青氷の祠-33

回想【9】

 どうにもできずに、ホステス稼業に身を預けていると、春になっていた。風が暖かさに柔らかくなり、灰色にくすんでいた空の色が抜けるように澄んでいく。引退までこんなバカみたいな売春やってんのかなあ、とややグレた感想に気を遠くして出勤していると、突然肩をたたかれて振り返った。
「久しぶり」
 その清涼な声に、目を剥いた。一瞬、信じられなかった。このときも思った、そう思いたかった。自分は幻覚を見ているのかと。でも、美しい黒い瞳は、現実で僕に微笑みかけていた。
 紺のシャツにアイスブルーのジーンズを合わせた、珠生だった。
「……珠生?」
「そお。ふふ、ほんと久しぶりだな。元気だった」
「………、何で」
 ここは元の部屋とそう離れたところではなくも、違う縄張りではある。左右に上位の売春宿が連なり、夕暮れが出勤中の淫売たちを照らしている。なぜ珠生がこんなところにいるのだろう。
「碧織に会いにきたんだ」
「え……」
「おしらせがあってさ」
「何で僕がここにいるって」
「豹って奴に訊いた」
 まぶたを押し上げた。その反応に珠生はおかしそうに笑い、「冗談だよ」とたやすくあしらう。とっさに僕は、それが本当か出任せか見破れない。
「うわさで聞いたんだよ」
「……うわさ」
「このへんで、あの豹って奴の秘蔵っこが名前上げてるってね」
「……そう」
「ほんと?」
「え」
「名前上げてるにしては、大して変わってないな。地味」
 口元をぴくっとさせ、「ほんとだよ」と強く言い返した。珠生は余裕を崩さず、右手を腰に当ててくすくすとしながら僕を眺める。不快感に僕が顰め面になっていると、「じゃあよかった」と珠生は笑いを抑えて右脚に重心をかけた。
「来た甲斐があったよ」
「……何で」
「仲間になったんだ」
「は?」
「俺も男娼になったの。冬のあいだ店に泊まりこんで入れこみされて、この春にね」
 珠生を凝視した。珠生は僕の動揺に満足げにして、夕陽を溶かす頬に口辺を切れこませる。
「だって、お前、まだ十歳じゃないか」
「へえ、俺と並んで年上に見える自信あるんだ」
 唇を噛んだ。悔しいが、僕と珠生では彼のほうが年上に見えた。僕より背も高く、何と言ってもその顔の完成度が大人びている。
 艶々と春風になびく黒髪に、僕は長いこと気にしていなかった焦げ茶の柔らかい髪に劣等感を覚えた。
「その台詞、俺は碧織に言いたいな。そのガキ面で、どうやって客取ってんの? それともショタ専門」
「普通の客を取ってる。専門の淫売にはなるなって豹さんも言ったし──僕の客は、全部豹さんが紹介してるんだ」
「斡旋か。やっぱ自力じゃないんだ」
「客引きなんかするところじゃないんだよ。豹さんの紹介なんて、すごい価値があるんだ」
「そう。じゃ、せいぜいあのおっさんに嫌われないようにぶりっこしなくちゃね。飾ってくれるあの人がいなきゃ、お前の軆はそのままクズあつかいだったから」
 聞きたくなくてきびすを返した。背後に珠生の皮肉な笑い声が聞こえた。駆け出すのは嫌で、気にしていないように毅然と歩く。さいわい珠生は追いかけてこなくて、僕は角に曲がると心臓のあたりをつかんで瞳と息を抜いた。
 珠生が男娼になった。反射的によぎった直観に愕然とした。
 ダメだ、負ける──
 珠生はちょくちょく会いにくるようになった。来るなと言っても、心配だから、とかわざとらしい口先を述べてつきまとう。
 やっと逃れられた珠生の嫌がらせの再開に、本気で泣きそうだった。豹さんに頼んで珠生を遠ざけてもらおうかと思っても、そんなのをしたって、自分でどうかしろよな、とかえって珠生に嘲笑されそうだった。
 光樹は中学生になり、さらに学校に縛られて街に逃げこむ自由を失っている。僕はひとりで、珠生の心ない皮肉や耳につく嗤笑に耐えなければならなかった。
「あーあ、才能ない奴が無理してんのって痛ましいな」
