員でなく豹さんだった。
 受付の右手のエレベータがやってきて、背広すがたできっちりした豹さんが降りてくる。僕のすがたを見つけると、「何やってるんだ」と革靴を響かせて駆け寄ってきた。怒ってんのかな、と怖くて後退りしかけたものの、僕の元にたどりついた豹さんは、真っ先に僕を抱きしめた。煙草とコーヒーの匂いがした。ついで離すと、腰をかがめて僕の頬に指先をすべらせて顔をよく見る。
「本当にひとりで来たのか」
「う、うん」
「何してるんだ、まったく。電話でもよこせば迎えにいったのに。何もなかったのか、こんなところで」
「ん、平気。何にもない」
 豹さんは、現に僕のどこにも異常がないのを認めると、ほっと息をついた。いつも冷静な豹さんが、そうして取り乱して心配してくれたのが嬉しかった。つい咲ってしまうと、豹さんも微笑んで体勢を戻す。
「驚いたぞ」
「ごめんなさい」
「謝らなくてもいいが。よくここが分かったな」
「あ、前に名刺もらってたし」
 僕が名刺を見せると、「そうか」と豹さんは納得し、それでも素早く周囲に目を走らせた。僕を利用した何かの働きかけかとも疑ったのだろう。考えれば、名前だけで僕だという証拠もないのに、豹さんが直接降りてくるなんて無防備だ。警戒より僕への懸念が勝ったということで、それは僕の気分を良くさせる。
「じゃあ、どうしたんだ」
 訊きながら豹さんは僕のリュックに目をとめ、「何かあったのか」と歩き出すのをうながす。
「ん、……うん」
「こんなとこに来るなら、よっぽどだろう」
「邪魔じゃ、なかった?」
「帰ろうとしていたところだ」
「……そう。じゃ、あの、僕、豹さんにお願いがあるんだ」
「お願い」
「迷惑ならいいけど、でも──」
 豹さんは僕の頭に手を置き、「迷惑かどうかは聞いたあとでもいいだろう」と遠慮は制した。
 警備員が顔を出し、無論、もう僕にあの怖い顔はしない。「知り合いが預かってる子なんだ」と豹さんは軽く説明し、警備員は二度と僕を懐疑しないように顔を覚える。
 僕と豹さんは明るいエレベーターに乗った。豹さんは僕を最上階に連れていったが、全三十階中、計六階が豹さんのフロアなのだそうだ。「全部じゃないの?」と浮遊感覚の中で訊くと、「私有ビルではないからな」と豹さんは咲った。
 何となく、豹さんの事務所はここひとつではない気がした。僕はこのとき初めて、この人の仕事は何なのだろうと思った。が、訊かなかった。ただ、ここにいてくれて、わりと簡単に捕まえられたことに感謝した。
 エレベータを降り、秘書の綺麗な女の人に挨拶すると、豹さんは奥まった両開きのドアの部屋に僕を招いた。
 緑の絨毯がふかふかのそこは、僕が暮らす部屋より広かった。真ん中に木製の大きなつくえがあり、背後の壁に時計やカレンダーやエアコンがある。つくえの前には、テーブルを挟んで黒いソファが向かい合い、左には棚や別室へ続くらしいドアがあった。右手には分厚いガラスが張られ、向こうのきらびやかな夜景を一望できる。
 豹さんは僕をソファに座らせると、秘書の女の人に紅茶とクッキーを持ってこさせた。その女の人が一礼して去ると、豹さんは僕の正面に腰かける。
「蛍華は仕事中だな」
「ん、……うん」
 僕は膝のリュックに目を落とす。豹さんが蛍華さんの名前を口にするのは痛い。
「黙って出てきたのか」
「……うん」
「喧嘩でもしたか」
「喧嘩は、いつもしてる」
「そうか」と豹さんは笑みに精悍な印象をやわらげる。僕はここに来ようと想った時点で覚悟してきたことを想い、肩をこわばらせて生唾を飲みこんだ。
「珠生か」
「ん、まあ。珠生も、蛍華さんも──あの部屋にいるのが、つらくて」
「つらい」
「豹さんは、僕があそこでどんなか知ってるでしょ」
「ああ」
「僕、ずっと我慢してきたよ。哀しくはなかった。いらつくんだ。あのふたりは、僕といるぐらいならゴキブリといるほうがいいみたい」
 僕の比喩に豹さんは失笑し、香ばしい湯気を立てる紅茶に口をつけた。僕はリュックのストラップを握り、言わなきゃ、と思ってもなかなか口を開けない。
「じゃあ、部屋を出るのか」
「僕、十一だよ」
「大人だな」
「働きたい」
「そうだな。俺から蛍華に言おうか。あいつの系列の店にも男娼の──」
「蛍華さんの名前で働くのは嫌なんだ」
 豹さんは言葉を止め、改めて僕を見た。僕と一度肺をつらぬく深呼吸をすると、豹さんを正視する。
「蛍華さんの元では働きたくない」
「……一からやるのか」
「できれば」
「それはダメだ。下等の男娼は、お前が考えてる以上に悪夢だ。病気も暴力も隣合せだし、ゲイの客が取れることすら稀だ。女を買う金がなくて、酒か薬で男を女に錯覚するイカれた客しかつかない。どれだけやれば店からお呼びがかかるなんて約束もない。むしろ、下等あがりの淫売なんかお断りだってところもある。低級から入っても、そのうちお前もヤク中になって破滅するだけだ」
 僕は睫毛を下げた。言われなくても、それは分かっていた。でも、蛍華さんの七光に守られ、蛍華さんに感謝するぐらいなら、そこからのしあがったほうがマシだった。とはいえ、自分がそれに耐えぬけるとも思えなかったので、僕はここにやってきた。
「だったら、豹さんの下で働かせてよ」
 冷静に僕を説得しようと煙草に火をつけていた豹さんは、眉を寄せて僕に目を向けた。思い上がった“お願い”だとは分かっていたので、伏目がちに続ける。
「豹さんの名前で働きたい」
「……俺の」
「豹さんなら、名前がきくお店もあるでしょ。そこに紹介してよ。蛍華さんとは違うところ。蛍華さんとは切り離してほしい」
「………、」
「僕がまだ、豹さんの名前に合うほど一流じゃないのは分かってる。けど僕、すぐに一流になるよ。そうなれるように頑張る。豹さんの名前に恥ずかしくない男娼になる。だから」
 豹さんは煙草に口をつけ、煙たい息を吐いてソファに沈んだ。心臓が小刻みに骨に刺さっていた。豹さんは瞳は渋く、不快そうではなくも、快諾する色はなかった。僕は震えそうな手をリュックに突っ込み、部屋で盗んできたものをテーブルに置いた。

第二十八章へ

error: