ナイフの夜
その客はまだ、裏を返しただけだった。だから、僕に不正をやるというのがどんなに恐ろしいことになるか、知らなかったのだろう。もしくは信じていなかった。
いらいらした僕の隣には、こまねいた弓弦がいる。「大丈夫か」と彼は僕を見て、「気分以外はね」と僕は口元の痣からもれる血を舐めた。
経緯はこういうことだった。僕と変わりない歳の客は、この連れこみ宿のロビーで僕と落ち合った。彼は愛の言葉も濡れた瞳もなく、僕の腕を乱暴に取ってエレベーターへと歩き出した。「部屋は?」と訊くと、「もう取ってある」と酒か薬につぶれた声で返される。こういう街娼向きの客は嫌い、と思っていると、三階の部屋にはほかにふたりの男がいた。
「誰」
「俺の友達だ」
「出ていってもらえる?」
「見せるだけだ」
「じゃあ、見物料ちょうだい」
こういう客には、低級な直接駆け引きに限る。婉曲にすりよったって鼻であしらわれるか、最悪、趣旨に気づいてもらえない。
「ケチケチすんなよ」
「それが僕の商売なんだ」
「ホモ淫売がきどりやがって」
眉を上げかけたが、「はらえないなら帰るよ」と僕は落ち着きを努めて彼の腕を振りはらった。
すると、彼は細いながら力はある腕で僕の腕をつかみ、僕を室内に引きずりこんだ。僕はおとなしく引きずられ、ベッドに荷物みたいに放り投げられる。馬乗りになった彼とベッドの左右に寄ってきたふたりに、僕はうんざりした息をついた。
「約束は守ったほうがいいよ」
「買えばどうしたっていいんだろ」
「三人ぶんの料金をよこせばね」
「お前も男が好きなんだろ。素直に喜べよ」
「僕はあんたの趣味につきあうのが仕事」
趣味、なんて言い方は大好きな男たちにはまずしない。僕の言葉に、彼は癇に障った顔になった。
「どういう意味だよ」
「違反やるなら、もっと頭使いなよ。僕にバカやったって、どうなるか知れないよ」
「店にも縛られてないくせに」
「僕を誰から買った?」
「友達だよ。そいつがどっからかお前の予約を取ってきたんだ」
「僕が誰の傘下か、知らないんだね」
「大したことないんだろ。ホモ相手の淫売なんか、みんな低級さ」
「あんたみたいなホモがいるから、ホモがバカにされるんだ」
「何だと」
「そんな茶色の髪しちゃってさ。ホモだからグレたんだろ。お前みたいに陰気で卑劣なホモがいるから、ホモは受け入れられないんだよ。ホモが変態なんじゃない、お前が変態なんだよ。病気野郎、子供も作れない竿ならインポになってくたばっちまえっ」
彼は眼をたぎらせて僕の左口元を殴りつけた。ふたりが僕の両腕を抑えつけ、彼は僕の服を引きちぎろうとする。途端、僕はもだえて泣き出した。
「やめて」
「遅いんだよっ。そうだよ、俺は病気野郎だよっ。父親と同じこと言いやがってっ」
「ごめんなさい。だって殴るとは思わなかったんだもん。お金が欲しかっただけなんだ」
「金なんかよこすか、ここで犯しまくったあと殺してやるっ」
「やだよ。ごめんなさい。じゃあ、お金いらない。まわしてもいいよ。殺さないで。自分で服も脱ぐから」
彼は僕を見た。僕はぽろぽろと涙をこぼす怯えた目を返す。彼は満足げに鼻で嗤うと、ふたりに手を離させた。
「じゃあ脱げよ」
「シャワー浴びたい」
「ここで脱げ。カミソリでも持ってこられたらたまんねえよ」
僕はうなだれ、涙を拭いた。「降りてもらわなきゃ」と言うと、彼は僕の腰を降りた。身を起こした僕は、鼻をすすりながらシャツを脱ぐ。「下も」と言われてジーンズのジッパーもおろす。
そして、尻を剥くために後ろに手をさしこみ、ジーンズを腿におろそうとごそごそとした。三人は気を抜いて目配せしあっている。僕はまばたきで涙をはらった視界でそれを確認すると、不意にもぞもぞしていた手を引き抜いて、かたわらにいた男の腕を切りつけた。
容赦なく切りつけたので、僕の頬にも真っ赤な液体が飛んだ。僕の手は飛び出しナイフを握っていた。
