回想【7】
豹さんはそれを一瞥し、怪訝そうに僕を見た。それは蛍華さんの細い革のベルトだった。僕はこれを鞭にして打たれることもある。
「……何だ」
「これで僕を縛って、何してもいいよ」
豹さんはさらに僕を凝視した。頬の熱に瞳を潤ます僕は、豹さんを直視できず、その喉仏を見ている。
「蛍華さんに較べたら、僕なんかつまんないだろうけど」
「………、」
「ほんとに、何してもいいよ。何でもして。犯してもたたいてもいいよ」
「碧織──」
「僕、何でも平気だよ。初めてはあげられないけど」
真っ白な頭で頬を真っ赤にする僕の台詞に、豹さんの表情がさっと不穏に凍った。「どういう意味だ」と豹さんは低い厳しい声で、テーブル越しに僕の肩をつかむ。
「え……」
「『初めてはあげられない』ってどういうことだ」
「え、あ、初めてが欲しかった」
「違う。まさか誰かに手を出されてるのか」
「……あ、う、……うん。蛍華さんの恋人とかに」
豹さんは僕の肩をぎゅっとつかみ、こらえるように表情を硬くさせた。脱臼でもしそうな強い力で、僕は赤面も忘れてつい眉を顰める。
「いつからだ」
「え、えと、九歳」
「何回されたんだ」
「な、何回、というかいろんな人が──」
「何で早く言わなかった」
「あ、え、だって」
「威されてるのか」
「べ、別に。その、僕、」
「顔と名前は一致するか。俺が思い知らせてやる」
「あ、あの、いいよ。そんな──」
「俺が許せないんだ」
「いいよ。しないで。だって僕、あの人たちに抱かれて嬉しかったもん」
豹さんは僕を見た。僕は怯えた瞳でそれを見返した。「嬉しかった……?」と豹さんは信じられない声で手の力を抜く。
「おもちゃにされたんじゃないか」
「分かってるよ。蛍華さんの代わりだとも分かってる。それでも嬉しかった。僕はあの人たちがすごく好きだよ」
「分からないな。何でそんな」
「だって、僕を抱きしめてくれたもん。僕の頭を撫でてくれたし、僕の中に入ってきて僕を温めてくれた」
「………、」
「あの人たちに抱かれてると、寂しくなかった。ほんとだよ。誰にそう言えって言われたわけじゃない。口なんか一度も聞かなかったよ。黙って触ってきて、黙って入ってきて、黙って離れるんだ。それでも嬉しかった」
豹さんは僕を見つめ、その瞳をだんだん哀しく沈ませていった。僕の肩を離すと、にぶく腰をソファに戻す。僕は小さく息を飲みこんで肩に触れ、そっと豹さんを窺った。豹さんは思いつめた顔を伏せ、ふかふかの床に視線をおろしていた。
気まずく重たい沈黙が低迷する。僕はテーブルに放られるベルトを見ていた。紅茶は湯気を立てていない。ただ、豹さんの煙草の煙の匂いが流れる。
バカなことを言ってしまったのだろうか。そんな後悔が弱くかすめる。蛍華さんの七光にあたるぐらいなら、下等淫売のほうがマシだった。でも、豹さんに嫌われるぐらいなら──息苦しさのせいか、喉がぎゅっと痛くなって瞳が滲んだときだ。
「何でだ」
突然破れた沈黙に、「え」と顔を上げた。豹さんははりつめた表情をうつむけている。
「そんなことに感謝するほど、何に苦しんでるんだ」
「………、」
「蛍華の暴力は、そこまでつらいか」
「……別に」
「珠生か」
口をつぐみ、膝にうなだれた。豹さんの視線が額にあたる。
「碧織──」
「誰かひとりのせいじゃないよ。僕以外のみんなのせいだよ」
「みんな」
「ひとりぼっちな気がして。あの人たちは、僕の肌に触って、僕がここにいるのを確かめてくれた。蛍華さんも珠生も、僕なんか消えればいいって感じだし、光樹は外に行っちゃった。豹さんは──」
一気に言ってしまおうとしたけど、黙りこんでまぶたも緩めてしまう。「何だ」と豹さんは強い語調で追求する。
「俺はお前に何をした」
「………、」
「何かしたんだろう」
「……豹さん、は──僕なんて何とも想ってないんでしょ」
豹さんは心外そうに目を開き、一瞬口を閉ざして考えたが、「どうしてそう思うんだ」と心当たりがなかったのか、なおも問いつめる。
「だって、豹さんには僕は蛍華さんのおまけでしょ。蛍華さんの家族だからかわいがってくれるんだ。珠生だってかわいがってるし、僕を僕だからいろいろしてくれてるんじゃない。全部、蛍華さんの家族だから。豹さんが好きなのは蛍華さんなんだ。蛍華さんを抱くのが豹さんの目的なんでしょ。僕のことなんか、別に、………」
僕は言葉と共に首を垂れ、豹さんの視線は徐々に脱力していった。そして不意に咲うと、「それはお前の思いこみだ」と穏やかな口調で灰皿に煙草をつぶす。
「俺はお前をお前として想ってる」
「………、」
「お前を知ったきっかけが、蛍華であることに変わりはない。が、今では俺の中では、お前は蛍華とは別格の存在だ」
前髪の隙間で豹さんに目をあげる。豹さんは、僕のもろい瞳に微笑んだ。
「蛍華と寝るのに、お前の機嫌をとっても何もないだろう。蛍華に尽くすなら、逆にお前をないがしろにしてるさ」
「豹さん……」
