青氷の祠-32

回想【8】

 何もかも、珠生に再会したのが悪かった。珠生との再会は、悪夢をもたらす。現在でも僕はそれを痛感しているが、以前にもそれを経験したことがあった。
 豹さんのところに逃げこみ、蛍華さんも珠生も忘れて自立しようとしていたとき──僕は最初の一歩を足払いされるように、珠生に再会した。
 珠生に再会する以前から、僕にはその高級宿がしっくり来なかった。イジメられたわけではない。むしろ、かわいがってくれるおにいさんが多かった。僕もおにいさんたちが好きだった。置屋の食堂で、おにいさんたちは自分の客のことをおもしろく話して聞かせてくれる。それを聞くのも勉強になって楽しかった。
 豹さんの名前が重かったわけでもない。何もかもうまくいっていたのに、何か僕はそこになじめなかった。あるいは、うまくいきすぎたので、受容の切っかけがなかったのかもしれない。
 初めの頃、僕はようやく就けた男娼の仕事に何もかもが嬉しかった。僕の初めての客は、豹さんや店の経営者、僕に入れこみをしたおにいさんたちの総合意見で決まった、穏やかで優しい人だった。それでも僕はめちゃくちゃに緊張し、心臓が痛いぐらいに高鳴っていた。けれど、部屋に入ってその人と顔を合わせた途端、不思議と柔らかに笑顔を作れた。
 ベッドのほかにソファなども置かれた、淫売宿っぽくない、ごく普通の部屋だった。四十絡みの小太りの彼はソファにいて、僕のすがたを見ると笑みになって、隣に呼びこんだ。僕は彼の隣にちょこんとすると、さりげなくそのふかふかの脇腹にもたれる。
 しばらく、取り留めのない話が続いた。今朝何を食べたとか、隣人が越してきたばかりでなじめないとか。僕はにこにこと聞きながらも、早く肌に触れてほしかった。もう、ふた月も男に触れられていない。焦れた想いを隠してお行儀よくしていると、ふとその人は昨日刺したばかりのピアスに触れてきた。
「綺麗なピアスだね」
 彼の熱が耳たぶにじわりと流れ、僕はその心地よさに胸を溶かした。
「よく似合ってる」
 彼は僕の櫛を通したての焦げ茶の髪を撫で、その手をそっとうなじに這わせた。「かわいいよ」とささやくふりで耳たぶを舐め、僕はその湿った舌の感触にぞくぞくする。
「名前は」
「天海」
 このときの“天海”も、豹さんがくれた名前だった。天と海、どちらも青で、まあ本名の“碧織”を捻った名前だ。
 今日は心を読まなくても、この人が僕と添い寝できれば満足するのは聞かされていた。彼は僕を向かい合って膝に乗せると、太い腕で細い軆をぎゅっと抱きしめた。その力は思ったより強く、でも僕はもっと擁されて、彼と密着したかった。彼の軆はちょっと変な臭いがした。
 軆は熱く、息遣いが耳元にじかに聞こえる。僕は完全に陶酔し、こちらこそ喉が震えた息を吐きそうだった。たまらない興奮に、細胞が歓声をあげている。まぶたをおろし、視覚が白目に飛びそうなのを守った。
 僕の背中を暖めるようにさすっていた彼は、やがて僕を尻から抱き上げるとベッドに連れていった。そして、自分も隣にすべりこむと、僕をすっぽり腕におさめて泣いた子をあやすようにずっと軆を撫でていた。僕は彼にしがみつき、今自分は淫売をやっている、その事実でじゅうぶん恍惚としていた。
 置屋にも揚屋にも、不自由はなかった。置屋では食堂のほか、テレビやゲーム、本を読んだり音楽を聴いたり、シャワールームなんかも完備されている。揚屋も部屋は一定でなく、上階になるほど部屋の造りは高価に上品になり、ボーイなどもうろついている。僕たちは客引きする必要もなく置屋に勤め、その日に予約を入れている客と揚屋で出会い、安全に清潔に抱かれる。客が男娼に乱暴を働けば、その客は消された。
 もともとこの世界にいてコネで流れてきた男娼もいれば、早いところ大金を稼いで夢を叶えたいという男娼もいた。言うまでもなく、こんな優雅な勤めがふさわしいほどみんな逸品で、僕も早く先輩たちのようになりたいと思っていた。
 思っていたのになれなかった──おそらく、それが最大の不満の原因だ。僕の才能が追いつかなかったわけではない。おにいさんたちは、本当に柔軟に客を喜ばせている。形式的な情交から変態的な趣味まで、あらゆる客で技術や具眼を鍛えている。驚愕や嫌悪や惘然や、いろんな壁にあたってはそれを切り抜けて取りこんでいく。
 僕には、その機会がなかった。未知なる客がいっさい来なかったのだ。あの水揚げのときのような、安全で分かりきった客しか流れてこなかった。初めはそのほうが手慣らしも兼ねられていてよかった。でも、いつまでも触られてため息をつかれるだけで帰っていかれては、つまらなくなってくる。