思いがけない僕の武器に残りのふたりは息を飲み、その一瞬の隙に、茶髪の首を取って喉にナイフを押しつける。そして突っ立つ残りのひとりに目を向けた。
「あんた、ケータイ持ってる」
「え、あ……」
「誰か持ってないのか」
三人とも何も言わず、僕は舌打ちしてさらに彼にナイフを押しつけた。しょせんチンピラ止まりの彼は軆を硬直させている。痙攣した息に酒の臭いがした。切りつけた奴は慮外の出血に狼狽えていて、僕は立ち往生の彼に目を戻すと、ベッドスタンドの電話に顎をしゃくった。
「それをこっちに持ってこい」
「え……」
「早く! こいつの喉掻っ切らせたいのか。本気だからなっ」
男らしいどぎつい声で言い、ナイフを握る手に力をこめる。肩を硬くさせたのは茶髪野郎で、彼はたたずむ男に哀願じみた目を向けた。
男は僕に電話を持ってきて、僕は傷口を手で抑えるバカを尻目にフロントにかけるよう指示した。フロントにつながると、この状況と弓弦をつかまえてほしいのを伝える。弓弦、という名前に三人はさっと顔色を失った。『簡単につかまるか分からんよ』とフロントは面倒そうに言ったものの、弓弦は三十分ぐらいで数人の仲間を連れてやってきた。
そんなわけで、三人は弓弦の仲間たちに罰の拷問へと連れていかれた。室内には僕と弓弦が残っている。ティッシュで血をぬぐってナイフを折りたたむ僕に、「そんなもん携帯してたのか」と弓弦はあきれた目をする。
「最近物騒だしね」
しゃべると殴られた口元が少しずきりとする。でも、もちろんあの雑言は挑発だったので、しっかり食い縛った歯に舌は切れていない。
「僕、腕力ないし」
「どこに持ってたんだ。ポケット? ぶらさげてはないよな」
教えるはずがない。その実、ジーンズの内側に引っかける細工して、そこにいつも備えている。
「お前って予想以上にやばいんだな」
「弓弦だって、一匹狼で仕事やってると思ったら、部隊つれてるんだ」
「上の人にさしむけられた奴らだよ。俺直属の部下なんてのはいない」
「ふうん。ごめんね、いそがしいのに」
「いや。お前に傷が入れば、豹さんに顔向けできないし」
まあそうだ、と思っても、さすがにえらそうなので口にはしない。僕はあの三人を遠ざける確認を弓弦に取った。弓弦は首肯しつつ、「あいつの声聞き憶えないんだよな」と綺麗な顔をゆがめて頭をかく。
「この時間、お前を買ったのは、サクライって奴だけど」
「あいつもサクライって言ってた。裏なんだよね」
「え、じゃあ初会は」
「初会はいい子だった。乱暴だったけど。あいつ、友達に僕の予約もらったって言ってたよ」
「……そうか。くそっ、やっぱそのへんには対策立てないといけないな。足つかずに何かされても遅いし。どっちかが偽名なんだな。予約入れた奴も探っとくよ。芋蔓も出てくるかもしれないし」
僕はうなずき、ナイフはいったんポケットに入れた。これを使ったのは久しぶりだった。腕を揉み、ちょっと振りまわし具合がにぶってたな、と歳を痛感する。
シャツを着る僕に、「タトゥーなんかしてたんだ」と弓弦は黒い白鳥に目を留める。「まあね」と説明はせずに心臓をシャツに隠すと、ジッパーも上げた。
ボーイに片づけを任せた弓弦と別れても、僕はむすっと機嫌が悪かった。僕には人を傷つければ爽快になるなんて趣味はない。代金もなかった。無事助かったのが何よりのも代金、と言われたらそれまででも、やっぱり利益がないのはムカつく。
暗く突き抜ける空の元で、ネオンも雑音も騒がしい。けれど、人混みは下り坂に乗りつつあった。時刻は四時をまわり、夜明けまで二時間もない。空は朝の気配を感じさせる直前にいた。このあと、予約はない。
くわえた煙草の匂いが、香水の匂いをかする。とがった神経に体温が高く、夜風も煙たさを顔にふっかける煩わしいものにしかならない。いらだつ僕は煙を肺に溜め、トゲっぽい動作ですれちがいざまの人間を縫っていった。