「珠生にいろいろしてやるのは蛍華のご機嫌取りだ。お前は別さ。俺が好きで面倒を見てるんだ」
「どうして、僕なんか」
「俺はお前を気に入ってるんだ。蛍華のことみたいにな。俺にとっては、お前と蛍華は対等だよ」
こらえていた涙を安堵でこぼす僕に豹さんは咲い、ソファを立って隣に来た。「そんなことを思って最近、無口だったのか」と僕の涙をぬぐい、その指の温かさに僕はさらに泣いてしまう。
豹さんの肩にもたれると、豹さんは僕を胸に抱いて頭を撫でてくれた。僕を抱いたあの男たちのように。僕は彼らにしたように豹さんにしがみつき、その硬い胸に頬を押し当てた。
この人になら抱かれてもいいと思った。いや、抱かれたかった。でも、豹さんは僕のすすり泣く震えが落ち着くと、軆を離した。
「豹さん──」
「分かったよ」
「え」
「俺がお前の面倒を見よう。いいところを紹介してやる」
涙に腫れた目を持ち上げた。豹さんは僕の頬を拭き、まじめな瞳を僕の瞳にそそぐ。僕はベルトを見た。豹さんはかぶりを振り、「そんな取引はいらない」と手に取ったベルトを僕のリュックに乗せる。
「でも」
「お前が個人的に誘惑してきたなら乗ってもいいが、そんな事務的には欲しくない」
「………、」
「もっと軆を大切にするんだ。男娼になるんだろう」
「男娼で、大切にするの」
「安売りすればいいもんじゃない。部屋を用意するから、しばらくそこに暮らして淫売として仕込まれるんだ」
「僕、分かってるよ。蛍華さんの見てきたし、抱かれ方も知ってる」
「見るとやるとじゃ違う。ストレートの身代わりになるのと、ゲイのはけ口になるのも違う。蛍華には影響されない淫売になりたいんだろう」
「うん」
「じゃあ、あの部屋で覚えたことは忘れるんだ。一から仕立ててやる」
豹さんを見つめ、その言葉はもっともだったのでうなずいた。豹さんは笑みを作って、僕の頭に手を置くと、「今夜は俺の部屋に泊まるといい」と立ち上がる。こくんとした僕も、ベルトをしまったリュックを抱いて立ち上がった。
かくして、その日は豹さんの部屋に泊まり、翌日からさっそく、豹さんに紹介された男娼のおにいさんたちに売春の手ほどきをされた。
蛍華さんと珠生の部屋には帰らなかった。光樹には、電話で住む場所が変わったのを連絡しておいた。親に学校に行かされる光樹は、『いいなあ……』と自活を始める僕に心からつぶやいたが、妬みはせずに『頑張ってね』と言ってくれた。僕はうなずき、豹さんの心が透けたおかげで、光樹の心も信じられている自分に気づく。そして蛍華さんと珠生の存在は、日を追って僕から削除されていった。
僕はふた月かけて、さまざまな技巧やそのコツ、具眼やその重要性を入れこまれた。あとは実際に客に接し、培った才能を磨くばかりとなった。
豹さんは僕を予約制の高級宿に置いた。わざわざ宿屋街に出向いて部屋を物色せずとも、清潔な部屋が並ぶ“揚屋”もある店だ。仕事のとき以外は、食事や娯楽の整った“置屋”でくつろいでいればいい。
水揚げの前日、僕は豹さんに呼び出されて、久しぶりに一緒に食事を取った。
「緊張してるか」
白身魚のムニエルを切りわける豹さんは僕にそう笑み、「ちょっと」と僕はスプーンにすくったビーフシチューに息を吹きかけた。
「でも、たくさん教えてもらって自信はついたし」
「本番はごちゃごちゃ考えずにやればいい。たたきこんだし、自然とやれるさ」
「うん」
「俺が妙な客はつかないようにはしておく」
こくりとして、ほろほろの牛肉を口にふくんだ。それをもぐもぐとしたあと、ちろっと豹さんを盗み見た。
蛍華さんがどうしているか、興味があった。だが、変に勘違いされたくなかったし、荷物がなくなったと喜んでいるのも想像に難くない。わざわざいらつきたくなくて、そこには触れず、濃厚なぶどうジュースをすすった。
そのあと、豹さんは僕を車に乗りこませると、宝石店に寄り道して、僕に銀のピアスを贈った。その場で空けてもらった右耳の穴にピアスをさし、僕は鏡でそのピアスのきらめきを見つめる。豹さんは僕の焦げ茶の頭を撫で、その指でピアスに触れた。
「どうして」
そう顔を仰がせると、「保障だよ」と豹さんは鋭い瞳をぐっと優しくした。
「このピアスをする子にバカな真似をしたら、俺が黙っていない」
僕は咲って鏡を向いた。痛みは思ったよりなかった。慣れなくても、シンプルな輝きがしなやかな僕には似合っている。
「俺がお前を想ってる証拠だ」
豹さんをもう一度見上げ、含羞を入り混ぜて一笑した。豹さんも微笑み、「今日は休んでおかないとな」と帰宅をうながす。マンションの前まで送ってもらい、豹さんと別れて部屋に帰っても、僕はそのピアスに触れて何だかひとりで笑みをもらしていた。
これをみずからはずして、豹さんを拒絶するときが来るなんて、このときは思ってもみなかった。
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