仕事の合間に
なじみの客とひと仕事終え、熱いシャワーを浴びている。鎖骨に当たってはじけた熱の雫は、黒い白鳥の上をすべって、足元に流れ落ちた。
肌に指をすべらせて、汗のべたつきはないのを確かめると、シャワーを止める。ぽたぽたと雫を落とす前髪をかきあげ、鏡の中の自分と一度瞳を合わせると、まだ気は抜けないんだよな、と気を引き締めてバスルームを出た。
シャンプーやボディソープの匂いはついてこない。そんなのに泡ぶくになっているヒマはなかった。終わったのが制限時間の十分前で、今日は男らしく、チップはすぐさま奪ったほうがよさそうだ。
今日の客は以前は絶望的な薬物中毒で、その後遺症で陰萎に片足を突っ込んでいる。金にゆとりはなく、どうも余韻の時間が削られることになる。シャワーを浴びる時間すらなく、次の客との逢引に汗だくで走ることもある。僕は理由は伏せ、彼の予約のあとには余裕を置いてくれと弓弦に頼んだ。かくて、次の予約にケツを蹴られてはいなくても、ただで制限時間を引き延ばすなんてひいきはやはりやれない。
洗面台の前で、頭に白いタオルをかぶって髪をふく。黒い白鳥を見つめていた。これが僕の心臓に宿って、かれこれ四年になる。水鳥。この名前を名乗りはじめたのはこちらに来てからで、以前は別の源氏名だった。
僕は手を止め、右耳のふさがった穴に傷んだ目を向ける。ここに銀のピアスを刺していた頃は──思い出したくなくて、思索を切断すると、無心に全身の水滴をタオルに吸わせる。
服を身につけると部屋に戻り、首尾よく代金とチップをもらった。彼は初め、興奮剤やラブドラッグで性器を奮わせようとばかりしていた。が、そのまま熱が欲しいという僕の言葉で次第に更生した。今や彼は自分を救った僕にべた惚れで、そのぶん自分の遅漏が僕に迷惑をかけていないか気にしている。僕は微笑んで彼の懸念をやわらげると、「また薬やったら、僕をつらぬけないからね」と変なものに手を出さないのを諭し、玄関で別れた。
僕はきらびやかな通りを眺め、いっときその場に突っ立って、頬を風にさらしていた。吹きつけたばかりで香水の匂いが強く、いかにも化粧っぽい。僕はこのままでもよくても、移りはじめた匂いのほうが他人の嗅覚には甘美なようだ。僕自身の匂いが混じるせいだろうか。匂いが風に整うと、階段を降りて〈neve〉に向かう。
時刻は一時過ぎで、二時に〈neve〉での約束があった。あたりにはいちゃつくふたり連れがうようよしている。男と女、男と男、女と女。女と女ってのは僕には近そうで遠いよな、と手をつないだ女の子同士とすれちがって思う。
レズビアンはゲイに較べて無知に守られているが、永年この街に暮らす僕は、やっぱりレズビアンショウやら何やらが存在するのを知っている。しかし、そこの光景はいまいち想像できずにいると、妙な影がない路地を見つけて僕はそこに入った。
〈neve〉のある飲食街は、宿屋街の裏通りだ。こういう経路を使えば、いちいち大きな十字路やT字路を迂回しなくてもいい。悪戯しあうふたりも、ビニールぶくろに顔を突っ込むのもいない。ラッキー、と飲食街に抜け、〈neve〉がどちらの方向になるかあたりを見まわしたときだった。
「碧織」
そんな呼びかけと肩をたたかれ、思わずびくっと振り返った。そして、視界に入った同じ目線の人物に、反射的に顰め面になった。そこでくわえ煙草をしていたのは、珠生だった。
「かわいくない顔」
青いイルミネーションに黒髪を艶めかせ、なりはベージュのシャツにジーンズの彼は、僕の思わしくない反応にひるまずに言う。
「お前にかわいい顔なんてする気ないね」
珠生は何も言わなかったけど、赤い唇でちょっと愉しそうには咲った。やっぱ元気にやってやがる、と僕は爪を噛みそうになる。