ビル街で前方に珠生を見かけたとき、何としてでも彼を無視しようとした。が、その気合がかえって何か発したのか、珠生は僕に気づいて歩み寄ってきた。
露骨に黙殺しようとしたら、露骨に立ちはだかられた。ポケットにさしたままの、手にしやすいナイフを忘れようとしつつ、「何だよ」と黒い瞳を睨めつける。
「怒ってる?」
「怒ってるよ」
「お前の顔って、怒るのが似合うよな」
「口説き文句ですか。僕はマジで怒ってるよ。殺されたくなきゃ今度にしな」
「何で怒ってんの」
「お前には関係ないだろ」
「俺に逢ったから」
「るさいなっ、どうでもいいだろ。そう思うんなら身い引けよ、僕はいつもお前の顔なんか見たくないけど、今はもっと見たくないんだ。分かってんだろ、とっとと失せろっ」
僕の投げやりな言葉に、「唐突だな」と珠生は鼻白んだ。僕は彼を右によけて歩きだす。しかし、こんな状況ほど珠生はつついて揶揄いたくなる人種だ。その性悪はいまだ残っているのか、珠生は僕に並行してきた。
「客と何かあったのか」
「さあね」
「やっぱ高級じゃないとごたごた多いよな」
「うるさいんだよ」
「やつあたりすんなよ」
「お前がさせてるんだろっ」
つんのめるように立ちどまり、ぎっと珠生に殺意を突き刺す。珠生の黒髪が風に揺れ、忌ま忌ましい艶めきが赤い光を映す。
「僕がお前を嫌いなのは知ってるだろっ。いいか、僕が世界一憎ったらしいのはお前なんだよ。僕はお前と仲良くにこにこする気なんてないし、そんなのをするなんて想像しただけでゲロが出そうなんだ。分かるか、僕はお前のことを今でも怨んでるし、一生怨みつづける。未練がましくたってな、お前は僕にとって悪魔なんだよっ」
珠生はじっと僕を見つめた。僕は粗暴に足を踏みだした。「碧織」と珠生は僕の左手首をつかみ、僕は黴菌がたっぷりこびりついた手に触られた猛烈な嫌悪に、その手を鋭く振りはらった。
「触るなっ。お前、自分の生ゴミみたいな臭い分かってねえのかよっ。ったく、お前にはうんざりだよ。僕の目の前を馴れ馴れしくうろちょろすんな、虫酸が走るんだよっ」
僕の手ひどいはねつけに、珠生は信じられない顔になった。黒い両目に、傷ついた色を浮かべたのだ。しかし僕は罪悪感よりさらなる憎悪を覚え、彼に渾身こめた平手を食らわせると背を向けた。
悪いことは続く。部屋ではとうとう夏乃が帰宅し、回復していた毬音をめためたにしていた。僕を見るとこちらに飛びかかり、まだ鏡台を直していないとか、そのへんのことをわめいた。毬音は空き部屋に行き、僕と夏乃は、僕が夏乃を半殺しに仕留めるまで取っくみあいつづけた。
死にかけた夏乃をベランダに放り出すと、僕は彼女が持ち帰ったらしい荷物に白い粉を見つけた。注射はない。僕はアルミホイルをちぎり、一連の作業をすると煙草に使う百円ライターで炙った。ストローも作らずに煙を粗雑に吸うと、床に寝転がってきいてくるのを待った。冴え渡っていく感覚にわけもなく愉しくなってくると、僕は笑い茸に当たったように笑いつづけ、このままふとんにもぐりこんで寝てやる、と決めていた陰気ないらつきを消滅させた。
シャワーを浴びたり夕食を作ったり、でも食べる気はしなかったので毬音を連れてきて食べさせたりした。「おいしい?」と笑顔で訊くと、毬音は気味が悪そうに小さくうなずいた。僕は咲いながら彼女の頭を撫で、その日は眠らずに永らく放っていた掃除なんかをやったりした。
夏乃が伸ばした爪でガラス戸をひっかき、その凄まじい音にいきなり裏返り、引きずりこんだ彼女をさらに打ちのめしたりもした。
思い起こせば、今日は休息日だった。こんな状態で仕事に行っても、ろくなことにはならない。よかった、と落ちてきた効果に現れた理性のかけらで思う。キッチンの棚の引き出しにある睡眠薬を飲み、ふとんを敷くと、僕は流出していく力に動けなくなって深い眠りに落ちた。
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