まだ学校という狭い世界しか知らないけど、それでもこれまで、生きていることに光なんて見つからなかった。
いずれ学生でなくなるこれからにも、呼吸を楽にする光は見当たらなかった。
自分は死ぬのがちょうどいいと思っていた。死ぬことでしかこのくすんだ命を表現できない。高校二年生の夏、そんな僕の暗闇にふいに灯った明かりが、螢野くんという同級生だった。
教室で弁当を食べていたら、その日も「いつも」のクラスメイトにつかまった。教室を引っ張り出され、昼休みで解放されている屋上に連れていかれる。
肩や背中を容疑者を連行するように突き飛ばされ、ホコリが光で反射する階段をのぼっていく。ドアを開けて屋上に踏みこみ、左手に向かうとくつろぐ生徒でにぎわっているけれど、右手はチャイムの裏だから、鳴ったときすごい音がするので誰もいない。
どすっと腰を強かに蹴られ、前のめりに地面に膝と手をつかされた僕は、降ってくる数人の笑い声に軆をこわばらせた。頭の中にまた暗い墨が染み出してくる。
ああ、また──
汚いものみたいに爪先で軆を裏返され、その足がそのまま側頭部を蹴りつけてきて視界がフィルムがはみ出たようにぶれる。ついで、ほかの足が肩を煙草を消すように踏み躙った。うめき声がもれただけで、うるさいと喉か腹を蹴られるから、必死に我慢する。
でも、我慢したら、それはそれでこの人たちは気に食わないのだ。この人たちが見たいのは、僕が泣き出して、自尊心を粉々にするところなのだ。
目をつぶってせぐくままってお腹は守る。すると脇腹に深く蹴りが刺さり、背骨を執拗に突かれる。後頭部を踏みつけられると、髪がこすれて上履きの臭いがした。たくさんの足に軆を穿たれて、脳内がぐらぐらして意識が遠ざかっていく。
だから、いつのまに踏みつけにされるのが終わったのか、気づかなかった。チャイムはまだ鳴っていない。薄目を開けると、ひとりが僕に目を眇めて「つまんねえんだけど」と言ってきた。
「……え、」とかすれた声をもらすと、その人がいらついて僕の側頭部をかかとでえぐった。がつんと衝撃が視覚の色を反転させる。
「何かしろよ」
「な……んか、って」
「そうだ、はだかになれよ。全裸になって土下座しろ」
僕が目を開いて固まると、ほかのふたりも「脱げよー」と言ったり「写真撮ろうぜ」とスマホを取り出したりする。
僕が何とか首を横に振ると、言い出した人が胸倉をつかんで僕を立たせて、がしゃんと僕の背中をフェンスの網に押しつけた。眼の冷たさが僕の首をじわじわ絞める。
「謝れよ。気晴らしにもなれなくて申し訳ありませんって」
「そん、な──」
「空気読めねえお前が悪いんだろうがっ。くだらねえ意地張りやがって」
とまどった僕の腹に、すかさずこぶしが突き刺さる。ひゅっと息が止まり、ついで激しく咳きこんだ。
涙目になった隙に、両脇を固められて白い開襟シャツをぶちぶちとはだけさせられる。「や、」と僕が抵抗しようとして、やっと三人ともおもしろそうな笑みを浮かべてシャツをむしりとる。華奢で生白い僕の軆には内出血が飛び散っている。
そして、黒いスラックスのファスナーも下ろされかけたときだった。
「おい」
突然、そんな低い声が割って入った。僕も三人も、はっとしてそちらを見た。
そこには、金髪に脱色した髪をさらさらと伸ばす男子生徒がいた。眉を寄せながらこちらを観察している彼の髪色で、その人が同じ学年の素行の悪い螢野くんという生徒だとは僕でも分かった。
どうしよう、ととっさに怖くなった。この三人より、ずっとひどいことをしてくるかも──そう思ったのも束の間、螢野くんは僕のシャツを拾って歩み寄ってきた。
「男三人で、もやしをレイプ?」
「っ、ちげえよっ。ふざけんなっ」
「こいつが言うこと聞かねえから」
「そう、はだかで土下座させようとしてんだよ」