「こんなとこで何してんの」
「お前こそ何してんだよ」
「俺は別に、何も。こんな時間に出勤?」
「ひとり客取ってきたんだ。で、次の約束のとこに行ってんの」
珠生は長い睫毛を意外そうにまばたかせ、「店に置かれてるんじゃないのか」と言う。こんな奴と馴れ馴れしくお話なんかしたくないのに、と焦れても、「まあね」とぞんざいに返してやる。
「位、さがったんだ」
僕は珠生を睨みつけた。珠生は通りに目をやって、煙草に口をつける。
「あんなすごいとこに勤めてたのに」
「貶してたくせに。僕にはああいうのは合わなかったんだ」
「低級がお好み?」
「言っとくけど」と僕は雑音に紛れない強い口調で言う。
「店で完全管理はされてなくても、ほとんど予約で客取ってるよ」
「お前にじかに予約が入ってくるんだろ」
「周旋屋を通してだよ」
「………、あの豹って奴」
「豹さんの部下みたいな奴だよ」
「奴」
そういう細かい耳は淫売の名残だな、と思いつつ、「僕より年下なんだ」とつぶやく。珠生は僕に目を戻して笑い、僕はそれをすれた眇目で見返した。
「年下に管理されてるんだ」
「豹さんがそいつに僕を預けたんだ。豹さんの元だと、高級じゃなきゃいけなかった」
「高級って楽じゃない?」
「僕をコケにしまくったお前が言うなよ。僕は客の肌を感じるのが好きなんだ」
「変わってるな」
誰のせいだよと言いそうになり、唇を噛んで抑えた。珠生は煙草に口をつけ、睫毛に沿って視線を道路に落とす。煙草の匂いは珠生らしくなく、安っぽかった。ちなみに僕がいつもジーンズのポケットに数本ねじこんでいるのは、豹さんのと同じものだ。
珠生のなめらかな白い肌は、相変わらず光をあてるとそのままに映す。今は青い光があたり、頬を青ざめさせた珠生は氷の女王に見えた。「今も懐いてるんだな」という清涼な声も青い光に似つかわしい。
「え」
「あいつに」
「あいつ」
「豹」
「まあね」
「俺はあいつは嫌いだ」
「豹さんもお前なんか気に入ってないんで大丈夫だよ」
「………、」
「はは。だから嫌いなの?」
僕は昔の珠生のように笑ったものの、珠生は昔の僕のように怨みがましい眼はしなかった。だるそうな色を瞳におろし、僕も笑えなくなる。
「豹さんに気に入られたかったの?」
「別に。あいつは俺を切り捨てたがってた」
「……そう?」
「眼とかそんな感じだった。お前と蛍華さんには優しくても、俺には」
そうかな、と思っても、豹さんが珠生を見つめるのなんて、万一そこに愛があったらと怖くて観察しなかった。珠生はまばたきで重みをはらうと、青い光を通して僕に目を向ける。
「寝たのか」
「誰が」
「お前。あいつと」
「何で」
「あいつはお前を食いたがってた」
僕は眉を寄せ、「それひがめだよ」と脇の壁にもたれた。がさがさした壁は半袖の腕にひやりとする。人混みをはずれているので、ここは空気も涼しかった。
「ひがめじゃない」
「やってないよ。誘ったって抱いてくれなかった」
「……誘ったのか」
「一度ね」
「じゃあ、体裁を取ったんだ。あいつのお前への眼は、皮かぶった狼だった」
「それ以上、豹さんの悪口言ったらぶっ殺してやる。あの人は僕の大事な人なんだ」
珠生ならここぞと何か言うと、本気で彼の喉元に目を走らせたが、その眼に気づいたのか彼が変わったのか、珠生は黙って煙草を吸った。ただ、負け惜しみみたいに、「ほんとにやられてたら分かるのに」と独白した。僕は無視して、話し声や叫び声を眺めた。
「碧織」
「ここで僕の本名言わないでくれる?」
「……天海」
「それ、昔のでしょ」
「変えたのか」
「今は、水鳥、だよ」
「ミトリ」
「水の鳥って書く」