 僕は客と寝るのを許されなかった。せいぜい、下着をつけたままの口づけだ。だいたいは服に手を探り入れて肌に触れるとか、ジーンズの上から性器を撫でるとか、もしくはその逆とか、そんなのばっかりだ。しかも、その客が何を好むかは初めから聞かされている。
 僕は、蛍華さんやおにいさんたちがしているような淫売がしたかった。秘匿された異様な趣味を解読し、全裸になって肌を重ね、卑猥な言葉をささやき、荒々しい男根で強くつらぬかれたかった。でも、僕にそんな客は絶対来なかった。誰が許さなかったかと言うと、豹さんだった。
 豹さんは、僕に危険な客を流さなかった。乱暴な客も、異常な客も、貪欲な客も、とにかく深い仲になるのを求める客からは僕を隔離していた。口づけたり、触ったり、中には、話すだけの客すらいた。あの頃、それで自分がどれほど稼いだのか、僕は正確に知らない。代金はチップさえも僕でなく店が引き取り、僕には一部しかまわってこなかった。それだけでも、人並みに稼いでいたとは思う。だが、それだけでは嫌だった。金が欲しかったのでなく、ただ単純に、もっと直接的に客と愛しあいたかった。
 こんなので稼げるのが、いい身分なのは分かっている。性器をさらさず、下等淫売が本番を五回以上売っても追いつけない額を稼いでいる。でも、僕には屈辱だった。下等淫売のほうが、甘ったるい声をあげるだけ、正しい淫売である気がした。
 ホステスになったみたいにみじめだった。水割りを作ってにっこりするだけで稼ぐ。普通はそちらのほうが誇りが保たれているように見えるのだろうが、僕にはそんな綺麗ごとは醜くてしょうがなかった。自分を乱暴に揺すぶる肉体にしがみつく。僕にはそちらのほうがよほど淫売として高貴で、本物だった。
 豹さんが僕を心づかっているのは分かっていた。僕には危ないことはさせたくなくて、保障された客のみ流すのだろう。豹さんの特別な愛情は、銀のピアスを見るたび思い出した。
 豹さんがそう言うのならと、僕はこの立場に誇りを持とうとした。激しい愛に侵害されたい願望を抑え、これは上位の勤めなんだ、と荒い息をこらえて抱きすくめるだけの客の腕に身を任せた。
「兄貴は天海が心配なんだよ」
 折り合いをつけようとしながらも、僕には当たり障りない客への不満が降り積もっている。そのへんをつい食堂で先輩のひとりに愚痴ると、バターと蜂蜜がたっぷり織られたトーストを食べるシーナさんはそう言った。
「心配」
「大切なんだ。天海もそれは分かってるだろ」
 とろみが優しいコーンスープに口をつけ、白いテーブルに目を落とす。分かっている。それでも、過激な客が欲しかった。豹さんの心を踏みにじりたいわけではないのだ。ただ、男娼として、成長はしたい。
「兄貴は天海をかわいがってるもんな」
 くすくすとしたこのシーナさんは、僕に入れこんだ先輩のひとりで、今年でちょうど二十歳だ。全体的にもしなやかな青年ながら、鎖骨や手首といった部位がとくに繊細だ。ここで資金が溜まったら、外国のデザイナー学校に行くらしい。
「きっと兄貴は、天海にこんな仕事をさせたくないとも思ってるさ」
「……そうかな」
「うん。天海のほかにも、兄貴の紹介で来た子っているけどね。思い入れでは、天海が一番だよ」
「でも、……別に、豹さんの気遣いが迷惑ってわけじゃないよ。それでも、僕の仕事は僕の仕事だし」
「そう言ってみたら」
「どう言えば、拒絶じゃないって分かってもらえるかな。僕、変な客でも大丈夫だよって信じてほしいだけなんだ」
「実力をつければいい」
「つけるのを邪魔されてるんだよ」
「そんなことない。なじみの客ができたらやってみるといいよ。先に進んでもいいような雰囲気を出した人に、チップをねだるみたいに深みをほのめかすんだ」
 僕は銀のスプーンでコーンスープをかきまぜた。「兄貴には黙っててね」とシーナさんは入れ知恵をちょっと気にする。それにはきちんと請け合い、早くもめぼしそうな人を客の中に探した。
 相反している、成長への後ろめたさもあった。豹さんへの忠誠心だろう。僕はあの人だけは裏切りたくなかった。傷つけたくなかったし、失望させたくなかった。僕は男娼として大成したい反面、豹さんのお気に入りという立場も保持したかった。豹さんが分かってくれればいいのに。そう思っても、豹さんはいつまでも僕には滅菌済みの客しかよこさなかった。

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