「そうなのか?」
螢野くんは僕を見た。まっすぐで、鋭利だけど、不思議と冷たさのない瞳だった。僕が反応にとまどっていると、螢野くんはこの軆の痣も見取って、「くだらねえ」と三人を睨みつけた。
「いまどき、女子ならこんなださいイジメやらねえだろ」
三人は気まずそうに目を交わし、胸倉をつかんでいた人は、急に僕を地面にぶん投げた。僕は小さく声を上げて地面に倒れこむ。
三人は気分が悪そうにその場をあとにして、それを見送った螢野くんは、僕のかたわらにしゃがむと肩にシャツをかけてくれた。螢野くんの煙草の匂いにどぎまぎしながら、僕は身を起こして「ありがとう」と言った。
「いつもこういうのされてんの?」
「えっ、……あ、まあ」
「抵抗しろよ」
「………、したら、もっとされるから」
「しなくてもされるだろ。ナメられてんじゃねえよ」
「……ごめん」
「ったく」
あきれた息をついて、螢野くんは煙草を取り出すと、それを吸いはじめた。「吸う?」と訊かれて、かぶりを振る。
僕はもそもそとシャツを着直して、下ろされかけていたファスナーも正した。そのとき、頭を揺すぶるような音量でチャイムが鳴った。
予鈴だ。教室に戻らないと。そう思って僕は螢野くんを見た。
「俺はサボる」
僕の視線に螢野くんは簡潔に答え、僕はぎこちなくうなずくと、「ありがとう」をもう一度伝えて、屋上をあとにした。
教室に戻ると、食べかけだった弁当がそのままだったので、慌てて包んでかばんに突っこんだ。それから、五時間目と六時間目を受けて、三人につかまらないうちに教室を出て、屋上に立ち寄ってみた。もう鍵がかかっていて、ドアの向こうに螢野くんもいないようだった。
ナメられてんじゃねえよ。螢野くんの言葉がよぎり、僕もそう思うけど、と心の中で言い訳しかけて、やめた。
しかし、その日からなぜか、僕は螢野くんに気にかけてもらえるようになった。休み時間は僕の教室を訪ねてきて、ときには帰り道でも並んで歩いてくれる。それでもイジメがまったくなくなることはなかったものの、螢野くんだけは僕を見てくれるのが嬉しかった。
僕はいつのまにか誰を信頼すればいいのか分からなくなっていた。家でも関心を持ってもらえない。イジメられている、なんて言えずに口数の減った僕に、両親はどう接したらいいのか分からない様子で、今日あったことを何でも報告する小学生の弟のほうをかわいがる。
ずっとひとりぼっちなのだと思っていた。誰も僕の膿んだ感情など気にせず、相手にされないのだと思っていた。でも、螢野くんは僕に目を止めて、澱んだ沼に沈みそうになっている心を引き上げてくれる。
次第に僕は、性別も忘れて螢野くんに惹かれるようになっていた。螢野くんがそんな僕の恋心に気づいていたのかは分からないけど、態度は特に変わらなくて、放課後になると、「帰るぞ」と僕の席にやってきてくれた。
七月になって、プールの授業が始まった。晴れた空まで蝉の声が響き渡る中、カルキの匂いがする青い水面から白い飛沫が上がる。
僕は全身に残る痣を見られたくなくて、焼かれるような地面に座って見学をしていた。体育の先生は、見学する生徒が気に食わないらしく、授業に参加しないなら授業後の掃除をしろと言ってきた。何人かの見学の生徒は、仕方なくブラシを持ってきてプールサイドをこすったり、網でプールに浮いたゴミをさらったりする。
僕はビート板を抱えて倉庫に持っていった。湿ったまま置いていっていいのかな、と考えていると、ばたんと背後のドアが閉まってびくんと振り返った。
誰もいない。僕はビート板を置いてドアを開けようとした。開かない。え、と混乱があふれてきて、がちゃがちゃとドアノブを動かしてみるけど、気づいて立ち止まる人の気配はない。
閉じこめられた? またあの三人?