水鳥、と珠生は口の中でその名前を試し、「豹さんがくれた名前なんだ」と僕はつぶやいた。珠生の眉は不快そうにぴくりとして、僕は咲う。珠生は息をつくと、煙草を地面にはじいてにじった。
「水鳥」
「ん」
「じゃあ今お前は、きちんと淫売やってんだな」
「そうだね。きちんとね」
「楽しい?」
「うん」
「お前はあのままでよかったのに」
「いたくなくさせたの誰だよ」
珠生は咲って瞳を暗い地面に泳がせた。元気になったような、依然疲れているような──こいつ外でどうだったんだろうな、と思う。ちなみに珠生には外の臭いが色濃く、触れた途端、感染しそうだ。
「珠生」
「ん」
「お前、また淫売になるの」
「……どうだろうな。俺は淫売に向いてないよ」
「人の客、さんざん股開いて寝盗ったくせに」
「また恋に落ちても困るし」
珠生のもどかしい笑みを含んだ横顔を見た。寒色の光の中、珠生は息を飲みそうに美しい。本当の愛は、氷のように冷たい。珠生は冷たいのがよく似合う。だから彼は、さまざまな人間に愛されるのだろうか。
「恋」
「うん」
「恋だったの」
「うん」
「お前、ホモ?」
「うん」
珠生への凝視を強くする。「知らなかった?」と珠生は僕に顔をあげ、どこか無理をするように得意気に咲う。
「俺は男が好きなんだ」
「ほんとに」
「じゃなくて男と寝れるかよ」
「本質的にはストレートなんじゃないの」
「自分がホモで男と寝れるから、お前もゲイだと思ってたんだ」
「………、僕はストレートだよ」
「うん。女と仲直りした?」
「あれから会ってないよ。あいつが出ていったんで」
「俺も部屋を出てきたんだ。逃げてきた」
僕は珠生の痙攣じみて咲う黒い瞳を見つめる。
「好きだったんじゃないの」
「好きだったよ。ずっと一緒にいたいと思った。ふたりきりで」
「で、逃げてきたの」
「俺が子供だったから。それがあの人を変えちまった」
首をかしげた。子供──まあそれは事実だ。駈け落ちしたとき、珠生は十三歳だった。相手も二十代と若くはあったはずだ。
「変えた」
「うん。定番だよ。でも俺はあの人を好きでいられなくなった」
「男がみんなそうなるとは限らないんじゃない」
「どうだろ。俺が男をああいうふうにさせるのかもしれないしな」
それは卑屈の謙遜か、もしくは悩殺の自慢か。珠生は僕を見てあやふやに笑った。
「お前、元のとこに顔出した?」
「ん、いや。まだ」
「行きゃいいじゃん」
「淫売になれるか分かんないし」
「なりたくないって言えば」
「通じるかな」
「うぬぼれんなよ。……待ってる人もいるじゃないか」
「え」
「あのクソババアが」
珠生は陰った地面に目をやり、「蛍華さん」と確認する。
「いいコンビだったよな」
「俺のことなんか、忘れてるよ」
「ふん、それは僕の台詞なんだろ。お前が帰ってきたって知れば、泣いて喜ぶよ」
「………、分かんないよ」
「何だよ、あれだけ僕があの女にコケにされて、自分は愛されてるのを見せびらかしたくせに。僕は実の母親に愛されない不幸なガキなんだろ。水に流してると思うなよ」
珠生は僕に重苦しい瞳をよこした。煮えたぎる眼より、かえってたじろがせる迫力があった。「何だよ」と気勢を張って睨み返すと、珠生は誰かの甲高い笑い声に負けながら言った。
「俺だって、実の母親には愛されなかった」
珠生を見つめた。珠生は目を閉じて息をつくと、「仕事あるんだよな」と通りに踏み出した。
青い光が黒髪を流れ落ちる。珠生は黙って人混みに混じり、僕は壁にもたれるまま空白に止まっていた。俺だって実の母親に──
お仲間だというのか。「ざけんなよ」と毒づくと脚に体重を戻し、思わぬ時間の無駄に小走りに〈neve〉へ向かった。
【第三十章へ】