 日にひとりかふたり、多くて三人しか客を取れない──取らせてもらえない──のをしゃべってしまったとき、珠生はそう言っていちいちため息をついた。
「そんなんだったら、やめちまって素人になったほうが稼げるんじゃない? 俺みたいに蛇みたいな列作らせるのが、向いてるって言うんだよ」
 会うたびに珠生の名前が大きくなっているのも嫌だった。彼の源氏名──“希水”は僕の周辺にまで響き渡り、すぐに周辺をつきぬけて陽桜に、街に、外にまで広がっていきそうな勢いで売れていっていた。
 僕が珠生のところに行くなんてことはなく、すべては聞くだけだったのだけど、それでも日に日にふくれあがる珠生の人気は本物だった。珠生は自分の実力を承知し、僕にひけらかした。僕より彼のほうが一流なのは、あがきようのない事実だった。
 僕だって、きちんと抱かれたら立ち向かえるのに──そう思って、ますます客と深い仲になるのに固執した。そろそろいいんじゃない、と豹さんに甘えてみたりもしたが、豹さんは本を閉じるみたいにすぐ話を打ち切ってしまう。
 淫売の才能もさることながら、珠生は他人に取り入るのがうまかった。成功の半分が、その要領のよさのおかげだったのではないだろうか。
 とにかく彼は、人を簡単に自分になびかせた。人の心を、木の実より簡単にもぎとる。彼はその才を、最大限に淫売に利用していた。自分に目を向ける気もなかった客を、気のあるそぶりや刺激的な印象で振り向かせ、釘づけにする。人から寝盗った客を多く持っていて、僕もたくさん盗られた。
「そんなにいそがなくてもさ」
 振り切って店に逃げこもうとする僕に、珠生は苦笑混じりに言った。
「俺が客を引き取ってやったから、余裕あるだろ」
 珠生は、僕の客をあえて奪っていったように思う。もっとも癪なのは、珠生は先に進みたい雰囲気をちらつかす客ばかり狙い、必ず仕留めたことだ。そんな客たちに探りを入れ、珠生は僕が軆を開きもしていないことを知った。
「お前、やらせもせずに淫売面してんの」
 このとき珠生は、嘲笑すらしなかった。本気で驚き、責めるように軽蔑してきた。季節は梅雨で、今は降っていないながら、スニーカーがにじるアスファルトは湿っていた。
「ほんとにやらせたことないのか」
 僕は珠生にやましい上目をし、嘘もつけずにうなだれるようにうなずいた。珠生は吸気し、呼気と共に引き攣った笑いをもらす。
「じゃあお前、淫売失格だよ」
 殴られるのを構えるみたいに、肩にぎゅっと力をこめて歯を食い縛った。実際、ぶん殴られた気分だった。それだけは言われたくなかった。
「じゃなかったら、はなから淫売じゃないかもね」
 橙色のネオンを映す、珠生のなめらかな頬を引っぱたきたくなった。こらえるためにこぶしを作り、だが、そうしたらもっと殴りつけたくなってジーンズに手のひらを押しつけた。
「触らせるだけで稼ぐなんて、そんな綺麗ごとは詐欺だよ」
「豹さんが管理してるんだ」
「そんなん、破ればいいじゃん。お前、口で言うほど淫売に身をかけてないんだな。そんな建て前で保身取ってさ」
「建て前じゃない。お前には裏切りたくない大切な人がいないから分かんないんだ」
 珠生はこたえずに目を細め、「おまえのやり方が一番汚いよ」と鼻先で嗤った。
「蛍華さんだって嗤うだろうな」
 何かが白光に破裂し、身を返してその場を走り出した。帰宅途中だったので、マンションの立ち並ぶあたりへと人混みを突っ切っていく。喉がひりひりしていた。頭が痛切に錯乱し、うまく言葉にまとまらない疑問が涙となってあふれそうになる。
 何で。どうして。何であいつは、僕にあそこまで言うんだろう。一番言ってほしくないことばかり言うんだろう。言われなくても分かっている。なのに、どうしてわざわざあげつらって──どうしてあいつは、僕をバカにするのがあんなに楽しいのだろう。
 水たまりを踏んでしまい、はっと立ち止まった。びちゃっと水がジーンズに跳ね、生地が素肌にべたりとする。右足を引き、目をつぶって唇を噛みしめた。悲鳴や涙の放出をこらえ、何とか軆の奥につめこもうとする。