さすがに洒落にならない。夏、こんな場所に閉じこめられたら、熱中症か脱水症になってしまう。どうしよう。こんなところ、螢野くんだって見に来ないだろう。
声を、出せばいいのかもしれないけど。まだ人は残っている。助けて、と叫んだら──僕はうなだれて唇を噛み、ドアに額を当てた。そんな勇気があるなら、そもそもあの三人に囲まれたときに抵抗している。
僕はいつも、言いなりだからダメなのだ。ナメられている通りの情けない奴だから。
人の気配も途絶えてしまった頃、壁際に座りこんで喉を渇かせていた僕は、がちゃっという音に顔を上げた。すでに頭がくらくらして、めまいが目の奥に刺さって痛かった。
視覚の色味がおかしく、光の中から入ってきたのは男子制服を着た生徒ということしか見取れない。舌が粘ついた唾液でざらざらしている。何か飲みたかった。相手が誰なのかとかどうでもよかった。水が欲しい。何か飲みたい。喉を潤したい。
僕は息を切らして頬をほてらせながら、ゆらゆらと手を伸ばした。「みず」と言った気がする。僕の腕をその人影がつかみ、太陽の下に連れ出した。
螢野くんだろうか。そう思った次の瞬間、肩胛骨をばしっと押されて僕は声を上げ、よろめいたまま青いプールに飲まれるように頭から落ちた。
ぶくぶくぶく、と白い泡が軆に絡みついて、体勢を立て直す力も入らなくて、きらきらする水面が遠い。溺れている、と理解するまでかなりかかった。水を掻いて立ち上がろうとしても、スラックスが水を含んで重たくて動かせない。ごぼっと大きく水を飲んでしまい、喉がカルキでぎゅっと絞めあげられた。
白いシャツの裾が青い光で透けるのがやけに綺麗に見えた。どんどん沈んでいき、尻がプールの底に触れて、手のひらをつけ、それから足の裏をつけた。もうひと息吸ってしまい、泡がごろごろと舞い上がっていく。僕は水面に手を伸ばし、どうにか底を蹴って頭をまっすぐ突き上げた。
ざばっと水圧を抜けたら、急激に真夏の光と音が降りそそいできた。めちゃくちゃに咳きこんで、涙を流し、物凄い動機で息切れが止まらなかった。
遠くから、下品な笑い声が聞こえてきて、次第に近づいてきて、すぐそばのプールサイドにいる三人だと知る。僕が茫然と大笑いする三人を突っ立って見ていると、不意に名字を呼ばれてあたりを見まわす。三人もそれにすぐ気づき、「先生かも」とか何とか言って僕を置いてプールから去ってしまった。
が、プールと更衣室をつなぐ渡り廊下で、骨まで殴るような鈍い音がした。僕はまだ咳も息切れも止められない。ただゆっくり水中を動き、プールサイドにつかまった。
また名前を呼ばれて顔を上げると、金髪が目に入って咲ってしまった。
「咲ってる場合じゃねえだろ」
螢野くんは僕の腋の下に腕をさしこみ、そのままプールから引き上げてくれた。全身びっしょりの僕は螢野くんに体重を預け、螢野くんのこともびっしょりにしてしまう。その胸に頬を当て、まだ荒い息をしながらもしがみつくと、螢野くんは僕の髪をごつごつした指で梳いて、顔を覗きこんできた。
「お前、もう学校来るのやめろ」
驚いて、螢野くんを見た。螢野くんは僕の髪をきゅっと絞っていく。
「ど……して」
「来てたってこういうことされるだけだろ」
「でも……」
「勉強なんか気にすんな」
「違……う、」
「何だよ」
「……螢野、くん」
「俺」
「学校、は……螢野くんに、会える」
螢野くんは僕の髪を絞る手を止めたものの、すぐに代わりに頭を撫でて抱きしめてくれた。
「学校じゃなくても会えるだろ」
「あ、会って……くれるの?」
「ああ。どうせ俺は夜、家にも帰らねえし。いつも行ってるところに連れてってやるよ」
「一緒に、いてくれるの……?」
「俺が一緒にいないと、お前危ないよ」
螢野くんに抱きしめられて、緩やかに呼吸が落ち着いていく。
螢野くんに会える。学校に来なくても螢野くんに会える。一緒にいてもらえる。
それなら、もう学校にも家にも未練などない。そこは僕を虐げ、無視して、気にもしない人たちばかりだ。
螢野くんがいればいい。螢野くんは僕を見ていてくれる。だったら、もうどんな常識だって捨てられる。
その日はちょうど弟がテストで百点を取ってきた。両親はそれを褒めるのに夢中で、僕など気にもとめなかった。二十時、家を出た僕はまだ蒸した匂いの空気の中、夜道を駅まで急いだ。
暗がりの中で、凛と虫が鳴いている。
あんまり広くない駅のロータリーの改札前で、螢野くんが私服で待っていてくれた。黒いシャツにインディゴのジーンズ、手首や胸元にシルバーアクセサリーが光っている。僕はオレンジのTシャツに、カーキのパンツを穿いていた。
「行くか」とうながされて、僕はこくんとして螢野くんについていく。後ろから、螢野くんの金髪がさらさらと揺れているのを見つめ、僕はこんなに汗をかいてしまっているのが、ちょっと恥ずかしくなった。
電車を一度地下鉄に乗り換えて、僕はほとんど来たことのない市内に出た。螢野くんは慣れた足取りですいすいとスーツの大人をよけていき、僕ははぐれないように必死でついていく。
オフィス街の先に、レンタルショップや居酒屋が並ぶ場所に出て、その中の細道に入るとヘルスとかクラブとかいう文字が当たり前に並びはじめる。さすがに臆して足踏みしそうになったとき、螢野くんが僕の手をつかんだ。
僕は螢野くんを見て、螢野くんは僕に優しく微笑んできた。
「怖い?」
「……少し」
「でも、お前に学校は似合わないよ」
「え」
「こういう場所なら、お前は必要とされる」
「必……要」
「俺の目に狂いはないからな。大丈夫」
螢野くんは僕を引き寄せ、耳元に口を寄せた。そして、甘い声でささやいた。
「稼げるよ、お前」
そして、螢野くんはすぐそばのビルの地下への階段に僕を引きこんでいった。稼げる、という意味が分からなくて、それに逃げたってひとりで駅に帰れなくて、僕は肩をこわばらせながら螢野くんの背中に隠れていた。
地下はクラブだったみたいで、暗がりの中、人が音楽で軆を揺すりながら揉みあっていた。螢野くんはそれを縫って、「今夜は新人でーす」と言って壇上になったところに僕を連れていった。
歓声や口笛が上がって、とまどって螢野くんを見上げて泣きそうになっていると、「この通り、何にも知らない素人くんなので」と螢野くんは僕の頭をさする。
「よければ、事後処理に自己責任持てる方、さあどうぞ食っちゃってください」
え?