 周りには、いつも通りの喧騒がさざめいていた。空気は蒸し暑いながら、雨の気配に風に冷たさはある。折り曲げて折り曲げて押しこむように、何とか情動を心の底にねじこむと、そっとまぶたの力を抜いて目を開いた。
 かすかに揺れを残す、水たまりの水面にきらびやかなネオンが映っている。赤と、青と、白と、橙と──光が暗い水面に揺らめき、それはさながら涙を通した景色だった。たたずんでそれを見つめていた。揺らめく景色が、いつ本当の涙のせいになったのかは分からない。僕はもう一度まぶたを伏せると、とぼとぼと足を引きずって部屋に帰宅した。
 珠生が男に抱かれているのを想像する。ふたりきりの部屋で、甘い音を立てて口づけを交わし、珠生の白い腕はさりげなく男のうなじにまわる。舌が深く絡みあい、男は珠生の真紅を吸血鬼が血をすするようにむさぼり、欲望にのしかかられて珠生をベッドに押し倒す。
 珠生の服を脱がせながら、すらりとした指に服を脱がされる。汗ばんだ肌が重なり、愛おしむ口づけが静かな部屋に響く。珠生の蜜のような匂いが、愛される幸福にふわりと強くなる。さらされた性器は硬く成長し、男は珠生に分け入り、珠生はなめらかな喉を剥いてそれを受け止める。
 切ないベッドのきしみに、澄んだ喘ぎと太い息遣いが紛れこみ、やがて男は脳天がくらつく絶頂に達し──
 僕だってできるのに。その確信はあるのだ。させてもらえれば、僕だってそれぐらい売り物にできるのに。
「ねえ、お願い。もっと普通の客を取らせてよ」
 男娼になって一年も過ぎた頃、ついに僕は我慢できずに豹さんに訴えた。レストランに向かう車内で、雪がちらつく闇夜だった。僕の客は、依然として箱入りのごとく安全で、これまでで一番きわどかった客といえば、僕を全裸にして性器をしゃぶった客だった。
 信号で停止した豹さんは、切実な声でそうすがる僕に目を向け、「ダメだ」ときっぱり両断した。
「どうして。一年にもなるんだよ」
「お前に妙な客は流さない」
「いっぱい勉強したのに」
「あとのことは言い切れないが、今のお前には、今の仕事が最適なんだ」
「どうして。あんなの素人だってできるよ。それとも、僕は素人止まりなの」
「お前には才能がある。本物のな。安売りはさせない」
「才能あるなら使いたいよ。使う前に歳取って腐っちゃったらどうすんの。やだよそんなの。さっさといっぱい使いたい。過激な客取って、もっと──」
「稼ぎたいのか」
「稼ぎたいよ。気持ちよく稼ぎたい。何で男娼なのに竿をしゃぶらないの。中に来てもらえないの。抱かれたいんだ、もっとまともに。いっぱい犯されて、一流になりたい。そうやって稼ぎたい。で、誰にも負けない男娼になるんだ」
 豹さんは僕に哀しそうな目をした。その瞳に出会い、僕も淫乱じみたわがままをわめきちらせなくなる。信号が変わり、車は再び動きだした。
「珠生が男娼になったのは聞いてる」
 豹さんの表情のない横顔を見た。
「売れてるみたいだな」
「……うん」
「それを気にしてるのか」
「………、僕はあいつに負けてる」
「そんなことはない。彼の才能は外面だけだ。彼に集まる客は糞にたかる蠅みたいなものさ」
 僕は豹さんを見て、正面に目を戻すと、コーデュロイのシートに沈んだ。
「おまえは内面から男娼だ。お前の価値が分かる男にしか、俺はお前に手を出させない」
「そんなの、いつ来るか分かんないよ。結局淫売なんて番付でしょ。見ためでしょ。僕は珠生に負けてる。客の数も深さも段違いだよ。才能なんて、使わなきゃ意味ないよ」
 豹さんは僕をちらりとした。僕はその鋭い目に泣きそうな目を返す。
「お願い」
 豹さんは前方に目を戻し、「ダメだ」と堅物に繰り返した。
「お前に危険はやらせない」

第三十四章へ

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