僕は壇上から店内を見まわした。男。男、男、男! 男しかいない!!
何? ここは何? 混乱してるあいだにも、壇上に上がってきた男が群がってきて僕を押し倒す。「いや、」という声もすぐ唇に塞がれ、Tシャツは破られてパンツと下着は下ろされ、全身に手が這いまわってくる。
髪。喉。乳首。肋骨。背中。臍。そして脚は大きく広げられ、触れられて、突然頭まで突き抜けてきた刺激に声がもれた。
僕の声に周りは嬉しそうにどよめいて、「かわいい」「もっと」と僕の素肌を撫でまわしてくる。性器をぬるぬるした冷たいものがかけられて、それを潤滑油にこすられて僕はいっそうこらえきれない喘ぎ声を上げた。腰が蕩けて痺れて、繰り返し、快感が波打って放電される。
嫌なのに。こんなの気持ち悪い。怖いよ。どうして。螢野くん。螢野くんだけは、僕のこと──……
かろうじて、螢野くんのほうを見た。涙で視界は霞んでいたけど、螢野くんがお金をもらっているのは分かった。
螢野くん。そう、だよね。
一瞬、両想いかと思った。そして、夜にはふたりで自由になれるなんて。下らない青春映画でもあるまいし、何を考えていたのだろう。螢野くんは、僕の軆を男の獣欲に売って、お金が欲しかっただけだ。
今夜はもう逃げられない。もう仕方ない、犯された脚のあいだや顔にかけられた精液を写真に撮られても、何もできない。
螢野くんは言った。もう学校に来るな。言われるまま、学校に行かなかったら僕はどうなるのだろう。昼間もこういう場所で、螢野くんの金蔓になるのか。
だったら、毅然として学校に行くべきではないのか? また何度もこんな目に遭うなんて、そんなのは……
しかし、僕はその日以降、学校に行かなかった。すべて終わって、ぐちゃぐちゃになった僕を白い浴室で洗ってくれる螢野くんは、すごく優しかった。耐えがたい恐怖を襲われていただけに、僕はすがって泣いてしまった。
「ああいうのはつらいか?」と訊かれて、僕は躊躇ったもののうなずいた。その拍子突き放されるのも覚悟したが、「じゃあ」と螢野くんは鏡のそばに置いていたケースから、注射器を取り出した。
「……それ、」
「つらいことを乗り越えられる薬だから」
ちくん、と腕に針が刺さって、僕は震えかけた息を噛む。
「螢野……くん、」
「不安になったら、すぐこの薬をあげるから。俺と一緒にいてくれるだろ?」
僕は螢野くんを見て、うなずいていた。だから、学校に行かなかった。
毎晩いろんな店で見世物として男にまわされ、螢野くんのためにみずからしゃぶったり腰を振ったり、どんどん淫らに堕ちていった。それが次第に悦びになっていった。螢野くんのためになれる。誰かのためになれる。
ずっと、誰も、僕のことなんか必要としてくれなかった。でも、こうしてどんどん男にまみれて、覚えて、いやらしくなるほど、螢野くんは稼げる。僕も終わったあと、「洗浄」で穏やかな薬を打ってもらえる幸福がふくらむ。
この選んだ道に、けして光が射さないことは分かっていた。明るい場所は二度と歩けない。でも、僕は男に犯されているとき、螢野くんに洗われているとき、そして白い粉を溶かして静脈に打たれているとき、自分がうっすら光っているように感じるのだ。
生きる理由なんてないと思っていた。死ねばいいと思っていた。でも、僕は今、はっきりと生きている。ぜいぜいと息絶えそうなほど生きている。暗闇の中で僕の命は光っている。
それは、螢の光のようにもろく、頼りないのかもしれない。いつまでも灯っている光でもないだろう。そう、僕はまもなくこの光を失うことになることも知っている。
だからこそ、今、この肺はなだらかな光を発している。今このときだけは、僕の息遣いはやすらかに、愛おしく、暗闇の中で光っているのだ。
FIN